ハリアー
はりあー
英国ホーカー・シドレー社が開発した世界初の実用垂直離着陸機(V/STOL機)である。
原型機の初飛行は1960年。
1970年代の時点で初期型のハリアーは性能の限界に達していたが、アメリカのマクドネル・ダグラス社はより洗練したAV-8B型を開発した。
VTOLへの期待
第二次世界大戦終結後、世界各国は次世代の戦闘機を模索していた。
Me262のようなジェット戦闘機はもちろんの事だが、これとは別に『どんな場所からでも離着陸できる戦闘機』という構想も求められていた。
最初に実用化された方法は『テイル・シッター方式』といい、わかりやすくいえば通常の航空機を縦にして運用するというものである。
中でもトリープフリューゲルなどはよく知られている。
核兵器が実用的とになっていた当時、どの国も首都への核攻撃だけは絶対に阻止しなくてはならない問題であり、VTOLはそのための迎撃機として期待されていた。
コンベアXFYなどのように、中には穀物サイロと思わせる偽装格納庫が用意される程であった。
航空機というものは実に厄介なもので、エンジンや機体設計で得られた「合計得点」の中から、目的にあわせて割り振らなくてはいけない。
つまり『重い荷物を積む』、『長く速く飛行する』なら多くの「得点」を割り振らなくてはならず、『軽い荷物を遅く運ぶ』ならばその分機動性や運動性に多く得点を割り振れるという理屈となる。
VTOLには多くの点数を求められ、その分航空機としての点数を差し引かれるのである。
そのうえ推力が自重を上回らなければ離昇できないので、当時のエンジン出力でこの方法は難しく、計画はいずれも中止される事となった。
ジェットVTOLの試行錯誤
そこで次に考えられたのが、『機体は水平のまま。噴射の方向だけ下にむけて垂直離着陸する』という方法である。
1954年フランス人技術者ミシェル・ウィボーが「ジロプテール」を提案。
これはエンジン前方に配置した四基の遠心式ブロワーをシャフト駆動し、ブロワーのケーシングごと回転偏向させることで垂直離着陸を可能とする対地攻撃機」というものである。
この提案は結局フランス政府の興味を惹くことはできず、ウィボーは1956年今度は「NATO総合兵器開発計画」(アメリカ出資)に提出する。
この案は最終的に英国のブリストル・エンジン社にもたらされ、研究が進められていくことになる。
当時の英国の国防予算は大幅に削減されていたが、それでも1959年には試作機2機の製作が決まった。
P.1127『ケストレル』登場
1960年7月、最初の試作機「P.1127『ケストレル(チョウゲンボウの意)』」が完成して軍に引き渡される。
しばらくはエンジンテストが繰り返され、機体をクレーンで吊るしての浮揚テストに成功。
11月には単独でのホバリングにも成功している。
P.1127は続く発展型「P.1154」のための実験機として開発されていたが、資金など諸般の事情でこちらの開発は中止となり、P.1127は実用機として改良されることになった。
1966年ケストレル実戦機型『ハリアー』が初飛行。
1968年には実戦配備が開始され、ハリアーは「対地攻撃・偵察」を示す符号「GR」がふられた。
ただし練習機の開発は1969年まで遅れ、最初の部隊の作戦能力獲得は1970年半ばとなる。
フォークランド紛争
最初の実戦は1982年のフォークランド紛争で、GR.3(空軍)とFRS.1(海軍)が参加している。
ただしその戦場ではハリアーにとって最初の試練ともなった。
シーハリアーのレーダーにはBVR(視界外戦闘)能力がなく、しかも航続距離が短かったのである。
艦隊全体の結果でもあるのだが当機種は護衛をしきれず2隻の艦艇を失う事になった。
ただ、フォークランド諸島の飛行場は滑走路が短すぎて戦闘機の運用は不可能だったため、アルゼンチン側もわざわざ本土から戦闘機を送り込まなければならず戦闘可能時間が制限されたという点で地の利があった事もあり、空戦そのものではアルゼンチンの20機を撃墜して損失なしという戦果を記録しており、パイロットの能力と共に高く評価されている。
続くFA.2ではBVR能力が求められ、より強力なレーダーとAMRAAM運用能力が追加された。