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その名の通り、皇帝を護る親衛隊のこと。

歴史的にはローマ帝国皇帝もしくはフランスのナポレオン一世の精鋭軍団でもある皇帝親衛隊が有名。


ローマ帝国皇帝親衛隊(プエラトアーニ編集

概要編集

帝政ローマのイタリア半島に置いたローマ元首の直下の武装軍組織 ローマ皇帝の私兵である。

初代元首アウグストスが護民職の衛兵を追加する目的でセナートス(元老院)に許可を得ながら徐々に軍団規模に強化した武装組織である。 帝政ローマのイタリア半島に置いた元首皇帝の直下の武装軍組織、黒装いが多く『黒』マントか甲冑をしていたようだ、基本ローマ軍団は全体的に『赤』『白』がおおい。 ローマ皇帝の私兵だったが帝政中盤では事実上の元首を指名する機関となり果てていた。


エリートの集まり編集

おもにローマ軍団のエリートを集め創設したが、後になると上流階級の子弟などが元首から推薦される形で編入されることが多くなっていった、皇帝親衛隊は軍事的行動だけでなくローマ元首の護衛をする。


野心みなぎる軍団に変貌編集

ローマは上流階級の子弟の元老議員の条件として軍務経験10年必要という習慣があり、その間出世の道として親衛隊に行くものが多くなった。こうなると私利私欲の利権集団に変貌していくまでにはあまり時間がかからなかったと思われる。


親衛隊の専横編集

中期末期にはローマ元首をも振り回す組織となり完全にセナートスを差し置いてローマ元首の指名機関となり果てていた。そして親衛隊に理にかなわないローマ元首を殺害しまた据え置くという暴挙もたびたび見られるようになった。


解散編集

元首セプティミウス・セウェルスの時代に今までの親衛隊を解散し自身の軍団を親衛隊として活動させた、しかしそれも後代のコンスタンティヌス大帝の時代にはやはり腐敗し果てていた。結局この腐敗ぶりに業を煮やした時のローマ元首、コンスタンティヌス大帝が完全に解散を命じ。この組織は消滅した。


タグマ編集

元々は東ローマ帝国の200~400名からなる歩兵大隊の事で、次に首都コンスタンチノープル周辺の常備軍を指していたが、コンスタンティヌス5世により、廃止された従来の親衛隊に代わる形でテマ(屯田兵ともいうべき地方軍)から選抜された兵により編成された皇帝直属軍隊が当該のものにあたる。

よく訓練された職業軍人からなるこの軍隊は増強され、中央にまともな軍隊が居ない為に悩まされていた地方の反乱を抑制し、更にはイスラム勢力、スラブ人勢力などを前に守勢一辺倒だった帝国が攻勢に乗り出した折の主力となり、バシレイオス2世の代に最高潮となったこの攻勢での領土拡大に献上した。

しかし、皮肉にもこの活躍により、領土を侵される危険がなくなった元々防衛軍的な意味合いの強かった地方軍は国防意識を失い弱体化し、更にタグマなどの中央軍指揮官として征服事業に活躍した貴族が力を持ってテマたる地方軍兵士から土地を庇護を条件などに奪っていき、テマとなるべき兵を減らし、更にタグマにも影響力を持ち始めた。もはや帝国にとっては弱体化した地方軍も、貴族の影響下を受け始めた中央軍も信頼出来ず、次第に外国人傭兵に依存するようになる。そして次第にタグマなどの中央軍と地方軍の区別はなくなっていき、元からのタグマも減少していった。

1071年、マンツケルトの戦いで帝国軍はセルジューク朝のスルタンアルプ・アルスラーンに破れ、摂政アンドレニコス・ドゥーカスが勝手に撤退するなか、タグマを中心とする皇帝ロマノス4世の中央軍は包囲され壊滅し、皇帝は捕虜となった。

この戦いで皇帝直属親衛隊・中央軍としてのタグマは止めを刺され、タグマは以前の部隊を称す言葉へと変貌していった。


イェニチェリ編集

オスマン帝国の皇帝ともいうべきスルタンの直属の常備軍団。新しい兵隊を意味し、元々遊牧民故に軍隊は軽騎兵が主力であったオスマン帝国軍で、歩兵からなる柔軟な軍隊として誕生した。

当初は戦争捕虜からなっていたが、アナトリア・バルカン地方のキリスト教徒の少年を定期的に強制徴用してイスラム教徒に改宗させ軍人(特に優秀な者はエリート官僚として育成)とするデヴシルメ制が確立されてからは安定した人材供給を受けた。

彼等は妻帯を許されず、首都イスタンブールの宿舎で生活させられたが、スルタンと食事をする権利や高給、免税などの優遇が与えられていた。

バヤズィト1世の時代からオスマン帝国軍の背骨として活躍し、スレイマン1世の時代には拡大されオスマン帝国の領土拡大に貢献した。彼等は基本的には軽装で鎧を着用せず機動性があり、銃を早い段階で装備し、よく訓練され、大規模な常備軍ということとあいまって当時としては近代的で強力な軍隊となった。

しかし、次第にデヴシメル制以外の生来のイスラム教徒(ムスリム)がなったり、妻帯し、子息を入れ世襲するようになるなどで腐敗してゆき、特権に胡坐をかいて横暴となり、更には宰相を更迭するばかりか、スルタンを廃位するまでになり、軍事的にも自らの存在を脅かす近代化の試みを潰す存在と成り果て、1862年、マフメト2世の挑発に反乱を起したところを討伐され、制度も廃止された。

彼等はスルタンと食事をする権利を得ていたからか大釜とスプーンが象徴であり、また階級も給仕長、シェフなどの料理関連の言葉が使用され、兵士は木製のスプーンを常備し、普段は帽子に羽飾りの代わりに挿していたという。また宿営の大釜がひっくり返されるとそれは反乱を意味した。

職業軍人部隊として精鋭であった頃は規律が行き届き、スルタンに面会した欧州人はその場に居合わせたイェニチェリが微動だにしない事から、彼等が動くまでは彫刻かと思っていたという。


ロシア皇帝親衛隊(レーイプグヴァールジャ編集

ロシア帝国初代皇帝ピョートル1世により皇帝の個人的な警護隊として設立された。その後、規模も拡大されロシア帝国軍のエリート部隊となる。殆どの部隊は首都サンクトペテルブルク周辺を駐屯地としていた。


フランス皇帝親衛隊編集

ナポレオンの皇帝親衛隊は執政親衛隊を元とし歩兵・騎兵・砲兵からなり、戦歴ごとに老親衛隊、壮年親衛隊、青年親衛隊に分類され、老親衛隊のなかでも皇帝親衛擲弾兵連隊は勤続10年以上、老親衛隊志願時に35歳以下、最低三つの戦役に従軍、会戦での激突に生き残り、178cm以上の身長、読み書きが出来る事が条件とされた精鋭中の精鋭部隊であり、外見では金の板と赤の羽毛、白の紐で装飾された高い熊毛帽とピアスと口髭が特徴で、赤の肩章と白の襟章をつけ、赤の折り返しの濃青のハビットロングを着用していた。

親衛隊はフランス大陸軍全体の模範となるべき存在とされ、会戦でのナポレオンの決定的な一撃としての切り札として1805年のアウステルリッツ会戦などで活躍した。また1812年のボロジノ会戦のようにナポレオンが決戦の機を後日と見誤り、温存され投入されなかった例もある。

ナポレオン最後の戦いである1815年のワーテルロー会戦にも参加し、その折の英軍との交戦による老親衛隊の敗走がナポレオンの没落の象徴とされ、また最後まで戦場に踏み止まり友軍撤退を援護して壊滅した老親衛隊の奮戦は連隊長ピエール・カンブロンヌ将軍が英軍の降伏勧告に対し放ったとされる「メルド!(糞ったれ!)」「親衛隊は死すとも降伏せず」の言葉と共に親衛隊の最後の栄光の象徴とされている。



現在、企画「Pixiv-Army」関連のものが多い。

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