概要
第二次世界大戦中にメッサーシュミット社が開発した、史上唯一の実用ロケット戦闘機。
桁外れのスピードは連合軍爆撃機を震え上がらせたが、航続距離が極端に短いことが明らかになってからは『基地のある辺りは通らない』という対策によって無力化された。
通称『コメート』(彗星)。
ドイツのロケット航空機
ロケット航空機の構想は1920年代から存在するが、ロケットエンジンの燃焼の制御も燃料の扱いも困難であった。
1937年、ヴェルナー・フォン・ブラウンがA1ロケットエンジンを開発し、それをハインケル博士(ハインケル社)がHe112に搭載して実験を行った。同年6月には離陸~着陸までをロケットエンジンで行い、実用化に先鞭をつけている。
1938年、アレクサンダー・リピッシュ博士のDFS39(グライダー)に、HWK-R1型ヴァルター式ロケットエンジンを搭載した実験機が提案される。
(提案元は空軍省とリピッシュ博士、両方の説がある)
この機は「DFS194」と命名され、リピッシュ博士はメッサーシュミット社内部に「L部門」を組織して開発に当たることになった。
「HWK-R1」とは
燃料は高濃度の過酸化水素(T液)と、ヒドラジン・メチルアルコール混合物(C液)からなる化学燃料ロケットである。
T液は極めて高濃度で、身体にかかった場合は大やけどを負う可能性がある。
C液のヒドラジンも触れると同様に大やけどを負う。吸いこんだ場合は気管に酷い炎症を起こす。
ナチスドイツではこういった危険物質の製造にユダヤ人を動員しており、作業中に負傷・死亡する事例も多かった。
Me163の開発
1939年末、DFS194が初飛行。
ドイツ空軍省はDFS194を「Me163」と命名し試作機3機を発注した。
1941年には滑空で855.8km/hを記録。
エンジンが改良されたHWK-R2-203型は最高速度1011km/hを記録した。
この高性能を目の当たりにした空軍省は『迎撃機ならば使える』と判断し、実戦型のMe163B-0を70機発注した。武装や無線機を搭載し、燃料タンクや防弾装備を追加。増えた重量をエンジンの強化で補った。
1942年4月、Me163B-0の1号機が完成。
推力1900kgのHWK-109-509型ロケットエンジンを搭載したMe163は、機体が小型・軽量なこともあり高度10000mまで3分半という上昇力を誇った。
武装は当初「MG151/20」(総弾数100発)が装備されていたが、Me262に採用された「Mk.108」(総弾数60発)に強化された。B-17も4発当たれば撃墜できる高火力であった。
機体の問題
だがロケットエンジンの燃焼時間は8分と短く、上昇しても1~2回しか攻撃出来ない。Me163とB-17の速度差は500km/h近くにもなるため射撃のタイミングはほんの一瞬である。
Me163は燃料が燃え尽きればただのグライダーであり、無力となる。推力で無理やり飛ばす飛行機のため、操縦は難しかった。翼面荷重が大きく着陸速度も大きくなる上、幅狭の橇で着陸するため、ちょっとしたミスが横転につながる。無事に停止できても、牽引車が来るまで地上で無防備な姿を晒すこととなった。
運用施設の問題
運用にはロケット噴射で滑走路が焼けないよう、コンクリートで舗装する必要がある。
戦争も末期となると新たな発進基地を建設する事も困難だった。
行動半径は数十キロ程度であり、連合国側は基地の近くに寄らず、最初から無視する事とした。
日本版Me163「秋水」
戦時中、ドイツの同盟国であった日本にロケットエンジンと機体の図面が遣独潜水艦によってもたらされ、「秋水」が開発された。
犬猿の仲であった陸海軍が共同で進めることとなり、海軍が開発した機体にはJ8M1、陸軍の機体にはキ202という形番が付いたが、終戦までに試作機が完成したのは海軍のJ8M1だけであった。
7月7日に初飛行が行われたが、高度400mでエンジン停止。河川敷に緊急着陸するが翼端が監視塔に接触し鷹取川の水面で反跳した後、飛行場西端で大破。操縦していた犬塚大尉は翌日死亡した。
秋水の試験再開予定は8月15日で、日本が降伏したため実施されなかた。
戦後のロケット戦闘機
戦後もロケット戦闘機の研究は続けられ、ソ連ではMe163発展型(Me263)の設計をそのまま生かした「I-270」、アメリカはF-84を基にしたジェットとの混合動力機「XF-91」、イギリスの「サンダース・ローSR.53」、フランスは「ノール1500グリフォン」を開発した。
だが、ロケットの燃料がもつのは短時間(軌道打ち上げブースターでも数十分)で運用に難が多く、ジェット機には敵わないためロケット推進戦闘機が実用化される事はなかった。