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概要編集

カンボジア政治家クメール・ルージュの大幹部であり、ポル・ポトの側近。

クメール・ルージュの「表の顔」を務めていたが、実権は一貫してポル・ポトが握っていた。


シハヌーク政権の王制社会主義に満足せず、更に急進的な左翼思想を唱える新聞を出版して逮捕されたこともあるが、その後シハヌーク政権下で国会議員閣僚などを務めた。


経歴編集

1970年にロン・ノルのクーデター親米政府が樹立された際にはこれに対抗する地下活動を開始。シハヌークとクメール・ルージュが共同で樹立した臨時政府にて国防大臣・民族解放軍最高司令官に任命される。

但し実際にゲリラ闘争を指揮したのはポル・ポトであり、サムファンはこの頃から「表の顔」に過ぎなかった。


1975年、クメール・ルージュがロン・ノル政権を打倒し民主カンプチアを樹立したと同時にシハヌークが国家元首に就任したが、シハヌークは幽閉され後に国家元首の地位を追われる。

代わって元首に相当する国家幹部会議長という職位が新設され、サムファンがこれに就任した。


1978年のベトナム軍侵攻で首都を追われた際には国境地帯に逃げ延びゲリラ戦で対抗。

民主カンプチア時代の「大量虐殺」のイメージを薄めるために再び担ぎ出され、ポル・ポトに代わって民主カンプチアの首相に就任。ポル・ポト派とシハヌーク派が樹立した連合政府では副大統領を務める。

しかし、既にサムファンもカンボジア国民にとっては憎悪の対象となっており、1991年にカンボジア内戦の和平成立後に帰国した際には怒れる群衆に罵倒され袋叩きに遭っている。


1993年の選挙をクメール・ルージュはボイコットし非合法闘争路線を継続し、その後内ゲバを激化させる。サムファンは一貫してポル・ポトの側に付いていたが、党内敵対者のタ・モクに敗れ、名目上は指導者に留まりながらも実権を失う。


1998年に、シハヌーク国王のカンボジア政府に投降した。民主カンプチア政権時代に残虐行為が存在したことは認めているが自身が関与したことは否定し続けている。

現在も存命(2022年時点で91歳)だが民主カンプチア時代の残虐行為で逮捕訴追されており、終身刑判決が下されている。


関連タグ編集

ポル・ポト クメール・ルージュ

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