概要
首都 | モスクワ(1918年3月から) |
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人口 | 1億4738万6000人 |
面積 | 1712万5191平方キロメートル |
公用語 | ロシア語 |
通貨 | ルーブル |
国家元首 | 中央執行委員会議長・最高会議議長・大統領 |
国歌 | 愛国歌(1991年12月時点) |
存続期間 | 1917年11月 - 1991年12月 |
政体 | 一党独裁制 社会主義連邦共和国 |
ロシア・ソビエト社会主義連邦共和国(ロシア・ソビエトしゃかいしゅぎれんぽうきょうわこく、ロシア語:Российская Советская Федеративная Социалистическая Республика、ラテン文字表記:Rossiyskaya Sovetskaya Federativnaya Sotsialisticheskaya Respublika)は、1917年11月から1991年12月まで存在した世界初の社会主義共和国。1922年12月にソビエト連邦が成立してからは構成共和国の1国となり、1991年12月に崩壊した後はロシア連邦として独立し、また複数の自治共和国・自治州・自治管区・その他の地方区画から構成されていた連邦共和国であった。
概説
1903年7月に社会民主労働党が分裂して形成された左派勢力のボリシェヴィキは、1917年11月に十月革命を引き起こして同年3月に成立した臨時政府を打倒し、同年11月にロシア・ソビエト共和国として成立した。1918年5月に開戦したロシア内戦を経て、1922年12月にロシア・ウクライナ・白ロシア・ザカフカースの4か国でソビエト連邦が成立して1924年1月に新たな憲法が施行された。
1924年1月に憲法を制定して連邦共和国となった後も、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国(当時の名称)は国土の面積・人口・経済力共にソ連の構成共和国では最大であり、1991年12月に崩壊した時にロシア連邦に継承された。当時はその中で唯一独自の国歌を保持せずにソ連国歌を使用していたが、1990年11月にソ連国歌の採用を終了させて愛国歌に国歌を変更した。
別名
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国にはいくつかの別名があった。
- ボリシェヴィキ・ロシア
ボリシェヴィキが成立させた国である事から、一部ではこのように称される場合がある。
- ソビエト・ロシア
国名にあるソビエト(ロシア語:Совет)が評議会という意味で、そこからこのように称される。
変遷
国名
時期 | 名称 |
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1917年11月 - 1918年7月 | ロシア・ソビエト共和国 |
1918年7月 - 1936年12月 | ロシア社会主義連邦ソビエト共和国 |
1936年12月 - 1991年12月 | ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 |
首都
国歌
時期 | 名称 |
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1917年3月 - 1918年1月 | 労働者のラ・マルセイエーズ |
1918年1月 - 1944年3月 | インターナショナル |
1944年3月 - 1955年12月 | 初代ソビエト連邦国歌 |
1955年12月 - 1977年5月 | 第2代ソビエト連邦国歌 |
1977年5月 - 1990年11月 | 第3代ソビエト連邦国歌 |
1990年11月 - 1991年12月 | 愛国歌 |
歴史
1917年11月にウラジーミル・レーニンが率いるボリシェヴィキが、同年3月に成立した臨時政府を打倒した十月革命を起源としており、ボリシェヴィキはロシアでのソビエト共和国の成立を宣言した。1918年3月にロシアは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結し、第1次世界大戦から正式に離脱してからは、同年5月に白軍などの反革命勢力との内戦が本格化した。
1922年10月までにボリシェヴィキの赤軍は内戦に勝利し、革命の後に失われた旧ロシア帝国内の多くに進出して各地でソビエト政権を樹立する事に成功した。ボリシェヴィキのヨシフ・スターリン党書記長はそれらの新しいソビエト共和国をロシア共和国に吸収する事を提案したが、レーニンはロシア共和国は他のソビエト共和国と同列に新たな連邦国を形成すべきであると主張した。
5か年計画と大粛清
1924年1月にレーニンが死去すると、スターリンが後継の最高指導者となった。ロシア共和国はソ連の構成国では最大の農業国だったが、1928年10月にアメリカなどの工業国に対抗するべく5か年計画を実施し、ソビエト・ロシアの土地は一気に工業を重視する土地となった。
1936年8月にスターリンは大粛清を実施し、ソ連国内で反革命分子などと冤罪判決を下された受刑者は、ロシア共和国の奥にあるシベリアの収容所に送られる流刑地と化した。1938年11月に大粛清は終了したが、ロシア共和国内でも多数の犠牲者を出した上に軍の弱体化を招いた。
第2次世界大戦
1939年11月にソ連は自らマイニラ砲撃事件を起こしてフィンランドに冬戦争を仕掛け、明らかな侵略行為が世界から非難されて同年12月に国際連盟から追放された。フィンランド軍が予想外にも抵抗した事でソビエト連邦軍は苦戦したが、1940年3月にフィンランド第2の都市であるヴィープリを含む国土の10パーセント・工業生産の20パーセントが集中する地域をフィンランドから譲り受けるという講和条約を締結して同年3月に成立した。しかし先のスターリンの大粛清が実施された事で、軍が弱っている実態が諸外国に知れ渡る事になった。
1941年6月にナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を実行し、同月に独ソ戦に突入してソ連と交戦する。フィンランドから飛来したドイツ軍機に攻撃された報復としてソビエト連邦軍機がフィンランドを爆撃した事により、同月に枢軸国となったフィンランドの宣戦布告で継続戦争も勃発した。ソ連ではこの2つの戦争を一括りにして大祖国戦争と呼んでいる。
ドイツ軍に西ロシアの一部が占領された上に、首都のモスクワ一歩手前にまで追い込まれ(モスクワの戦い)、丁度冬が来てドイツ軍が冬将軍に襲われた。おまけにドイツ軍は短期決戦を想定していたので冬季装備を用意しておらず、ドイツ軍兵士ではロシアの冬の寒さに耐えられずに餓死してしまうか、ソ連に降伏する者が多かったのでソ連側が戦略的に勝利した。
1941年9月から1944年1月にかけて第2の大都市であるレニングラードがドイツ軍に包囲されるレニングラード包囲戦が開戦した。ソ連・ドイツ双方に多数の犠牲者を出す苛烈な戦闘となったが、ソビエト連邦軍が勝利した事でドイツ軍は防戦を強いられる事になった。一方でフィンランドとの継続戦争ではソビエト連邦軍が反攻に転じ、1944年9月に休戦協定を締結して終戦となった。
ソ連はドイツに対して大規模な攻勢に打って出る事になり、1945年5月にその首都であるベルリンを占領して独ソ戦は終結したが、ドイツ軍の攻撃からの復興にはかなり時間がかかった。同年8月にヤルタ会談での極東密約に基づいてソ連は大日本帝国と満州国に侵攻し、同月に日本はポツダム宣言を受諾して敗戦した。しかしソ連は同年9月まで一方的に戦闘を継続し、同月に北方領土を占領した後は1946年2月に最高会議幹部会令を発令して領土として編入した。
ボリス・エリツィンの台頭
1985年3月にミハイル・ゴルバチョフが党書記長に就任してからは、一党独裁制で腐敗した政治システムを一新するべく、1987年1月からペレストロイカやグラスノスチなどの改革運動を進めた。1988年12月にその一環としてそれまでの最高会議に代わり、人民代議員大会の創設が決定された。
1989年3月に第1回人民代議員大会選挙が実施され、党内で失脚していたボリス・エリツィンら急進改革派が多数も当選した。同年5月にエリツィンはロシア共和国の最高会議議長に就任し、同年6月に第1回ロシア・ソビエト社会主義共和国人民代議員大会で国家主権宣言が採択され、同年7月にエリツィンは共産党からの離党を宣言する。1991年ロシア連邦大統領選挙でエリツィンは無所属で当選し、ロシア・ソビエト社会主義共和国の大統領に就任した。
8月クーデターからソ連崩壊まで
1991年8月に調印する予定だった新連邦条約に反発するゲンナジー・ヤナーエフ副大統領ら守旧派はクーデターを起こしたが、エリツィンら改革派や市民の抵抗に遭って失敗した。クーデターの首謀者はゴルバチョフの側近たちだった事からソ連の権威が失墜し、ロシア・ソビエト社会主義共和国がソ連より優位に立つ事を決定する出来事となった。
同年12月にゴルバチョフは年中にソ連政府が活動を停止する事を宣言し、同月にグルジアと既に独立したバルト3国を除く11か国のソ連構成共和国の国家元首が、CIS(独立国家共同体)の発足やソ連の解体を決議したアルマ・アタ宣言を採択した。これを受けて同月にゴルバチョフは大統領を辞任してソ連は崩壊し、最高会議決議によってロシア連邦に改称してこれを継承した。