概要
この団体は当初ノロドム・シハヌーク( 政治家、国王 )政権が縁故社会主義に陥った際、これに反対する武闘左翼勢力を指す言葉であったが、その後民主カンプチアの支配を行い、カンプチア人民共和国やカンボジア王国への抵抗を行った勢力の総称として用いられ、特にポル・ポトを中心としたポルポト派と呼ばれることがある。
歴史の流れ
シハヌーク政権
ノロドム・シハヌーク政権成立後、これに反対する極左勢力「カンプチア共産党」は武装し、反政府闘争を開始、当時は隣国であるベトナムにてベトナム戦争が発生しており、影響は出始めていたが、まだこの団体はそれほどの力を持っていなかったものの、政府の失政などにより徐々に影響力を増していった。
ロン・ノル政権
シハヌーク政権が徐々に北ベトナムよりとなっていったことを受け、1970年にはロン・ノルがクーデターを勃発させ北京にて療養中のシハヌークを追放、このクーデターは当時南ベトナムを支援していたアメリカ合衆国が強く支援したとされるが、この事象によりカンボジアは( 当時クメール・ルージュを支援していた )北ベトナムに侵攻され、さらにシハヌークはクーデターに反対するためにこの団体を支援したこと、さらにベトナム戦争の代理戦争状態の内戦となり、ロン・ノルは支持を失っていった。
政権奪取
代理戦争の影響により国内のインフラは壊滅、それまで農産物の輸出を行っていたにもかかわらず、輸入国に転落し、特に元農村部では飢餓状態になり、この団体の支持が強くなると同時に、中華人民共和国の支援を受け政府軍との戦争を続け、1973年にアメリカ合衆国がベトナム戦争から離脱、後ろ盾を失ったロン・ノル政権は速やかに崩壊する。
民主カンプチア
この団体は1976年には首都であるプノンペンを支配、「民主カンプチア」を成立させるが、この団体は共産主義、しかも毛沢東思想のそれを取り入れたこともあり、この「国家」は国のために全くならなかった。
- 団体内部の粛清を開始(親中反越路線に異を唱えた人物は処刑されるかベトナムに亡命した)
- 都市の住民を強制移住させ何の知識のない農業に従事させる、移動中やその後飢餓で大量死
- 何らかの知識のある人を大量虐殺
- 帰国した留学生や知識階級も虐殺
- 海外からの食料等の支援はなかった( 中華人民共和国でさえ! )
- 1978年にはベトナムと断交
このように国を「洒落にならない」状況に追い込んでしまった。
崩壊
1978年、東部部隊粛清によりベトナムへの難民が発生、ベトナムは先に亡命していた元カンプチア共産党反主流派党員と共にこれを反政府組織の「カンプチア人民革命党」及び「カンプチア救国民族統一戦線」として組織化させ、ベトナムの兵力とともに侵攻させたが、自らの政策等により弱体化していたこの団体にはそれに耐える力はなく、プノンペンは陥落、カンプチア人民共和国の政権が成立したものの、この団体はタイ国境付近に逃亡し「民主カンプチア連合政府」として再編。そこで抗戦を図ることとなり、中華人民共和国のほかにアメリカ合衆国やイギリス等がカンプチア人民共和国を傀儡政権と断じて、支援を行った。
最後
傀儡政権の抵抗を合言葉にほかの勢力と合同し、抵抗を続けていたものの、1981年に毛沢東思想を放棄して社会民主主義を掲げる「カンボジア民主党」と改称。ゲリラ戦になれていたベトナムの指導の下、カンプチア人民共和国軍による殲滅作戦が功を奏し1985年には兵力の多数がことごとく戦死して戦力の多くを失った。さらにベトナムのドイモイ政策によって和平ムードとなり、1991年には総選挙により政権選択を行う流れとなった。その際この団体は当初「カンボジア国民統一党」と改称し参加する方針を出したものの結局それには参加せず抵抗をつづけたため新生カンボジア王国政府から非合法化された。1997年、派閥争いにより「民主国家連合運動」と「クメール国民連帯党」に分裂、ポル・ポトはその際拘束され、裁判により終身刑となり翌年死亡、1999年には中枢はほぼ死亡するか確保され、ほとんどの力を失ったとされる。