曖昧さ回避
※「Montgomery」の実際の発音は「モンゴメリー」に近く、ルーシー・モード・モンゴメリー(『赤毛のアン』の作者)なども同姓である。
バーナード・ロー・モントゴメリー
イギリス陸軍元帥。(1887年11月17日~1976年3月24日)
エル・アラメインの戦いでは彼我の戦力差が15倍になるまで攻勢に出るのを待つなど差配は堅実で、「最も成功した守備的な将軍」「第二次世界大戦で最も優秀な第一次世界大戦の将軍」と評されている。ニックネームはモンティ。
非常に頑固で強権的、協調性が無く、帝国主義と白人至上主義を信念とした。コメディ・グループのモンティ・パイソンは彼のニックネームをグループ名に冠し、そのマッチョな性格を茶化している。
1887年 | |
1889年 | |
1897年 | |
1908年 | - 9月、陸軍士官学校を卒業。歩兵少尉として任官し、翌年インドに派遣された。
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1914年 | - 7月28日、第一次世界大戦が勃発。フランスに配属される。
- 10月13日、メテレン(フランス)の戦場で右肺と膝を撃たれ、イギリス本国に後送された。殊功勲章を授章。
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1916年 | |
1917年 | |
1918年 | - 11月11日、ドイツ軍と連合国軍との間の休戦協定成立。
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1919年 | |
1921年 | |
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1931年 | |
1937年 | |
1939年 | |
1940年 | - 5月19日、フランスに侵攻したドイツ軍がドーバー海峡に達し、連合軍は海岸沿いに追い詰められる。
- 6月1日、ダンケルクの包囲網から海路でイングランドに撤退。
- 6月21日、フィリップ・ペタンを首班とするフランス政府がドイツに休戦を申し込み降伏。
- 7月、中将に昇進。
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1941年 | |
1942年 | |
1943年 | |
1944年 | - 1月、イギリスに戻り、ノルマンディー上陸作戦に参加する連合軍地上部隊のイギリス連邦軍すべてから成る第21軍集団の指揮を命ぜられ、その上にアイゼンハワー連合国遠征軍最高司令官が置かれた。アメリカ側は偏屈なモントゴメリーではなく冷静沈着なハロルド・ルパート・レオフリック・ジョージ・アレクサンダー陸軍大将を望んだが、モントゴメリーの保護者であるアラン・ブルック参謀総長のゴリ押しに遭った。
- 6月6日、連合国軍がノルマンディー海岸に上陸。これ以後の戦闘で第21軍集団はドイツ軍の主力と対峙し、度重なる攻勢も阻止され、上陸初日で占領予定だったカーン北部市街地を占領したのは7月7日になる程であったが、モントゴメリーは自軍がドイツ軍主力を拘束し、アメリカ軍の進撃を援護していると考えていたようである。
- 8月21日、連合国軍がドイツ軍をファーレーズで大包囲。フランス北部のドイツ軍の戦線は崩壊し、東への敗走が始まる。
- 9月、進撃が速過ぎて補給が追い付かないため、モントゴメリーはアントウェルペン港(ベルギー)を使用できるよう妨害となっている河口(オランダ領)のドイツ軍を排除するマーケット・ガーデン作戦を提案した。アイゼンハワーは無謀な作戦と思ったが、政治的観点から妥協して認可する。
- 9月12日、カナダ第1軍がスヘルデ川河口域に投入される(スヘルデの戦い)。
- 9月17日、ライン川河口地域の5つの橋を空挺部隊で奪取する事を目指し、マーケット・ガーデン作戦が開始される。最終目標のアーネム(オランダ)の鉄橋を確保できず、イギリス陸軍第1空挺師団は壊滅し、作戦は失敗に終わった。モントゴメリーは、作戦は9割方成功で、不測の事態により多少うまくいかなかっただけと強弁した。イギリス海軍のアンドリュー・ブラウン・カニンガム海軍大将とバートラム・ホーム・ラムゼイ海軍大将はガイ・グランヴィル・シモンズ少将(カナダ第1軍)によるスヘルデ川河口域での作戦を優先するよう求め、これに激怒したモントゴメリーはアイゼンハワーに自分を連合国遠征軍最高司令官にするよう要求して断られた。上に立つためチャーチル首相に頼んで元帥に昇進させてもらったが、アメリカ側もアイゼンハワーを元帥に昇進させてバランスを取ったので無意味だった。モントゴメリーはスヘルデ川河口域での作戦を延期し、連合国軍の進撃は停滞する。
- 10月15日、アイゼンハワーに詰問されたモントゴメリーはスヘルデ川河口域の戦線を最優先していると弁解。イギリス第2軍が東側のマース川を掃討し、ドイツ軍から反攻されないようにした。カナダ第1軍に増援が送られる。
- 11月8日、カナダ第1軍がワルヘレン島(オランダ)を奪取し、アントウェルペン港を使用可能とした。
- 12月16日、ドイツ軍がアルデンヌのアメリカ軍を奇襲(バルジの戦い)。アイゼンハワーの判断で、一時的にモントゴメリーがアメリカ第1軍と第9軍の指揮を執る。(アメリカ第8軍団は第1軍から外され、アメリカ第3軍の指揮下に)
- 12月26日、アメリカ第3軍がバストーニュのアメリカ第101空挺師団を救援。パットンがアメリカの国民的英雄となる。
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1945年 | - 1月7日、モントゴメリーが記者会見を開き、バルジの戦いに関する記事へクレームをつけ、自分の指揮でこの戦いに勝ったと取れる発言をした事でアメリカ兵たちの反発を買う。
- 3月、空挺作戦を実施し、ライン川渡河に成功(ヴァーシティー作戦)。モントゴメリーはベルリン攻略を主張したが、アイゼンハワーはソ連軍がデンマークに入らないようユトランド半島を封鎖するよう命じた。
- 5月4日、リューネブルガーハイデ(ドイツ)でドイツ軍の降伏を受け入れた。
- 5月8日、ドイツが降伏文書を批准。モントゴメリーはイギリス担当地区における軍政を担うイギリス陸軍ライン軍団の司令官となる。
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1946年 | - 初代アラメインのモントゴメリー子爵に叙される。ドイツ駐留英国陸軍総参謀長となる。
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1948年 | - 西欧同盟軍最高司令官会議議長となる。クレメンス・アトリー首相への秘密報告書でアフリカの資源を利用する「マスタープラン」を提案し、アフリカ人については「完全な野蛮人で自分たちの国を発展させることができない」と記述している。
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1951年 | |
1958年 | |
1962年 | |
1967年 | - 5月、エル・アラメインの戦場跡を訪問した際、エジプト軍高官に「イスラエルと戦争になれば多くを失うことになる」と忠告したが、6月5日に第三次中東戦争が勃発し、その通りになった。
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1976年 | |
『ストライクウィッチーズ』のバーナード・モントゴメリー
CV:中田譲治
実在の人物「バーナード・モントゴメリー」をモチーフとした『ストライクウィッチーズ』のキャラクター。
人類連合軍の将軍の一人で、所属はブリタニア陸軍の元帥。
綿密に準備を行った上で相手を15:1以上の戦力差で叩きのめすことを身上とする。
オペレーション・マルスの実施をアルベルト・ケッセルリンク、小沢治三郎と共にミーナ・ディートリンデ・ヴィルケと坂本美緒に伝えた。
小説版および同人誌「アフリカの魔女」シリーズでは、アフリカ方面を指揮する三将軍の一人として登場する。(あとの二人はパットンとロンメル。)
三将軍はしょっちゅう喧嘩する程不仲(史実準拠)。
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イギリス陸軍 元帥 第一次世界大戦 第二次世界大戦 モンティ・パイソン ストライクウィッチーズ 将軍 ブリタニア連邦