フランス戦闘機の系譜
1944年8月、アメリカを始めとする連合軍により、パリがナチスより解放される。
8月には太平洋における大戦も終結し、フランスは復興を加速させてゆく。
1947年、ダッソーは早くも戦後初のフランス国産戦闘機の開発に着手する。
これは戦後初の自動車「シトロエン2CV」発表の、さらに1年前という速さである。
1949年に初飛行を遂げたこの機の名が「ダッソー・ウーラガン」で、エンジンはイギリス製の「ニーン」を搭載している。
初飛行から2年後、ウーラガンは「ミステール」へと発展し、
1954年には国産エンジンにてヨーロッパ機初の超音速飛行を達成している。
生産は1954年から58年まで続けられ、さらに改良された機はインド(印パ戦争)やイスラエル(第二次中東戦争)の手によって砲火の洗礼を受ける事となる。
うつくしき「幻影」あらわる
「軽戦闘機計画」
1952年、ミステール初飛行の直後からフランスは軽戦闘機についての研究をはじめており、
翌年には朝鮮戦争の教訓を踏まえた要求仕様が出来上がった。
(もちろんMiG-15登場の衝撃によるもの)
ただし、ここで提出された開発プランはいずれも『小さすぎてレーダーを積めない』という問題を抱えており、計画は一度中止して、仕切り直す事になった。
デルタの刺客
1956年、新たに『マッハ2クラスの新世代戦闘機の開発要求』がフランス空軍から発表され、
ダッソーではミステール戦闘機にデルタ翼を組み合わせた「ミステール・デルタ」の改良型(というか拡大型)を製作し、1956年11月17日初飛行を遂げた。
この機はほどなくミラージュに改称され、
のちに「ミラージュ」として有名になる一連の戦闘機のはじまりとなる。
だが、万事が順風満帆とはいかなかった。当初は音速を超えられなかったのだ。
試作機の最高速度はマッハ1台に止まっており、
たとえロケット・ブースターを使用しても、最高速度はマッハ2に達しなかったのである。
その後ミラージュは改良を続け、
1957年、新型エンジンを搭載するために再設計・大型化された「ミラージュⅢ」がはじめて採用を勝ち取った。
試作機であるミラージュⅢAは1958年5月12日に初飛行、同年10月24日には最高速度マッハ2を記録した。(もちろんヨーロッパ開発の戦闘機としては初)
続くミラージュⅢBは練習機とされ、本格的な実戦型はミラージュⅢCからとなった。
さらにⅢD(ⅢEの練習機型)を経て戦闘爆撃機のⅢEが登場。
このⅢEを基にした偵察機、ⅢRやⅢRDも生み出されている。
ミラージュ、第二世界ヲ席巻ス
ミラージュⅢは輸出も盛んに行われ、Wikiによると、実に11か国で採用されている。
生産数は1422機(ミラージュ5・50含む)にもおよび、量産効果で価格も割安になっていった。
割安になった事でますます人気を博し、最終号機が工場を出たのは1992年の事になった。
現在でも中古で使い続ける国があり、今なお支持される戦闘機である。
特徴まで美しい?
ミラージュⅢはピュアデルタ翼(純デルタ翼)を採用しているのが特徴である。
これは1950年代の世界的流行で、同じころにはF-102やMiG-21も開発されている。
(ただしMiG-21は尾翼のある「テイルドデルタ」型である)
だがピュアデルタは離着陸で不利という欠点もあり、
のちに主翼の翼端を切り落とし、尾翼を付け足したミラージュF1にも発展した。
(この経験はラファールにつながる「クロースカップルドデルタ」の基礎にもなっていく)
ミラージュⅢの後継機はミラージュ2000となったが、
開発期間を長く取れなかったので翼形はピュアデルタをそのまま引き継ぐ事になった。
ミラージュⅢの派生
ミラージュ5
戦果としてはイスラエルによる中東戦争のものが良く知られている。
だが、この戦争はミラージュの弱点をあらわにする結果にもなった。
明らかになった弱点、それは『レーダーがあまり役に立たなかった』というものである。
当時(1950年代)のレーダー技術はまだまだ未熟なもので、故障が多くて精度も悪かった。
そのうえ精密電子機器とあって整備も複雑とくれば、最初から搭載しない型が望まれることになる。
こうして登場したのがⅢEを基にレーダーを未搭載とした「ミラージュ5」で、
ミラージュⅢV(VTOL試験型)と混同しないようにアラビア数字で表記される。
こちらも14か国へ輸出され(wiki)、整備が簡単になったのもあって採用国は増えている。
ミラージュ50
ミラージュ5に新型機のエンジンを組み合わせた型を「ミラージュ50」という。
既存のミラージュ5から改造された機が殆どで、カナードも装備可能。
だが中途半端な強化が災いして、あまり多くの国には売れなかった。
ネシェル
元々ミラージュ5はイスラエルの要求により開発されていたのだが、
「第三次中東戦争を勃発させた制裁」として輸出は禁止されてしまう。
それでも「売らんでもないフランス」と「どうしても手に入れたいイスラエル」の利害一致によってライセンス生産契約が結ばれ、機体を生産される見込みはついた。
だが、今度はエンジンの権利関係で生産は出来ない事になってしまう。
(ミラージュはあくまで民間企業の「商品」だったが、エンジン生産はフランス国有企業で行われていた為、許可して「フランスが国家ぐるみでイスラエル側に加担している」と見做されてしまう事を恐れたものと思われる)
そこでイスラエルのとった方策が『スパイ組織(モサド)による設計図奪取』で、
ライセンス生産を許されていたスイスの工場から設計図を盗み出す作戦が取られたのであった。
(なかば誘導されたようなものだが)
ネシェルは1971年から1977年まで運用され、
その後は改良型のクフィルと入れ替えられることになる。
なお、イスラエル空軍から退役したネシェルはダガーの名でアルゼンチンへ輸出され、
ミラージュⅢEAと共にフォークランド紛争に投入されている。
この戦争で生き残ったネシェルは近代化改修をうけて『フィンガー』へと改造され、
今なお現役を務めているという。
クフィル
紆余曲折をへてようやく生産されたネシェルだったが、さっそく困難にも直面した。
それが『高地・高温の状況でのエンジンのパワー不足が著しい』という問題である。
このエンジンの豊かなパワーにほれ込んだ空軍はネシェルにも導入することを提案する。
ミラージュⅢにJ-79を搭載した試作機「サルボ」は1970年に初飛行し、
改良された「バラク」に続いて1973年に「クフィル」も初飛行を遂げる事になる。
生産されたネシェルは程なくクフィルに置き換えられ、イスラエルの主力を担った。
1982年のレバノン侵攻では実戦にも投入されたが、現在ではすべて引退している。
だがJ-79はアメリカ製エンジンであるため、輸出にはアメリカの許可が必要になる。
この許可(再輸出許可)を得るのに手間取ってしまい、
またミラージュⅢがすでに多く出回っていた事もあって、輸出は3か国に限られた。
総評
フランスの輸出用戦闘機といえば「ミラージュ」と連想されるほど有名である。
この戦闘機の売れた要因はいくつかあり、
・フランス製はそこそこ高性能(マッハ2が出せる)
・割に安く買える
・政治的干渉を受ける危険も小さい
などなどが挙げられる。
基本設計が古いので、デルタ翼特有の問題には荒削りな面も多く残されている。
ダッソー社の技術チームはミラージュ2000でFBWによる「飼い慣らし」を試み、
ラファールではカナードも併用する事で一応の解決を見ている。
(そして次なる問題はステルス性能となるだろう)
ダッソーはこれからも美しいデルタ翼戦闘機と共にあり続けることだろう。
同時に、それが兵器であることが実に残念である。