概要
元祖「撃たれても墜ちない攻撃機」。
コクピットやエンジンには最大12mmの装甲が施され、これは戦間期の戦車にも相当する。20mm機関砲の弾でも角度が浅いと弾かれてしまう。
「生産数世界最多の航空機」だったが、現在はセスナ172に抜かれている。生産数は36154機(未だに軍用機としては世界最多)。
ドイツ軍パイロットには「コンクリート爆撃機」、陸軍兵士には「黒死病」と呼ばれた。
装甲攻撃機とは
もともとは対地攻撃用の装甲攻撃機として構想が始まった。
第一次大戦で塹壕が攻撃の妨げになったため、あらかじめ塹壕を機銃掃射して味方の攻撃を助ける目的であった。
このような攻撃機は各国でも開発が進んでいたものの、とうとう実現した機体は無かった。機銃の搭載を増やすと重くなり、反撃に備えて装甲すると、今度は重すぎて飛べなくなったのだ。
Il-2はこの延長上にあると言える。航空機としては常識破りの装甲を施し、強力な機銃で武装する。
小銃弾では傷もつかない。逆に機関砲掃射を見舞えば戦車すら火を噴く。まさに空飛ぶ戦車である(現代ではMi-24あたりが相当するかもしれない)。
開発コードは『空飛ぶ戦車』
さて、戦間期に散々試作されてはモノにならなかった装甲攻撃機だが、ソビエトは諦めずに継続していた。
だが、開発コード「LT」(空飛ぶ戦車)は決して順調ではなかった。どんなに設計で努力を重ねても、700kgにもなる装甲板は重かったのだ。エンジンも出力不足であり、出力向上形が用意される事になった。
またラジエーターと滑油冷却機胴体は機体を上下に貫通するダクト内に納め、急所を隠すと共に空気抵抗を減らす設計だったのだが、冷却不足のためラジエーターを大型化せざるを得なくなり、ダクト内のスペースが無くなった。そのため滑油冷却機の方は胴体下部へ外付けして装甲を施すことになった。
それでも要求仕様には不十分なので、複座を単座に改修して軽量化した。これで生産開始かと思いきや、土壇場で装甲追加となった。生産までは本当にドタバタしていたのだ。
『パンのように必要である!』
1940年10月、生産開始命令。
要求仕様を満たす事は出来なかったが、ともかく戦力化が急がれた。兵装の仕様が決まったのは翌月であった。11月30日、フィンランドと「冬戦争」が勃発。
1941年6月22日、ドイツ軍がソ連に侵攻。「独ソ戦」の開始である。工場はウラル山脈の向こうへの疎開が決定した。
一大事だった。工場の建設だけではない。工作機械や技師も連れて行かなくてはいけない。労働者も必要だ。田舎での人集めも重要課題となった。そして労働者の住居や食料。工場責任者は死に物狂いで働いた。
スターリンからの手紙は『我々には空気やパンのようにIl-2が必要である』という内容だった。
生産に手間取って供給が滞ると、今度は『これ以上待たせて、私の忍耐力を試すようなマネをするな』という手紙が送られてきた。責任者にとっては、まさに死活問題となった。職務を果たさないとシベリア送りだ。いやその前にドイツ軍がウラルまで来るかもしれない。
シュツルモビク、出撃す!
開戦初日、ソ連空軍はドイツ空軍の奇襲攻撃により地上で撃破された。
ややあってIl-2部隊も出撃したが、結果は惨憺たるものだった。最初の部隊は、2週間も戦わないうちに後退した。38機と18名を失う大損害だった。
原因はもちろん単座であることだった。
これでは敵戦闘機に対して脆弱となるが、その分は戦闘機が援護するとされた。それに、強力な装甲がある。
しかし、実際にはそうはいかなかった。まだ投入できる戦闘機の数が少なく、援護を受けられない事が度々あった。いくら装甲があっても、翼が穴だらけにされては飛んでいられない。もともと鈍足なこともあって損害は多かった。
『いいよ、一緒にいてやるよ。一人はさびしいもんな…』
そこで、後ろに機銃を括りつける改造が行われた。これで敵機を追い払おうというのだが、さすがに操縦手が後ろにも機銃を撃つというのは無理があった。そのため現地改造で無理やり複座式にされた機体も多い。
複座型が制式となるのは42年の秋からとなった。生産数確保のためである。
命の値段は二束三文
さて、突貫工事で作られた機銃座である。
防御装甲は一応あるが操縦手に比べ限定的で、敵機に喰らい付かれ、蜂の巣にされるのは決定事項である。
(一応傾斜した6mm装甲なので12mm機銃クラス相手までなら至近でない限り耐えられる装甲ではある)
死亡率が極めて高いのである。その内訳を見てみよう
大戦全期で1万1千機が戦いや事故で損耗し、7837名の乗組員が亡くなったり重症で除隊となった
しかしその数字内でパイロットは871名であり、残り6966人は機銃座乗組員(ガンナー)である。この統計はしばしばil-2が欠陥機であるという主張の根拠に用いられる別の見方をすればパイロットの死亡率が非常に低いという意味なのだが
戦火のなかで
『空気やパンのように必要』とされたIl-2であるが、そればかりを作っていたのではない。性能を向上させた新型機の開発も進んでいた。
一つはエンジンを空冷のシュベツォフM-82に換装したIl-2 M-82である。ミクーリンAM-38エンジンの供給が滞った場合を考えて試作した。結局はAM-38エンジンの生産が安定し、必要とされずに終わった。
次に考えられたのは高速型である。改良型のミクーリンAM-42を搭載したIl-8である。性能面で見るべきところなく放棄された。
決定版となったのがIl-10である。
エンジン出力は25%増しの2,000馬力となった。最大速度も150km速くなり、さらに後方機銃座が装甲されるようになった。
Il-2で複座型の生産が正式に始まり、後背のみ防弾された機銃座だったが、ようやく完全防弾の持ち場になった。1944年秋から生産開始。戦後もチェコなどで生産された。
朝鮮戦争で改良が加えられ、Il-10Mとして再生産されているがあまり活躍できず、136機の生産で終わった。
その後さらにIl-16が開発された。
2,300馬力のミクーリンAM-43エンジンを搭載し、最大速度625kmを発揮するはずだった。しかし、このエンジンはどうにも不調であり、45年始めに完成した試作機も、散々弄くりまわした挙句46年夏には放棄された。
一番の変り種はIl-2Iである。
Il-2をもとにした単座戦闘機だ。
スターリングラード包囲戦ではIl-2が輸送機と遭遇する事もあり、その時に多大な戦果を記録したことによる。装甲が敵機の機銃座の弾丸をすべて跳ね返し、強力な機銃が敵機に血祭りを見せたからである。
しかし、空戦性能そのものが低い為に役に立たなかった。試作どまりである。
性能について
性能は大した事ない。最大速度は400km/h前後である。上昇限度も6,000mが精々。操縦は容易だが、装甲が重いので鈍足である。
しかし、1600馬力だの2000馬力だのといった高出力が並ぶ。これは日本がどうしても到達できなかった水準である。液冷エンジンもモノにしていた。
ソビエトだって科学技術の国だったのだ。
武装について
ロケット弾を主翼下に4~8発か、主翼内蔵の爆弾倉に爆弾を600kg、20mm、23mm、37mm機関砲などを搭載できる。
■RS-82、RS-132■
対空・対地両用のロケット弾。
ロケット弾の威力は高いが、その命中率は非常に低く、戦車に対し降下角度30度、距離300mまで近づいて8発のロケット弾を全弾斉射しても命中率は25%だった(当時としては普通)。
■PTAB■
PTAB(成形炸薬爆弾)は、対戦車目的に開発された小型爆弾である。
クルクス戦以降、多用されるようになった。
PTABは1個1.5~2.5kgと小型だが、超高速の金属噴流により60~100mmの装甲に穴を開けることができる。48個入りコンテナを4セット搭載し、高度300mから投下する事で幅15m、長さ70mに渡って絨毯爆撃を行えるようになった。
■機関砲■
固定兵装として当初20mm ShVAK機関砲が搭載されたが、すぐに23mm VYa-23機関砲となった。砲弾の重量は2倍で砲口初速も高く、戦車の上面の薄い装甲なら貫通できる。
主翼に対戦車機関砲のポッドを装備した型もあった。
37mm機関砲の内、Sh-37は信頼性が低く不採用、NS-37は採用され活躍した。45mm機関砲のNS-45は反動が強すぎて不採用となった。
防御について
エンジン周りは4mmから7mm、コクピット周りは6mmから12mmの装甲に覆われている、というか機体の外板そのものが、厚さの異なる鋼鉄製の装甲板を溶接し繋ぎ合わせた物という、珍しい構造である。
主翼や胴体後部(木製、戦後にアルミ合金製に変更)は防弾されておらず、重装甲と言っても範囲は限定されている。
その後
Il-2の生産は第二次大戦と共に終了した。
後を継いだのは、44年8月より生産が開始されたIl-10である。
北朝鮮空軍機として朝鮮戦争に参加したが活躍出来なかった。何機か鹵獲され、アメリカでテストされている。
この後もIl-20や、ジェット化されたIl-40、Il-42が開発され、1992年のモスクワ航空宇宙ショーで展示されたIl-102に結実する。
しかし一つとして空軍で制式化されることはなく、Il-2の正統な後継機はIl-102を破ったSu-25の登場まで待つことになる。