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第442連隊戦闘団

だいよんよんにれんたいせんとうだん

第442連隊戦闘団とは、第二次世界大戦時にアメリカ軍において日系人のみで編成されたアメリカ陸軍部隊。
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概要編集

士官を除く全ての兵士が日系人(ただし韓国系アメリカ人1名を含む)で構成された部隊。周りからの差別と偏見と戦いながらアメリカに忠誠を誓い、ヨーロッパ戦線に投入された時は、「"Go for broke!"(「当たって砕けろ!)」を合言葉の元、枢軸国相手に奮闘し激戦ぶりは死傷率314%を示し、アメリカ合衆国史上、もっとも多くの勲章を受けた最強部隊である。別名を「パープルハート・バタリオン」とも言う。


結成編集

1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃すると、アメリカでは日系人に「敵性国民」のレッテルを貼り、大勢の日系人を全米10カ所の収容所に強制移住させた。しかし、同じ敵国のドイツ系、イタリア系のアメリカ人に対して大がかりな強制収容はほとんどされなかった。それに対して大日本帝国は「アジアの白人支配からの打倒」を謳い、アメリカでの日系人の強制収容を「白人の人種差別の実例」として宣伝していた。アメリカはそれに反駁する必要に迫られ、日系人の部隊を編制することになった。

翌年に、ハワイの日系二世で編成された第100歩兵大隊が誕生し、更に翌年に本土の強制収容所で志願兵で編成した第442連隊戦闘団が誕生した。


イタリアへ編集

第100歩兵大隊は、1943年に出征した当初はアジア系は使いものにならないという偏見から後方に配置された。しかし、大隊はこの扱いを不服とし、イタリアでの戦闘を志願し、第34師団に編入されたのち初陣から大活躍することになった。それから、損害を出しながらも次々と戦果をあげ、当初の評判は変わりもっと2世部隊を増援によこせと前線から要請を受けるようになった。1944年1月23日からイタリアのローマ解放のために激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘にも従事し、激戦に継ぐ激戦で大隊長以下大部分の兵士が負傷を重ねたためパープルハート大隊とも呼ばれるようになる。ローマを目指すが軍上層部の意向によりローマを目前にして停止命令が出され、6月4日に後続の白人部隊が先に入城してローマ解放の栄誉を手にした。部隊はローマに入ることを許可されなかった(これについては、白人部隊に栄誉をもたらせたかったためという差別説と、激戦が続き死傷者が増加していたので純粋に交替時期だったという説がある。なお、「後続の白人部隊」とは悪魔の旅団として独軍に恐れられた第1特殊任務部隊であり、独軍の撤退を防ぐべく市内の橋を確保するためのローマ入りだった)。


第442連隊も1944年1月からイタリアで戦いドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」で激戦を繰り広げ、5月にはローマ南方の防衛線「カエサル・ライン」の突破にも活躍し、第100歩兵大隊と同じくモンテ・カッシーノの戦いにも参加した。

6月11日に第442連隊の消耗を補うべく、第100歩兵大隊は連隊の第1大隊として編入される。しかし、戦功を挙げていた第100歩兵大隊の名称はそのまま引き継がれた。この措置に連隊側も大隊側も不満を持ち、当初はお互いに編入を嫌がっていたという。


だが、続く6月26日トスカーナ州ピサ県ベルベデーレの戦いでは442連隊第2・第3大隊の苦境を第100歩兵大隊が救い、この戦いをきっかけに両者は円滑な連携を組むようになる。


フランス戦線編集

9月29日から第442連隊は第36師団に編入されフランス戦線に参加し、10月15日にはブリュイエールの街を開放するべく、アルザスの山岳地帯でドイツ軍と戦った。険しい山岳地帯では戦車は使えず、航空支援も期待できない中、歩兵の力のみが頼りだった。

ボージュの森でテキサス大隊211名がドイツ軍に包囲されていたという情報が届く。そこで、ルーズベルト大統領から直接救出命令が下り、ボージュの森でドイツ軍と激しい戦闘をした末、テキサス大隊211名を救出する。しかし、第442連隊戦闘団はその4倍の死傷者を出し、割りに合わない結果となる。救出後、テキサス大隊の少佐が軽い気持ちで連隊を侮蔑する発言をしたため、442部隊の一人の少尉が激怒して掴みかかったため、少佐はすぐに謝罪して敬礼した。この戦闘は後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった。後に師団長であるダールキスト少将が謁見した際、あまりに整列している兵士達の数が少ないのを見て、「全員を整列させろといったはずだ」と不審がると、指揮官代理から「目の前に並ぶ兵士が全員です。残りは戦死か入院です」という回答が返ってきたので唖然としたという。


その後編集

それから、第442連隊戦闘団はイタリア戦線に呼び戻され、ドイツ軍最後の防衛線「ゴシックライン」に投入される。そこは、2個師団が半年かけても落とせなかった難攻不落の防衛線だったが、第442連隊戦闘団はわずか30分で落とすという名実ともに最強であることを示した。その後、終戦を迎えワシントンに凱旋した442連隊の表彰式が行われ、トルーマン大統領は連隊を直接出迎え、「君たちは敵と戦っただけでなく、偏見と戦い、そして勝った。この戦いを続ければ、常に万民が幸福であれ、と憲法でうたうこの偉大な共和国が、幸福の象徴としてありつづけるだろう」と称えた。ちなみに、大統領から直接出迎えられた米軍部隊は、第442連隊戦闘団だけであった。

部隊は1946年に解散したが、戦後もアメリカ白人の日系人への人種差別に基づく偏見は変わらなかった。部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちも、白人住民から敵視・蔑視に晒され、仕事につくこともできず財産や家も失われたままの状態に置かれた。


しかし、日系人はその勤勉さと教育熱心さで経済的にも成功した者が多く、戦後も粘り強くその地位を向上させる。1960年代の公民権運動の後、人種差別政策が次々と撤廃され、日系人は「模範的マイノリティー」と賞賛されるようになっていった。ヨーロッパ戦線の活躍により現在のアメリカ陸軍では、第442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は必修課程となっている。


関連タグ編集

アメリカ軍 日系人

ダニエル・イノウエ:戦闘で右腕を失う。除隊後政治家となり、大統領就任序列2位(副大統領のすぐ次)の上院仮議長を務める。2021年12月にその名を冠したイージス艦ダニエル・イノウエ(DDG-118)が就役する。

プライベート・ライアン(テキサス大隊救出作戦をモデルに作られた映画)

戦場のヴァルキュリア3(この部隊がモデルだと思われる422部隊がある)

宇宙戦艦ヤマト2199ザルツ人のみで構成された第442特務小隊は、この部隊をモデルにしたものと推測される。

99年の愛(主人公がこの部隊に配属され、テキサス大隊救出作戦で戦死する)

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