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ドイツ社会主義統一党

どいつしゃかいしゅぎとういつとう

東ドイツの指導政党、ソ連が結党させる。マルクス・レーニン主義を掲げた政権政党だった。「ドイツ統一社会党」と呼ばれる場合もある。 1946 - 1990 解散
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ドイツ社会主義統一党

ドイツしゃかいしゅぎとういつとう、

ドイツ語:Sozialistische Einheitspartei Deutschlands

略称:SED

ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の政党。マルクス・レーニン主義を掲げた政権政党だった。「ドイツ統一社会党」と呼ばれる場合もある。

紹介編集

  • 1946年10月にドイツのソ連占領地区でドイツ共産党(KPD)とドイツ社会民主党(SPD)が合併して成立した。
  • 西側占領地区ではSPDはそのまま存続して現在に至り、KPDは1956年に連邦憲法裁判所より違憲判決を下され解散している。ベルリンのSPDはKPDとの統一の賛否を決める投票が行われた。
  • 東ベルリンではソ連軍によって投票が禁止されたため、実際投票が出来たのは西ベルリンのSPD党員のみであった。
  • その結果、KPDとの統一に賛成したのはわずか12パーセントであったため、ベルリンは東ベルリンも含めてSED成立後も一定期間、SPDが存続した※(西ベルリンSPDが東ベルリンでも活動を許されていた。一方で西ベルリンには西ベルリンSEDも存在した)。
  • 合併後、最初期は指導部の半分ずつが旧KPDと旧SPDであったが、旧SPD系の党員は徐々に除名され、実体はKPDと何ら変わらないものとなった。
  • 1946年当時存在していた政党としてはドイツ最古であったSPDは、全国に強力なネットワークを持っていたため、KPDが政権を掌握する上での利用価値は非常に高かったとされる。(合併当時、KPD党員が60万名に対して、SPD党員は68万人と数の上では優勢であった。
  • 1949年にソ連占領地区がドイツ民主共和国となると、国家を指導する党として事実上の一党独裁体制を敷き、東ドイツを支配した。

統一後のドイツ社会主義統一党編集

  • 1989年の民主化で政権を失い、社会主義統一党/民主社会党(SED/PDS)を経て民主社会党 (PDS) と改名した。後にPDSはSPD(西側占領地区→旧西ドイツ)左派の一部を受け入れて、左翼党を結成。
  • 連邦議会第4党として一定の勢力を保ち、特に旧東ドイツでは根強い支持を受けているほか、旧西ドイツ地域でも支持を広げている。

歴代指導者編集

議長編集

  • オットー・グローテヴォール(1946 - 1950、共同議長)
  • ヴィルヘルム・ピーク(1946 - 1950、共同議長)

書記長編集

正式には「中央委員会書記長」。1953年から1976年までは「第一書記」。

  • ヴァルター・ウルブリヒト(1950 - 1971)
  • エーリッヒ・ホーネッカー(1971 - 1989)
  • エゴン・クレンツ(1989)

関連タグ編集

衛星国

ソ連

東ドイツ

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