概要
ソ連の政治家。ソビエト革命政権初代元首
本名レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー。
ウクライナ生まれのソビエト連邦の政治家、マルクス主義思想家。革命指導者、共産党版十二使徒の一。 ソビエト陣営の指導者でソ連建国にも携わった。
永久革命男・初代革命戦士
最初の共産主義革命戦士(赤色テロリスト)的存在で、自他共に認める天才なのだが、全く他人と協調できず一人で突っ走るタイプ(一人永久革命男)であり、ソ連共産党内でも、同僚や部下の意見をまったく聞かず一人で突っ走るなど完全に浮いていた。
トロツキーは過激な共産主義思想を振りまき、ロシアの民の民意を暴力革命に統一した。
ロシア帝国政府を打倒した。その際に赤軍を創設の創健者となり総司令官となる。後にレーニン率いる暴力革命派(ボリシェビキ)と共闘した。1917~22年の間にロシア帝国政府およびロシア共和国政府を滅ぼすと、ソビエト(民会)革命政府をのリーダ(議長)就任し1905年から1917年までのソビエト(民会)革命政府のソビエト議長(元首)をつとめる。
しかし、彼のソビエトから始まり世界を巻き込んで全てをひっくり返す革命(永久革命)という主張は当時の同輩に当たるボリシェビキ(共産党員)からも現実的に無茶だと思われていた。トロツキー以外のメンバーの殆どがほぼ無理だと思っていた。
全てをひっくり返すよりも、共産党員が全力で独裁をしてゆくほうがまだ現実的に見えた、当時は。結局、党首脳のレーニン・スターリンなどの他の共産党員からも疎まれた。
1922年にソビエト議長にI・カリーニンが就任し、『ソヴィエト連邦』として正式に国家として成立すると、トロツキーの元首時代は無かったことになる。
これによって初代元首を『トロツキー』とするか『カリーニン』とするかの対立が共産党支持かソビエト政権支持かの対立に発展し、論争や内ゲバの素材となる。この対立はゴルバチョフが登場するまで、共産党が唯一正統なソビエト革命の組織として存在していたが、ゴルバチョフが共産党もソビエトも通り越した政冶設計を開始した結果、対立は無用になり、ソヴィエト連邦自体が消滅すると、もはや何を争っていたのかわからなくなる社会主義・共産主義者が続出した。
単身、南米メキシコに行き新共産主義革命国家を立てようとメキシコへ亡命。亡命後もスターリンのやり方を非難し、スターリン伝を執筆する。彼自身は息子の殺害によって暗殺に対しては警戒していたが、その甲斐虚しく、1940年にスターリンの刺客によって暗殺される。彼の死はしばらく隠蔽され、過去の写真にも初めから存在しなかったかのように削除された。なお、トロツキーは南米の共産主義者の開祖として今も左翼諸派からは崇拝されている。
彼の残した著書は「わが生涯」、「裏切られた革命」など多数存在する。
【参考文献】
・wikipedeia Троцкий, Лев Давидович
関連項目
- 連合赤軍・・・日本での共産主義暴力革命を標榜した組織だが、実際的には軍隊の体をなしておらず、個人個人において共産主義的純化を求め、つぶし合った集団となった集団。よって、個人で事件行動する物しか現れなかった。
- 革命戦士・・・共産主義を暴力で達成しようとする者の通称。(イスラム国の戦闘員や過激派といろいろ一致する)
- 安彦良和・・・トロツキーを取り扱った『亡国のトロツキー』という漫画が存在する。