概要
コンベア社(アメリカ)が開発し、アメリカ空軍に制式採用されたジェット戦闘機。愛称はデルタ・ダガーだが、関係者の間ではデュースと呼ばれていた。
アレクサンダー・マルティン・リピッシュのコンセプトに基づいた、デルタ翼の超音速機である。
開発は難航し、アメリカ空軍はF-102の性能に満足しなかったため、改良型のF-106が開発された。
ペーパー・クリップ作戦
第二次世界大戦末から終戦直後にかけ、アメリカ軍はドイツ人の優秀な科学者をアメリカに連行し、ソ連と対抗するための科学技術導入を図った。
一連の行動はペーパー・クリップ作戦と呼ばれ、Me163の機体を設計したアレクサンダー・マルティン・リピッシュは1946年から1950年までコンベア社に在籍した。
XF-92
1945年9月、アメリカ陸軍航空軍はコンベア社に最高速度700マイル/時、4分以内に50,000フィートまで上昇という超音速迎撃機(MX-813)の試作を発注した。
開発は難航し頓挫しかけたが、リピッシュ博士のデルタ翼案により全面的に再設計されることになり、XP-92として軍の承認を得た。
1947年から飛行試験が行われた。
満足のいく結果は得られず、開発は取り止めとなったが、デルタ翼研究に一定の役割を果たした。
クック・クレイギー・プラン
1949年、アメリカ空軍は北米大陸に来襲するソ連の戦略爆撃機を要撃するため、地上自動防空管制システムに組み込まれて運用される超音速戦闘機のプランを各社に求めた。電子管制システムは、ヒューズ・エアクラフト社のMX1179システムを採用する事になった(MX1154計画)。
1950年10月、コンベア社の提出したデルタ翼戦闘機のプランがYF-102として採用された。
1951年12月、試作機YF-102が正式発注されたが、開発は、先に生産ラインを組み、量産準備型を製作しつつテストを行い、本格量産型にフィードバックして開発期間の短縮を目指す「クック・クレイギー・プラン」により行われる事となり、1953年10月24日、1号機が量産準備型として完成した。
しかし、YF-102は音速を超えられず、1954年12月21日、エリアルールを採用して抜本的に改設計したYF-102Aにより漸く音速を突破する事が出来た。
用意していた生産設備や部品などが全て無駄になり、「クック・クレイギー・プラン」の最悪例とされる。
アメリカ空軍はYF-102Aの性能に満足せず、コンベア社はF-102Bの開発に着手し、後にF-106となる。
運用
F-102Aとして1955年より量産が開始され、総計889機が生産された。
開発の遅れていたMX1179システムの代わりにF-86DのE-9を流用し、エンジンはJ-75系を使用していた。
1959年からアメリカ国内には後継機であるF-106が配備される事になり、F-102は海外への配備が進められ、西ドイツ、オランダ、日本、タイなどに進出した。
1969年以降は、ギリシャ、トルコに供与された。