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祖国戦争

そこくせんそう

ナポレオンが1812年に始めたロシア帝国への侵略の、ロシア側からの呼び名。
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« Soldats! La seconde guerre de la Pologne est commencée; la première s’est terminée à Friedland et à Tilsit. À Tilsit, la Russie a juré éternelle alliance à la France et guerre à l’Angleterre. Elle viole aujourd’hui ses serments! Elle ne veut donner aucune explication de son étrange conduite que les aigles françaises n’aient repassé le Rhin. La Russie est entraînée par la fatalité; ses destins doivent s’accomplir. Nous croirait-elle donc dégénérés? Ne serions-nous donc plus les soldats d’Austerlitz? Elle nous place entre le déshonneur et la guerre: le choix ne saurait être douteux. Marchons donc en avant: passons le Niémen, portons la guerre sur son territoire. La seconde guerre de la Pologne sera glorieuse aux armes françaises, comme la première; mais la paix que nous conclurons portera avec elle sa garantie, et mettra un terme à cette perpétuelle influence que la Russie a exercée depuis cinquante ans sur les affaires de l'Europe »

(兵士たちよ! 第二次ポーランド戦争が開始された。第一次は、フリートラント及びティルジットで終結した。ティルジットで、ロシアフランスとの永久的な同盟と、イギリスに対する戦争を誓った。今日、彼等は約束を反故にしている! フランスの精鋭たちが再びライン川後方に退却するまで、ロシアはその奇妙な行動を最早弁明するまい。ロシアは自らの命運をもって、自国の運命がどのようなものか知らねばならない。我々は衰退したのか? 我々はもうアウステルリッツの兵士ではないのか? 不名誉か戦争か、我々は岐路に立っている。選択の余地はない。今から進軍しよう。ネマン川を渡り、戦争を彼等の領土内へ持ち込もう。第二次ポーランド戦争は、第一次のように、フランス軍に栄光をもたらすだろう。だが今回我等が締結する和平条約は、過去50年間、ロシアヨーロッパへ及ぼして来た悪影響に終止符を打つ保証を伴うものである)

(Napoléon Bonaparte, 22. Juni, 1812)


祖国戦争は、いくつかの戦争の名前になっている。

概要編集

「1812年祖国戦争(Отечественная война 1812 года)」、フランス側の文献では「1812年ロシア遠征Campagne de Russie 1812)」(※1)は、ロシア帝国フランス帝国との間で、ロシア領内で行われた戦争。

 戦争の原因としては、ナポレオン大英帝国への主要な対抗策と考えていた、大陸封鎖令への積極的な参加をロシア帝国が拒否したこと、また、ナポレオンのヨーロッパ諸国に対する政策が、ロシアの利害を無視して行われていたことが挙げられる。

 戦争の第一段階(1812年6月から9月)では、ロシア軍は散発的な戦闘を交えつつ、ロシア国境からモスクワまで後退し、モスクワの近郊では「ボロヂノーの戦い」が行われた。

 戦争の第二段階(1812年10月から12月)において、ナポレオン軍は当初、戦闘によって荒廃した地域での冬営を避けようとし、ロシア軍飢餓厳冬に追われながらロシア国境へと退却していった。

 戦争は、ナポレオン軍のほぼ完全な壊滅、ロシア領の解放、そして1813年の、ワルシャワ公国、そしてドイツ領内への戦闘の移動をもって終結した(第六次対仏大同盟)。ロシアによるナポレオン軍の敗因として、歴史家のН・А・トローイツキイは、全国民的な戦争への協力、ロシア軍のヒロイズム、そしてフランス軍の、ロシアの巨大な土地と気候条件に対する準備不足、そして総司令官М・И・クトゥーゾフほか、ロシア側の指揮官たちの天賦の才を挙げている。


※1 ロシアの公報は、戦争を「ガリア人および十二国民の襲来」と呼び表していた(アレクサーンドル1世の声明など)。

交戦勢力編集

主要な陣営属国同盟国
フランス帝国イタリア王国、スペイン王国、ナポリ王国、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国、ヴェストファーレン王国、ザクセン王国、ワルシャワ公国、ライン同盟、ヘルヴェティア共和国オーストリア帝国プロイセン王国
ロシア帝国

指揮官編集

フランス帝国ナポレオン1世、ルイ=ニコラ・ダヴー、ジャック・マクドナル、ミシェル・ネイ、クロード・ヴィクトル=ペラン、ニコラ・ウディノ
イタリア王国ウジェーヌ・ド・ボアルネ
ナポリ王国ジョアシャン・ミュラ
ヴェストファーレン王国ジェローム・ボナパルト
ワルシャワ公国ユゼフ・ポニャトフスキ
オーストリア帝国カール・フィリップ・ツー・シュヴァルツェンベルク
プロイセン王国ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク
ロシア帝国アレクサーンドル1世ミハイール・クトゥーゾフミハイール・バルクラーイ=ド=トーリピョートル・バグラチオーン戦死)、アレクサーンドル・トルマーソフピョートル・ヴィッテンシチェインミハイール・ミロラードヴィチ、マトヴェーイ・プラートフ、パーヴェル・チチャーゴフ

祖国戦争における対敵協力編集

 フランス軍に占領された地域では、いくつかの対敵協力の事例が発生した。たとえばモギリョーフ大主教ヴァルラーム(俗名シシャーツキイ)は、すでに1812年7月にはナポレオンに宣誓を行い、地元の僧侶たちの一部も彼の例に倣った。このため1813年、大主教は位を没収された。しかし1935年7月25日、モスクワ総主教の決定により、以前の神聖宗務院の1813年4月20日の決定は、「政治的な動機、政治情勢の圧力を受けてなされたものとして」完全に破棄されている(※1)。パルチザン運動が発生した地域においては、少数の対敵協力の例がみられた。例えばスモレーンスク県では61名がフランス軍に協力し、その中には7人の士官が含まれた(実際に軍に仕官してはいなかったが、住民の生活に関連する省庁に勤めていた)(※2)。士官でロシア軍から敵へ転向した例は稀だった。たとえば1813年1月、1812年の夏に敵側へ移り、ヴィリニュスでロシア人に捕縛されたニェジン竜騎兵連隊の騎兵旗手ゴロドニェーツキイが処刑されている(※2)。


※1 Церковно-исторический архив ПСТГУ. Ф.315. Оп.77. Д.1. Л.279

※2 Александров К. М. Генералитет и офицерские кадры вооружённых формирований Комитета освобождения народов России 1943—1946 гг. Диссертация на соискание учёной степени доктора исторических наук. Архивная копия от 12 июля 2017 на Wayback Machine — СПб., 2015. — С. 89.

1812年祖国戦争の結果編集

直接的な戦果編集

 1812年祖国戦争の主要な結果は、ナポレオンの大陸軍のほぼ完全な壊滅だった。

 軍事史家クラウゼヴィッツの計算では、ロシア侵攻軍は、戦時中の増援部隊を合わせて、61万名の兵士を擁しており、その中にはオーストリアおよびプロイセンからの援軍5万人が含まれた(※1)。プロイセンの官吏アウエルスヴァルトによれば、1813年12月21日までに、大陸軍の255人の将軍、5111人の士官、2万6950人の下士官が東プロイセンを通過しており、「皆、はなはだ無惨な状態だった」(※2)。その約3万人に、北部および南部方面に配置されていた、レイニエ将軍およびマクドナル元帥麾下の軍団から、およそ6000名の(フランス軍へと復帰した)兵士が付け加えられねばならない。ケーニヒスベルクへと帰還した兵の多くは、セギュール伯爵の証言によれば、「病死した状態で」安全な地域に辿りついた(※3)。

 逃げ延びた士官たちは、1813年、新たに徴募されたナポレオン軍の中堅幹部を構成することになった。

 こうして、ナポレオンはロシアでほぼ58万の兵士を失った。ティエリー・レンツの計算によれば、この喪失には20万人の戦死者、15万人(※4)から19万人の捕虜、およそ13万人の故郷へ脱走していった兵(基本的にはプロイセンオーストリアザクセンヴェストファーレン出身者だが、フランス人の事例も存在する)、さらにおよそ6万人の、ロシアの農民(※5)、都市部の住民、あるいは貴族に匿われた者たちも含まれる(※6)。フランス皇帝とともにロシアへと侵入した4万7000名の皇帝親衛隊のうち、半年後に生き残っていたのは数百名だったという(※7)。1200門以上の火砲もロシアで失われた。いくつかの計算では、ロシアに侵入した大陸軍の総数のうち、戦列へと復帰したのは1万から3万名であるという(1万名以下とする説〔※8〕、2万5000名とする説〔※9、※10、※11〕、3万名とする説〔※12〕などが存在する)。

 報告によれば、1813年1月1日の時点でロシアの西部、ヴォルガ流域、ウラル地域の県に、大陸軍の兵および士官からなる21万6000名以上の捕虜が留め置かれ、14万から15万人が(収容所で)「組織化」された状態、5万から6万人が「未組織化(物乞い)」の状態だった。それらの報告は、捕虜だった6万人以上がロシア国籍を取得したことも示している。しかし彼らの大部分は、いつか帰国することを期待し、二年から十年ほどで、その「一時的な国籍」を放棄した(※13)。

 В・А・ビェッソーノフの算定によれば、1812年に捕虜となった大陸軍の兵士は11万268人であるという。1813年までに、そのうち6万5503名が死亡した。残った4万4765名は、48のロシア帝国の県や州に居留していた(※14)。また別の研究者は、1812年の戦争を通じて、捕虜の総数を20万人以上とし、そのうち大部分が捕虜生活の間に死亡したとしている(※14)。

 19世紀中盤の歴史家ボグダノーヴィチは、参謀本部の戦史資料目録により、戦時中のロシア軍の補充を計算した(※15)。1812年の12月までに、21万名の兵士が失われたことになっていた。ボグダノーヴィチの推測では、そのうち戦列に復帰した人数は4万人だという。二次的な任務や後備軍に配置されていた兵団の損失も、およそ4万人とする。総じて、ボグダノーヴィチはロシア軍の損失を、兵および後備軍を含め、21万人とした。現代の研究者たちの見解では、様々な理由(戦闘、傷病、凍傷その他)からなるロシア正規軍、後備軍、非正規軍、コサック兵団の戦死者の総数は、15万人から20万人ほどになるという。およそ15万人の負傷者が生じ、ほぼ同数が負傷、病気、凍傷によって廃兵(障害者)となった。西側の何名かの著者によれば、およそ5万人が脱走兵になっているという(※16、※17)。

 1813年1月、「ロシア軍の国外遠征」が始まり、戦闘はドイツおよびフランス領内へと移動した。1813年10月、ナポレオンは諸国民の戦いに敗北し、1814年の4月にはフランスの帝位を追われることになった(※18)。

ナポレオンの敗因編集

 ナポレオンのロシア遠征における敗因では、以下の事情が最も多く指摘されている(※19)。

  1. 全国民的な戦争への協力、ロシア兵および士官のヒロイズム。
  2. ロシアの国土の広さと、厳しい気候条件
  3. ロシア軍総司令官クトゥーゾフおよびその他の将軍たちの、指揮官としての天賦の才。

 ナポレオンの敗因の主要なものとして、祖国防衛への全国的な熱意が挙げられる。1812年の力の源は、ロシア軍と国民との統一に探し求めなければならない(※21)。

 ロシア軍が国境における全面的な敗北を避け、広大なロシア帝国領の内陸部へと後退していったことは、「その補給システムが限界に達するまでナポレオンに軍の進出を強いる計画の変更」をもたらした(※21)。ロシアの諸部隊の頑強な抵抗と、М・Б・バルクラーイ=デ=トーリおよびМ・И・クトゥーゾフの戦力の保持を重視する指揮は、ナポレオンが一度の「決戦」によって戦争に勝つことを不可能にした。

 ナポレオン軍はネマン川から遠ざかったことで、事前に準備された備蓄システムではなく、ますます現地徴発に頼ることを余儀なくされていった。補給線の伸びきった状況下で、質の低い徴募兵と応召兵からなるフランス軍の徴発隊の無原則性、食糧や秣を隠すことによるロシア国民の抵抗、フランス軍の徴発隊に対するパルチザンの武装闘争、敵の動きに対する迎撃が決定的な役割を演じた(非対称戦争)。これらの指摘された理由のすべてが、フランス側の補給システムの崩壊、そして最終的には飢餓を引き起こし、さらには軍の大部分を、各人がただ自分自身の救済のみを願う、戦闘能力のない群衆へと転じさせることになった(※20)。

 戦争の最終段階、12月のベレジナー川での戦いでは、ナポレオン軍を完全に消耗させるマイナス20度以下の厳冬によって、状況はさらに深刻なものとなった。クラウゼヴィッツの表現によれば、ロシア軍によって成し遂げられた撃破は、後退を続け、最後には再び敵を国境線へと連れ戻したのだという。


 ロシアでは、「猫とネズミ」を敵と演じ(ドイツ語„mit Katz und Maus spielen”、「相手を焦らす」)、後退を続け、最後には再び相手を国境へと連れ出すことが可能だった。この表現は……主に空間的な要素と、巨大な距離という、通過した地域の占領も、戦略的にそれを維持することも、敵が単に進出するだけでは不可能にする利点を反映している。

(※22)

長期的な戦果編集

 ロシアにおけるナポレオン敗北は、その中でロシアが主要な役割を演じ、フランス帝国を瓦解させることになる国際提携を可能にした。ナポレオンに対する勝利は、ウィーン会議においても裁定者としての役割を演じ、次の十年間に及ぶヨーロッパ問題への決定的な影響力を行使したロシアの威信を、かつてないほどの高みへと引き上げた(※20)。ロシアの対外政策が強化される一方で、その国内制度が発展することはなかった。勝利がロシアの社会全体を活気づけ、団結させたとはいえ、軍事的な成功は、ロシアの生活の社会経済的な制度に変化をもたらすことはなかった。以前に兵士や後備軍を務めた農民の多くは、勝利者としてヨーロッパを通過し、各国で農奴制がすでに撤廃されている様子を目にしていた。農民層は本質的な変化を期待したが、その変化がやって来ることはなかった。ロシアの農奴制は1812年以後も存続した。幾人かの歴史家は、それを解体に導く社会的・経済的な条件が万全ではなかったとしている(※23)。しかし戦後に、農民の蜂起、先進的な貴族階級の間での政治的な反対派の形成が続いたことは、その見解を覆している。

 祖国戦争の勝利は国民的な活性化だけでなく、最終的に1825年のデカブリストの乱を導く、自由思想への欲求をも促した。А・А・ビェストゥージェフは、ペテロ・パウロ要塞からニコラーイ1世に宛てて、「ナポレオンがロシアへ侵入したとき、ロシア国民は初めて自らの力を感じました。当時、皆の心に主権の感覚が、まず政治的なものとして、その後には国民的なものとして覚醒しました。ロシアにおける自由思想が始まったのです」と書き送っている(※24)。

 デカブリストだけでなく、「1812年がなければプーシキンはなかった」という考えも長く表明されている。あらゆるロシア文学、民族的な自覚は、ナポレオンの襲来の年、強い刺激を受けることになった(※25)。А・И・ゲールツェンの言葉によれば、広範な社会層の創造的な活力という観点から、「真のロシア史を開いたのは、ただ1812年のみである。他のすべては、プロローグに過ぎなかった」としている(※26)。

 以前のナポレオンの大陸軍の捕虜たちの多くが、1812年祖国戦争の以後もロシアの国土に残り、ロシア国籍を取得した。例として、オレンブルク兵団に登録していた、「オレンブルクのフランス人」たちが挙げられる(※27)。В・Д・ダンデヴィリは、以前のフランス軍の士官デジレ・ダンデヴィルの息子で、のちにロシアの将軍となり、ウラル・コサック兵団のアタマンに任命されている。ナポレオン軍に仕官していたポーランド人の捕虜たちの多くは、シベリア・コサックに加えられた。1812年から1814年の遠征が終わったのちには、それらのポーランド人には帰郷の権利が与えられた。しかし彼らの多くはロシア人と結婚しており、積極的にそれらの権利を行使することはなく、コサック下士官、もしくは士官の位さえ受け、生涯をシベリアのコサックの間で過ごした。彼らの多くは十分にヨーロッパ式の教育を受けており、間もなく開設されたコサック兵団の学校(のちの陸軍幼年学校)の教師に任命された。これらのポーランド人の末裔は、兵団のほかの大多数の構成員と同化し、外見上、言語的に、あるいは信仰や「ロシア人気質」の点でも、ロシア化していった。下記のような家名だけがポーランド人の名残として続いている。スヴァローフスキイ、ヤノーフスキイ、コストィレーツキイ、ヤドローフスキイ、レグチーンスキイ、ダブシーンスキイ、スタブローフスキイ、リャスコーフスキイ、イェドームスキイ、ジャグーリスキイなどの家名を持つコサックたちの先祖は、かつてポーランド人だったことを示している。

 1812年祖国戦争は、ロシア国民の歴史的な記憶の一部となった。ロシアの歴史家で、文学研究者で発行人でもあるП・И・バルチェーネフによれば、「祖国戦争の記述を読むことだけが、ロシアを愛さない者にはそれを愛するように、ロシアを愛する者には、より熱烈に愛するようにさせ、ロシアが斯くの如きことを神に感謝させるものである」(※28)。


※1 Клаузевиц К. 1812 год. Поход в Россию. — М.: Захаров, 2004. — с. 196.

※2 Меринг Ф. История войн и военного искусства. — СПб.: Полигон, 2000. — 323 с.

※3 Сегюр Ф. де. Поход в Россию. — Смоленск: Русич, 2003. — с. 355.

※4 皇帝アレクサーンドル1世への陸軍元帥クトゥーゾフの報告によれば、フランス軍の捕虜の数を15万人と見積もっている。Рапорт М. И. Кутузова Александру I с изложением хода военных действий со дня отступления армии в Тарутинский лагерь до изгнания из России наполеоновских войск. // Кутузов М. И. Сборник документов: в 5 томах / Под ред. Л. Г. Бескровного. — М.: Воениздат, 1954. — Т. IV. Ч. 2. — С. 554—556.

※5 Сироткин В. Г. Судьба пленных солдат и офицеров Великой Армии в России после Бородинского сражения. // Отечественная война 1812 года. Источники. Памятники. Проблемы. Дата обращения: 23 июня 2012.

※6 Lentz, Thierry. Nouvelle histoire du premier empire: L'effondrement du système napoléonien, 1810-1814. — Paris: Fayard, 2004, p. 376—377.

※7 Сегюр, 2003, с. 350.

※8 Fremont-Barnes G. Napoleon Bonaparte: Leadership, Strategy, Conflict. — Oxford: Osprey Publishing, 2010, p. 36.

※9 Lieven D. C. B. Russia Against Napoleon: The True Story of the Campaigns of War and Peace. — L.: Penguin Group, 2010. — 617 p. — (The True Story of the Campaigns of War and Peace).

※10 Nafziger G. F. Napoleon's Invasion of Russia / Forew. by D. G. Chandler. — Presidio Press, 1988. — P. 333—334.

※11 Martin A. M. The Russian Empire and the Napoleonic Wars // Napoleon and Europe / Ed. by P. G. Dwyer. — L.—N. Y.: Routledge, 2014, p. 260.

※12 Clodfelter M. Russian Campaign: 1812 // Warfare and Armed Conflicts: A Statistical Encyclopedia of Casualty and Other Figures, 1492—2015. — 4th Ed. — Jefferson, North Carolina: McFarland & Company, 2017, p. 163—164.

※13 Kort M. A Brief History of Russia. — N. Y.: Facts on File, 2008. — xxiii, p. 77.

※14 Сироткин В. Г. Судьба пленных солдат и офицеров Великой Армии в России после Бородинского сражения // Отечественная война 1812 года. Источники. Памятники. Проблемы: материалы VIII Всероссийской научной конференции (Бородино, 6—7 сентября 1999 г.). — М.: Терра, 2000. — С. 246—265.

※15 Бессонов В. А. Численность военнопленных 1812 года в России // Отечественная война 1812 года: Источники. Памятники. Проблемы: материалы X Всероссийской научной конференции (Бородино, 3—5 сентября 2001 г.) / Ред.-изд. совет: А. В. Горбунов (предс.) и др. — М.: Калита, 2002. — С. 18—38. archive

※16 Хомченко С. Н. Двунадесять языков в русском плену: национальный состав военнопленных Великой армии после Отечественной войны 1812 года // Эпоха Наполеоновских войн: люди, события, идеи: материалы XIII научной конференции (Москва, 24 апреля 2014 г.). — М., 2015. — С. 233—236. archive

※17 Богданович М. И. История Отечественной войны 1812 года: в 3 томах / Цензор И. Гончаров. — СПб.: Тип. Торгового дома С. Струговщика, Г. Похитонова, Н. Водова и К°, 1859—1860, Т. 3, с. 396.

※18 Сахаров А. Н., Боханов А. Н., Шестаков В. А. История России с древнейших времён до наших дней: в 2 томах. — М.: Проспект, 2010. — Т. 2., с. 30—31.

※19 Троицкий Н. А. Россия в XIX веке. Курс лекций. — М.: Высшая школа, 1997, с. 50—53.

※20 Троицкий Н. А. Россия в XIX веке. Курс лекций. — М.: Высшая школа, 1997, с. 51.

※21 Нафзайгер Д. Ф. Тыл и снабжение в кампании 1812 г.: причина поражения Наполеона // 185 лет Отечественной войне 1812 года. Сборник статей. — Самара, 1997. — С. 22—30.

※22 Esdaile, Charles. Napoleon's Wars: An International History, 1803—1815. — London, New York, etc.: Penguin, 2009. — [Ebook edition] 13290 p.

※23 Клаузевиц К. 1812 год. Поход в Россию. — М.: Захаров, 2004, с. 74.

※24 Сахаров А. Н., Боханов А. Н., Шестаков В. А. История России с древнейших времён до наших дней: в 2 томах. — М.: Проспект, 2010. — Т. 2. — с. 36—37.

※25 Бестужев А. А. Письмо к Императору Николаю Павловичу из Петропавловской крепости // Из писем и показаний декабристов. Критика современного состояния России и планы будущего устройства / Под ред. А. К. Бороздина. — СПб.: Издание М. В. Пирожкова, 1906. — 196 с.

※26 Тарле Е. В. Собрание сочинений: в 12 томах. — М.: АН СССР, 1957—1962, Т. 7, с. 737.

※27 Герцен А. И. О развитии революционных идей в России. — Собрание сочинений: в 30 томах. — М.: Академия наук СССР, 1956. — Т. 7: О развитии революционных идей в России. Произведения 1851—1852 годов. — 467 с.

※28 Хомченко С. Н. Военнопленные армии Наполеона в Оренбургской губернии, archive

※29 О проекте «Отечественная война 1812» года / Электронный ресурс

歴史叙述における「祖国戦争」という用語編集

「祖国戦争」という用語は1813年、ロシア軍国外への進出時に、Ф・Н・グリーンカがすでに自身の書簡で用いている。1815年、「1812年祖国戦争の歴史を持つ必要性についての考察」という表題を冠されて、彼の書簡は論文としてモスクワの定期刊行物『ロシア報知(Русский вестник)』(※1)に発表され、さらに翌1816年、いくつかの修正を経て、同論文はサンクトペテルブールクの雑誌『祖国の息子(Сын отечества)』にも発表された(※2)。1815年から1816年にかけては、彼の「1805年と1806年のフランス人に対するロシア国民の遠征、そして1812年から1815年の祖国国外遠征の詳細な記述を添えた、ポーランド、オーストリア領、プロイセン、フランスについての、ロシア人士官の手紙」が八章構成で、いくつかの版で出版された(※3)。「祖国戦争」の同義語として、Ф・Н・グリーンカは、あらゆる層の住民が参与したとして「人民の戦争(народная война)」という言葉も用いている(※4、※5)。

 Д・М・フェーリドマンは、時代区分を見定め、「祖国戦争」という言葉がすでに1812年には用いられていたと結論した。1813年に『ロシア報知』で発表された論文「コサック隊長プラートフ伯爵の、ドン方面中将イロヴァーイスキイ5世およびカールポフ少将との対話」の中で、当時コサック軍団の参謀本部に勤務していた陸軍中佐А・Г・クラスノクーツキイは、「この祖国戦争は、我々ドン兵団の栄光を高めるであろう!」という言葉で始めている。(※5、※6)

 評論的に「祖国戦争」という言葉を用いた人々は、具体的にはこの言葉にいかなる説明も与えておらず、ゆえにД・М・フェーリドマンの見解では、「この言葉の歴史の上では、すでに誰が『最初に言ったのか』ということは重要ではない」ということになる。事実上、この言葉を同時に「多くの人々が考えついたのであり、それゆえ、1813年においても、その後においても、この言葉の語義は必要とされなかった」。サンクトペテルブールクの文芸誌『北極星(Полярная звезда)』に、1823年、А・А・ビェストゥージェフ=マルリーンスキイは書いている(※5、※7)。


 それ(「祖国戦争」という言葉)は、祖国戦争でも我々と共にあった。ナポレオンが我々に襲いかかり、すべての感情、すべての利益が揺るがされた。すべての眼が、世界の半分がロシアと争っている戦場へと向けられ、全世界がその結末を待ち構えていた。当時「祖国」という言葉と「栄光」という言葉は、各人にとって電流のようだった。あらゆるビラが祖国の場所で、霊感をもって手渡された。

(ビェストゥージェフ=マルリーンスキイ、А・А、1823年の傾向におけるロシア人文学への見解)


学問的な基準で、歴史記述への「祖国戦争」という言葉の導入は、А・И・ミハイローフスキイ=ダニレーフスキイにより、1839年の四巻からなるモノグラフ「1812年祖国戦争の記述(Описание Отечественной войны в 1812 году)」においてなされた(※5、※8、※9)。

 1917年の十月革命後、「祖国戦争」の語はイデオロギー的な情勢ゆえに使用されなくなった。当初のソヴィエト歴史学において、1812年の戦争の取り扱いではマルクス主義歴史家、当時のソヴィエト歴史学者たちのリーダーだったМ・Н・ポクローフスキイの、ナポレオン戦争にロシアはもっぱら地主商人の利益のため参戦したとする見方が支配的なものとなった。1812年における国民大衆の役割はそれゆえにきわめて低く評価され、その「愛国主義」はポクローフスキイの見解では「略奪者から自分の竈を(своего очага от мародёров)」守ることに帰結していたとされた。ナポレオンのロシア襲来それ自体を、М・Н・ポクローフスキイは「自己防衛の必然的な行為(акт необходимой самообороны)」であると性格づけ(※10)、彼が「祖国戦争」の語を使わざるを得ない場合は、П・А・ジーリンが指摘するように、「軽蔑的な引用符の中に(в пренебрежительные кавычки)」閉じて用いていた(※11、※12)。

 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会の1934年5月16日の決議「ソヴェト同盟の学校における市民の歴史教育について(О преподавании гражданской истории в школах СССР)」、およびソ同盟人民委員会議の1936年1月26日の「歴史の教科書について(Об учебниках истории)」ののち、多くのソヴェト歴史学者がさらされていた「図式化」「抽象的な社会論化」は批判を受け、1930年代中盤以降、「祖国戦争」の語は再び歴史家の著作で用いられるようになった。しばらくの「忘却」を経て、1812年戦争を差す「祖国戦争」の語は、アカデミー会員Е・В・タールレによって、1938年に初めて再び用いられている(※13、※14)。


※1 Глинка Ф. Н. Рассуждения о необходимости иметь Историю отечественной войны 1812 года // Русский вестник. — М.: Изд. С. Глинки, 1815. — № 4. — С. 25—49.

※2 Глинка Ф. Н. Рассуждения о необходимости иметь Историю отечественной войны 1812 года. — СПб.: Тип. Ф. Дрехслера, 1816. — Т. 27, № 4. — С. 138—162.

※3 Глинка Ф. Н. Письма русского офицера о Польше, Австрийских владениях, Пруссии и Франции с подробным описанием похода россиян против французов, в 1805 и 1806, также отечественной и заграничной войны с 1812 по 1815 год: в 8 частях. — М.: Тип. С. Селивановского, 1815—1816.

※4 Троицкий Н. А. Отечественная война 1812 года. История темы / ред. Л. И. Носова. — Саратов: СГУ им. Н. Г. Чернышевского, 1991. — 14 с.

※5 Фельдман Д. М. Опыт анализа публицистического дискурса: «партизаны» в «отечественных» и прочих войнах // Вестник РГГУ. Серия: Филологические науки. Журналистика. Литературная критика. — М.: Изд-во РГГУ, 2013. — № 12 (113). — С. 128—130.

※6 Краснокутский А. Г. Разговор войскового атамана графа Платова с донским генерал-лейтенантом Иловайским 5-м и генерал-майором Карповым // Русский вестник. — М.: Изд. С. Глинки, 1813. — № 9. — С. 51.

※7 Бестужев-Марлинский А. А. Взгляд на русскую словесность в течение 1823 года // Полярная звезда, изданная А. Бестужевым и К. Рылеевым / отв. ред. В. Г. Базанов. — М.-Л.: АН СССР, 1960. — С. 265. — (Литературные памятники).

※8 Троицкий, 1991, с. 15—16.

※9 Martin A. M. Russia and the legacy of 1812 // The Cambridge History of Russia: in 3 Vol / Ed. by D. Lieven. — Cambridge: Cambridge University Press, 2006. — Vol. 2: Imperial Russia, 1689—1917. — P. 150.

※10 Покровский М. Н. Дипломатия и войны царской России в XIX столетии. — М.: Красная новь, 1923. — С. 3—83.

※11 Жилин П. А. Гибель Наполеоновской армии в России. — М.: Наука, 1974. — 451 с.

※12 Троицкий, 1991, с. 29—32.

※13 Тарле Е. В. Отечественная война 1812 года: (Из цикла «Прошлое нашей родины»). — М., 1938. — 8 с. — (Микрофонные материалы Всесоюзного радиокомитета. Исключительно для радиовещания. Для Сектора агитации и пропаганды; № 104).

※14 Троицкий, 1991, с. 35.

1812年の戦争の記憶編集

 1814年8月30日、皇帝アレクサーンドル1世は「降誕日である12月25日は、教会の名において、今後、感謝の日となる。我らが救世主イイスス・ハリストスの生誕の日であり、ガリア人および十二ヶ国民の襲来から、教会とロシアの主権が救われた記憶の日となる」という布告を出した。1917年まで、ロシア帝国においてキリスト降誕日は、国民的な戦勝記念日とみなされた。

 1812年祖国戦争はロシア国民およびその他の諸国民の歴史的な記憶に重要な地位を占めており、それは学問的な研究、また建築、芸術、文学その他の場において、下に挙げられるような、多くの作品が生み出されたことに反映されている。

  • 1812年祖国戦争は、1917年まで、ロシア史の千年間における様々なその他の出来事と比較して、もっとも研究の数が多いものとなっている。特に戦争については、1万5000以上の本と論文が書かれている(※1)。
  • 1812年祖国戦争の勝利を記念して、多くの銅像や記念碑が建立され、もっとも有名なものとしては救世主ハリストス大聖堂モスクワ)、宮殿広場アレクサンドルの円柱のアンサンブル(サンクトペテルブールク)が挙げられる。
  • 冬宮殿の「軍事ギャラリー」は、祖国戦争に従軍した332人のロシアの将軍たちの肖像画によって構成されている。肖像画の多くは、イギリスの画家ジョージ・ドーにより制作された。
  • 毎年、9月の第一日曜日、ボロヂノーの野でボロヂノー会戦のリエナクトメントが千人以上の参加者によって開催されている(※2)。
  • Л・Н・トルストーイの『戦争と平和』は、世界の文学作品の中でもっとも有名なものの一つになっている。

アンドレイ公爵トルストイ

  • トルストーイの小説を原作に、ソ連ではС・ボンダルチューク監督の映画『戦争と平和』が製作され、1968年に「オスカー」を受賞している。その巨大な戦闘シーンは「空前絶後」と評価されている。

kuragin

チャイコフスキー

  • С・С・プロコーフィエフは、妻のミーラ・メンデリソーン=プロコーフィエヴァと共同でオペラ『戦争と平和』の台本を制作した(1943年。最終稿は1952年。最初の上演は1946年、レニングラートで行われた)。
  • 2018年8月15日、ロシア銀行は「祖国の守りに」シリーズの一環として、軍旗とマスケット銃を携えた兵士たちの図像を添えた3ルーブリ銀貨を発行した。1812年戦争時の軍服と装備が採用され、背景には渦を巻く煙、大砲のそばにいる兵士と士官のシルエットが描かれていた(※3)。

※1 О празднестве 25 декабря во воспоминание избавления от нашествия галлов. Указ императора Александра I от 30 августа 1814 года.

※2 Троицкий Н. А. Россия в XIX веке. Курс лекций. — М.: Высшая школа, 1997, с. 51.

※3 О выпуске в обращение памятных монет из драгоценного металла

大祖国戦争編集

「祖国戦争」の名は、独ソ戦のロシア側呼称「大祖国戦争」にも表れた。「祖国戦争」の語や、ロシア奥深くに敵を引き入れ反撃するという構図は、独ソ戦の初期からモーロトフスターリンのラジオ演説で繰り返し引き合いに出された。独ソ戦中には、ミハイール・クトゥーゾフの名を冠した「クトゥーゾフ勲章」も制定された。

 戦後、スターリンは書いている。


 私は、よく組織された反攻が、きわめて興味のある攻勢の形態であると信じる。歴史家として、あなたはこのことに注意すべきであろう。すでに古代でもパルティア人はこの反攻形態を知っていた。彼らは、ローマの軍司令官クラッススとその軍勢を自国の内部に引き入れておいて、次に反攻に移り、これを粉砕した。我々の天才的司令官クトゥーゾフはこの戦闘形態をよく知っており、よく準備された反攻のおかげでナポレオンの軍勢を壊滅させたのである。

(『ラージン大佐への返答』、スターリン全集刊行会訳『スターリン戦後著作集』収録、大月書店、1954年、78ページ)

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