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芙蓉部隊

ふようぶたい

「芙蓉部隊」とは大日本帝国海軍の夜間戦闘機部隊である。特攻を拒否し敵飛行場や敵艦隊への夜襲で活躍したと言われるが、その実態については異聞もある。
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概要編集

「軍上層部に反抗し命を賭して特攻を拒否した指揮官」として高く評価されている、美濃部正少佐に率いられた夜間戦闘機隊である。しかし、後世に美濃部本人を含む多くの脚色がされた部分もあり異論も多い。


部隊の編制と戦術編集

芙蓉部隊の編制編集

大日本帝国海軍航空隊戦闘804飛行隊戦闘812飛行隊戦闘901飛行隊の3飛行隊により編成されている。編成当初は第3航空艦隊の関東海軍航空隊の所属であり『関東空部隊』と称されていたが、沖縄戦開戦によって九州に進出し第5航空艦隊の所属となってからは『芙蓉部隊』(もしくは芙蓉隊)と称するようになった。

『芙蓉』とは、芙蓉部隊が訓練をしていた藤枝基地から富士山が見えるため、富士山の別名である『芙蓉峰』に因んでいる。隊員たちは芙蓉の花の色である薄紅色のマフラーを着用していたとされる。


部隊の司令官は『関東空部隊』のときは関東海軍航空隊司令官、『芙蓉部隊』になってからは所属する第131海軍航空隊の司令官であったが形式的なもので、実態は3飛行隊の飛行隊長で現場の指揮官であった美濃部正少佐が指揮を執っていた。

『芙蓉部隊』命名に際し副官の徳倉正志大尉により「芙蓉部隊の歌」という部隊歌が作られている。


『芙蓉部隊』は彗星(爆撃機)零式艦上戦闘機合計約70機で編成されていた。他に藤枝基地(現在の航空自衛隊静浜基地)に訓練用の予備部隊として約40機を保有している。

彗星については斜銃を搭載した夜間戦闘機型彗星一二型戊、零戦についても重武装重装甲で空戦重視型の52型丙が優先して配備されているが、これは芙蓉部隊が“一応”夜間戦闘機隊扱いであったからである。

零式艦上戦闘機52型/丙

彗星は日本の航空機としては数少ない液冷エンジン『アツタ』を搭載していたが、特殊資材の不足などによって『アツタ』の生産が滞っており、大量のエンジンなしの彗星の機体が生じることとなったので、生産が順調であった空冷『金星』エンジンを搭載した空冷型三三型が、『アツタ』エンジン彗星と並行して生産されることとなった。


しかし、『金星』エンジン彗星は空気抵抗の増大によって上昇能力や加速性能の低下が見られたので(航続距離だけが燃費向上により延伸している)、優先度の高い航空隊には引き続き高性能の『アツタ』エンジン彗星を配備することとし、特に本土防空の任務にあたる夜間戦闘機隊には、液冷エンジンゆえに高高度性能が通常の日本軍機よりは高い夜間戦闘機型彗星一二型戊が優先的に配備されたものであった。

のちに美濃部が自分の著書において彗星を「殺人機」「各航空隊で見捨てられて放置されていたガラクタをかき集めた」などと回想しており、それを検証することもなく引用した書籍などでもあたかも事実のように語られることがあるが、美濃部の事実誤認に基づく『アツタ』エンジン彗星への理不尽な風評被害に過ぎない。


空技廠  彗星一二型戊 D4Y2-S

芙蓉部隊は夜間戦闘機隊扱いであったので、上記の通り高性能の彗星一二型戊が優先的に配備されているが、美濃部はせっかくの斜銃を取り外させ、通常の爆撃機として運用していた。のちに米軍の夜間戦闘機に一方的に撃墜される機が増えたことから、夜間戦闘機対策として一部の機に再装備させている。

また重武装重装甲の空戦能力重視型零戦52型丙についても、敵戦闘機との制空戦闘は一切させず、敵艦船や飛行場への機銃掃射や偵察任務を行わせており、夜間戦闘機隊とは名ばかりであった。

何しろ機体には特別な夜間装備があったわけでもなく、単に「夜間に作戦行動する」というだけのいわばなんちゃって夜間戦闘機隊であった。


それでも“一応”戦闘機隊扱いであった芙蓉部隊に、海上特攻を行う戦艦大和の護衛任務が命じられたことがあったが、美濃部はこれを「夜間戦闘機隊に昼間の護衛任務は不可能」として拒否している。諸説あるものの、結局大和には同じ海軍からまとまった数の護衛機が付くことはなく、芙蓉部隊ら同じ海軍から見捨てられた大和を不憫に感じたのか、陸軍の第6航空軍の菅原道大司令官が四式戦闘機約40機を付近の制空権確保のために出撃させているが、圧倒的な数の米軍艦載機によって大和は沈められた。


芙蓉部隊の戦術編集

赤くはない緑の彗星。

指揮官の美濃部はラバウルにいたときに、戦闘で精神を病んでしまったかつての教え子から水上機で敵基地を夜襲したいと申し出られたのをヒントにして、比較的に消耗が少なくて熟練搭乗員が多く生き残っている水上機の搭乗員を零戦に乗せて敵の空母を夜襲するという作戦を思い立った。

偵察任務が多く消耗が少ない水上機の搭乗員を、格段に性能が優れる零戦に乗せれば活躍させることができると考えたのであった。


しかし、そこから細かい戦術というのは特に考えていなかった。

美濃部の考案した戦術は、夜間か未明の敵空母が油断している時間帯を狙って強襲し、甲板上に並んでいる艦載機を発艦前に攻撃して誘爆させて、最後は機体もろとも敵空母の飛行甲板に滑り込んで(要するに特攻して)大火災を起こさせて飛行甲板を一掃するというものだった。


しかしながら、大戦後期の米海軍機動部隊は、各艦に高性能レーダーを装備し、その情報を集約する艦隊旗艦のCIC(戦闘指揮所)で常時集中管理されており、夜間だろうが寝込みだろうが油断している時間帯など存在しなかった。

また、各空母にはレーダーも完全装備したF6F-5Nなどのマトモな夜間戦闘機が配備されていた上、夜間戦闘機隊だけを搭載している夜間戦闘専門の空母群もあってまさに万全の夜襲対策を行っていた。

従って、美濃部の構想はまさに絵に描いた餅に過ぎなかったのだ。


また、一部で美濃部が少数機によるゲリラ戦法をとっていたと言われることがあるが、美濃部の理想は「敵が迎撃できないほどの多くの機数による飽和攻撃」であり、実際に偵察任務(敵を発見したら攻撃するといった索敵攻撃任務も含む)は別として進攻作戦においては可能な限り稼働機全機を出撃させている。


のちに命令によって敵飛行場も攻撃するようになったが、当初美濃部が敵飛行場を目標としていなかったのは明らかで、芙蓉部隊を編成する前の第301海軍航空隊、第302海軍航空隊、第153海軍航空隊の飛行長であったときにいずれも敵空母を目標とした訓練を行っており、302空と153空のときには実際に敵空母を目標として出撃も行っている。

終戦時に美濃部がまとめた芙蓉部隊の作戦報告書『芙蓉部隊天号作戦々史』には芙蓉部隊の対敵飛行場戦術として、「敵戦闘機隊が飛行準備ができていない夜間特に黎明期に襲撃して銃爆撃により殲滅する」と記述しているが、これはいわば後付け設定である。


美濃部の特攻戦術について編集

美濃部は特攻を拒否して通常攻撃での夜襲に拘ったとされているが,、まず美濃部はそこまで強固な特攻反対論者ではない

上層部に対する反抗も「我々は特攻を怖れるものではないが、今の特攻は無駄死だ!特攻特攻と空念仏を唱える前にもっと有効な戦術を考えろ!!」と含みを持たせており、上記の通り芙蓉部隊の敵空母への戦術は特攻作戦であった。

美濃部が反対していたのは、特攻を常用の作戦として行うことであって、戦機を見て特攻隊を編成することはむしろ率先して行うべきと考えていた。


その考えに基づき特攻作戦の準備をおこなっており、硫黄島の戦い沖縄戦で度々特攻出撃を命じているが、幸か不幸か全て失敗している。それでも、自発的特攻などで4名が特攻戦死者と認定されて連合艦隊司令長官の感状を受けている。


本土決戦に備えては、美濃部自身が直卒する特攻隊で敵空母に体当たりし、残った地上要員には航空爆弾で敵戦車に自爆攻撃をするなどの特攻戦法を多数立案している。

その中には「作戦機の主翼にたっぷりと爆薬を詰め込んで飛行爆弾にする」「上から爆弾を吊り下げて敵戦車が近付いたら自爆」「最後は大量の爆薬を準備して地元住民も道連れに大爆発」など、特攻拒否?なにそれおいしいの?と言わんばかりの(悪い意味で)独創性あふれる特攻戦術が並んでいた。


なお、これらの作戦は美濃部単独で考案し、特攻出撃させられる予定の搭乗員や自爆させられる整備兵、巻き添えで自爆に巻き込まれる地元住民には何の話も無かったという。


なお、美濃部の著書では「若い地上要員だけは故郷に帰るか市民と一緒にゲリラ戦を展開させるか判断に任せるつもりだった」とされており、自ら考案したはずの独創性溢れる特攻戦術は“無かったことに”されている。


芙蓉部隊の実戦編集

フィリピン編集

模写 四式戦闘機 一式陸上攻撃機

美濃部が「芙蓉部隊」と称する部隊を編成して、作戦に従事するようになるのは、硫黄島の戦いの際となるが、美濃部はその前から自分の発想に従って、指揮官として率いた部隊で、上記の通り、後に「芙蓉部隊」として具現化する夜襲戦術を試みていた。


レイテ沖海戦の前に、美濃部は夜間戦闘機隊、第153海軍航空隊の指揮官としてフィリピンに着任し、米軍の重爆撃機の迎撃任務を行っていたが、大した戦果を挙げることもできずに、戦力を消耗し続けていた。そこで、美濃部は乾坤一擲、重爆撃機機迎撃任務を諦めて、自分が構想(妄想)し続けていた敵空母への夜襲任務を計画、作戦準備を続けていたが、出撃当日に、敵艦載機の空襲で出撃機全機を地上撃破されて出撃することができなかった。このために美濃部は、日本軍最大の決戦となったレイテ沖海戦には殆ど関与することができず、指をくわえて戦況を見守ることしかできなかった。


レイテ沖海戦ののち、レイテ島の戦いのときには、美濃部は多少の戦力の補充を受けて、作戦行動ができるようになった。これと同時期には、富永恭次司令官率いる陸軍の第4航空軍が、海軍の機動部隊程は夜間対策を整えておらず、且つ上陸直後で警戒体制不十分で「飛行準備ができていない」状態の米軍飛行場を、主力の四式戦闘機などで連日夜間爆撃し、大量の航空機や燃料を爆砕。

最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が寝泊まりしていた軍司令部兼宿舎の邸宅を何度も爆撃して命の危険に曝し、さらには揚陸したばかりの大量の弾薬や軍需品も爆散させ、一時期はレイテ作戦の先行きを不安視させるほどマッカーサーを追い込んでいる。これは、今日でも未だに根強く妄信されている(誤った)芙蓉部隊像を彷彿させる神出鬼没の活躍ぶりであった。


今日の日本においては、富永の人物面での悪評に引っ張られて、この第4航空軍の善戦はほとんど無かったことににされてしまっているが、この当時は、昭和天皇が第4航空軍の善戦に期待をして、富永にお褒めの言葉を賜るぐらいであり、海軍も負けじと、零戦隊による飛行場夜襲を行っていた。後に敵飛行場夜襲のスペシャリスト(自称)となるはずの美濃部は、陸軍や海軍の同僚たちが一定の成果を挙げていた敵飛行場夜襲にまったく関心を示すことなく、敵空母への夜間攻撃や魚雷艇狩りに熱中していたが、まったく戦果はなかった。後に、敵飛行場への夜襲攻撃に活路を見出した美濃部であったが、このときの富永ら陸軍航空隊の活躍がイメージとして美濃部の脳内にあったのかも知れない。


美濃部率いる第153海軍航空隊は、主力の夜間戦闘機「月光」を全て失うなど損失ばかりが嵩んで行ったが、自己プロデュース能力に卓越していた美濃部は、海軍中央や上官に対する(過大な)戦果報告を怠らず、「なんだかよくはわからないけど、すごい戦果挙げている部隊があるらしい」という情報が第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将の耳まで届くことになった。


ある日、大西に呼び出された美濃部は「またオレ何かやっちゃいました?」と自分の(過大な)実績をとうとうと語ったうえ、大西が推進している全軍特攻方針に苦言まで呈するなど、強面の大西を恐れない度胸を見せつけた。KYな美濃部の態度に周囲は大西のカミナリを覚悟して凍り付いたが、度胸のある部下が好きだった大西は、自分に盾突いてきた美濃部を気に入って、戦力再編成のために日本本土への帰還を命じ、美濃部はついに理想の夜襲部隊「芙蓉部隊」の編成に着手することとなった。これは、美濃部の圧倒的なコミュ力が遺憾なく発揮されたエピソードであろう。


硫黄島の戦い編集

日本に帰った美濃部は、戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊、戦闘901飛行隊の3飛行隊を統合した航空部隊の実質的な指揮官に任じられた。正式な指揮官は別にいたが、部隊の運用はほぼ美濃部に一任されているといった、末期日本軍を象徴するようなgdgdな部隊運営であったが、海軍航空隊の大物大西の息がかかっていたからこのような異例な部隊運営が許されていたとも言えた。


美濃部は異常な厚遇で、高性能の水冷型彗星や重武装の零戦52型丙を優先的に供給されると、富士山を望む藤枝基地を本拠地として、敵空母への夜襲を想定した猛訓練を開始したが、これは上記の通り特攻戦術であった。美濃部は今まで温めてきた敵空母への特攻戦術を具現化すべく、新兵器を積極的に採用している。なかでもロケット弾や、目標に着弾する寸前に弾頭の光電管が反応して爆発し、目標に破片をまき散らして殺傷効果を増大させる光電管信管爆弾がこの部隊の特色として挙げられているが、新兵器だけに信頼性が低く事故が多発し、またのちには損害の続出によって殆ど使用できなくなっている。(詳細後述)


やがて、1945年2月になると、硫黄島にアメリカ軍が侵攻してきて硫黄島の戦いが始まったが、米軍機動部隊は上陸に先立って、日本本土の航空基地を艦載機によって徹底的に攻撃してきた。攻撃翌日、日本軍は米軍機動部隊への反撃を実施、美濃部も絶好のチャンスを掴んだと考え、準備周到に別れの盃を用意すると、志願もしておらず戸惑う搭乗員に「空母を見つけたら躊躇せず突っ込め」と特攻を命じて送り出した。それも、散々夜襲の訓練をしてきたはずなのに、出撃時間は早朝で、白昼に米軍機動部隊に到達する予定といった、全く理解不能な作戦計画であった。

同期の桜

幸運?にも芙蓉部隊特攻隊は、米軍空母を発見することはできずに引き返してきたが、米軍機動部隊は芙蓉部隊特攻隊をレーダーで監視しており、引き返すタイミングで送り狼の艦載機を追尾させ、芙蓉部隊機が藤枝基地に帰投し着陸を開始したタイミングを見計らって攻撃を開始させた。美濃部は芙蓉部隊特攻隊の帰投を迎えるべく、滑走路上にいたが、突進してくる米海軍艦載機を見つけると、真っ先に防空壕に逃げ込んで無事であった。しかし、着陸したての搭乗員やそれを迎える整備員は避難が間に合わず、仕方なく橋の下などに逃げ込んだが、数名が戦死し、出撃機も全機が撃破され、芙蓉部隊は早くも壊滅状態に陥るといったほろ苦いデビュー戦となった。


沖縄戦編集

壊滅した芙蓉部隊は、その後の硫黄島の戦いには何の貢献もできなかったが、大西の息がかかっていたので、戦力の補充は順調であり、米軍が沖縄に侵攻してくる前にはどうにか戦力は回復し、美濃部が直卒した主力は、鹿児島の鹿屋基地に進出した。


やがて始まった沖縄戦においては、開戦当初、芙蓉部隊は敵空母を目標としながらも接触することすらできず、やむなく敵輸送艦隊なども目標としたが戦果を上げることができなかった。

そんなとき、米軍が確保した沖縄の飛行場に戦闘機を多数配備して特攻機への迎撃が激烈化すると、艦船攻撃ばかりに集中している海軍に対して陸軍から「もっと飛行場も攻撃してくれ」と苦言を呈されるようになった。

日本側作戦会議

陸軍からのクレームもあってやむなく海軍は、艦船攻撃では戦果が上がっていない芙蓉部隊を敵飛行場攻撃に回すこととしている。

陸軍としては海軍の提案に反対である」などとネットではいじられキャラ的な立ち位置の日本陸軍だが、こと沖縄の航空戦に関しては、第6航空軍司令官の菅原道大中将が航空の専門家だったこともあって陸軍の方が現実的な対応である部分も多い。

これ以降、芙蓉部隊は海軍の命令によって(つまり自発的な意志ではなく)特攻作戦である『菊水作戦』の支援のため、陸軍の重爆撃機と共に敵飛行場攻撃を主任務することとなった。


しかし、敵空母夜襲想定の訓練を行ってきた芙蓉部隊員にとって、突然に攻撃目標が変更されたことになり、戸惑いも大きかった。これは全く逆の立場とはなるが、地上攻撃の訓練を積んできた陸軍航空隊搭乗員が、『万朶隊』や『富嶽隊』といった対艦特攻隊に任じられながら、慣れない対艦特攻で戦果を挙げられないまま壊滅していった状況と酷似している。

『万朶隊』の『不死身の特攻兵』こと佐々木友次伍長が特攻を拒否し、通常攻撃で敵艦を撃沈したと主張しているが、米軍に該当する損害記録はない。


不慣れな芙蓉部隊に対して、米軍飛行場の方はフィリピンで富永の第4航空軍に好き放題された反省から、夜間戦闘能力を各段に向上させていた。美濃部は、ロケット弾や光電管信管爆弾といった秘密兵器を搭載した彗星や、爆弾は搭載せずに地上への機銃掃射を行う零戦を低空から米軍飛行場に突入させたが、米軍の対空砲火は美濃部のご都合主義通りにはならない激烈さで、芙蓉部隊の彗星や零戦はバタバタと叩き落されて、あっという間に作戦続行が困難になる水準まで兵力が減少してしまった。


それに懲りた美濃部は秘密兵器()による低空精密攻撃を諦めて、中高度からの当てずっぽうの爆撃と射程距離外から“嫌がらせ”の機銃掃射に作戦を変更した。そのため対空砲火に撃墜される機は減少したが、こんなビビリ攻撃で戦果があがるはずもなく、隊員からの戦果報告も曖昧なものが多くなって、美濃部の戦果膨らまし報告も常態化することになった。


あまり役に立っていない芙蓉部隊を他所に、陸軍は歴戦の重爆撃機隊を投入して執拗に米軍飛行場を攻撃し続けて、相応の打撃を与えていたものの、それでも米軍飛行場は強化される一方であった。そこで大本営は1945年5月24日~25日に、沖縄の米軍飛行場への集中攻撃を実施、陸軍が「義烈空挺隊」と重爆隊、海軍が陸上攻撃機部隊を多数投入して激戦が繰り広げられ、読谷飛行場では多数の航空機が破壊されて、航空燃料が大量に焼失して飛行場も一時使用不能になるほどの打撃を与えた。


しかし、飛行場夜間攻撃のスペシャリスト()であるはずの芙蓉部隊には出撃の声はかかっておらず、芙蓉部隊は美濃部の発案で大宴会を開催していた(笑)。芙蓉部隊隊員たちは、沖縄で友軍が激戦を繰り広げている中で、観賞を酒の肴に、みんな芋焼酎で酔い痴れていた。


義烈空挺隊や陸軍重爆隊の奮戦があっても、その打撃は一過性のもので、沖縄の米軍飛行場の強化は止まらず、やがて日本軍は沖縄を諦めて、本土決戦準備のために出撃を抑制するようになった。しかし良くも悪くもKYな美濃部は、友軍が沖縄への出撃を止めていくなかで、芙蓉部隊機を引き続き全力で出撃させ続けた。とは言え、芙蓉部隊機による中高度からの当てずっぽうの爆撃や、嫌がらせの機銃掃射などの百発百外し攻撃に対しては米軍は警戒すらしておらず、徹底した舐めプで夜間も灯火管制すらせず、芙蓉部隊機が飛来しても対空砲火もまばらであったという。


やがて沖縄が米軍の手に落ちて本土決戦が迫ると、美濃部は上記の通り(悪い意味で)独創的な特攻作戦多数を思いついて、その準備をさせていたが、本土決戦が行われることなく戦争は終わった。


特攻拒否について編集

会議での特攻拒否宣言編集

今日において、芙蓉部隊とその指揮官美濃部の評価を高めているのは、日本海軍首脳陣が列席した作戦会議の場において、特攻を推進しようとする上層部を美濃部が「お前がそう思うんならそうなんだろう」「お前ん中ではな」と正論論破し、芙蓉部隊が通常攻撃を続けることの承認を取り付けたというエピソードであろう。

そのときの美濃部と上官のレスバは、美濃部の記憶によれば以下のようなものであったという。

  • 上官「我が海軍は来る沖縄戦において、特攻を主戦術として戦う。全力特攻作戦だから練習機も特攻につぎ込むぞ」
  • 美濃部「練習機なんか投入しても、グラマンの迎撃は突破できませんよ。練習機が戦果を挙げるとか、なんかそういうデータあるんですか?
  • 上官「下っ端が何を言うか!!必死尽忠の士が空を覆って進撃するとき、何者がこれをさえぎるか!」
  • 美濃部「それ、あなたの感想ですよね?鈍足の練習機が2,000機で出撃しても、バッタのように叩き落されるだけです。どうしてもというなら、ここにおられる皆さんが練習機に乗って攻撃してみてください。私が零戦で片っ端から撃墜してご覧に入れます。」

頑迷な老害を正論でバッタバッタと論破するさまは、まさに後年の「論破王」こと西村博之サラリーマン金太郎半沢直樹を彷彿とさせる痛快ぶりで、日ごろ上司のパワハラや理不尽な業務命令に耐え忍ぶさえない社畜たちの留飲を下げるようなエピソードではあるが、もっともこのエピソードは、美濃部本人が自称しているだけの上、それも戦後20年以上も経ってから突然降ってわいた様に自著で語り始めたものに過ぎない。


そもそも、この美濃部が正論ハラスメントを行ったとされる会議は、連合艦隊主催による沖縄戦の作戦会議であったり、第3航空艦隊の研究会であったりと出典によって主催者や会議の内容が相違しているうえ、会議のあった日、美濃部の主張内容、参加者もバラバラで、美濃部とレスバした相手が、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介中将であったり、実在すらしない黒岩とかいう少将であったり、名無しであったりと、美濃部の自伝を含めて出典ごとに異なるフリーダムさである。


常識的に考えて、これだけツッコミが追いつかない状況であれば、俺らのようなパンピーならば誰からもその主張を信じてはもらえないであろう。しかし逸般人の美濃部なので、これらソースがバラバラであろうが、その内容が矛盾していようが、それを検証されることもなく、その発言があたかも史実のように扱ってもらえている。これは、人徳のなせる業ということであろうか・・・


芙蓉部隊隊員の認識では編集

著書などで特攻を拒否したという美濃部に対して、多くの芙蓉部隊隊員は、戦時中にはこの美濃部の特攻拒否の方針など聞いておらず、戦後に「自分たちが特攻隊ではないとかそんなの、聞いてない。もし戦時中にそんなことを言えば大変なことになってたはず」とか「自分たちは特攻隊員として毎日過ごしていた」とも話しており、さらには、美濃部が終戦直後に作成した芙蓉部隊の報告書『芙蓉部隊天号作戦々史』には特攻に反対したという記述すらない。


また、芙蓉部隊は特攻編成から外されていたと言うが、一方で美濃部は特攻隊員の食事が通常の搭乗員よりも御馳走であることを聞きつけると、自分たちにも同じものを食わせろと難癖つけて認めさせているというダブルスタンダードも見られる。

そうしたおかげ(?)か隊員は自分達を特攻隊の一員と思っていた模様。


実際の所は岩川基地の整備に携わった設営部隊の食糧基準が芙蓉部隊に引き継がれていただけで、別に特攻隊でなかったからという理由ではなかった。

new year

さらに芙蓉部隊は官給の豪勢な食料に加えて、周囲にあった農地や牧場から大量の肉や卵や野菜などの提供を受けており、食事内容は当時の日本軍人の中でも最高級のものであった。

指揮官の美濃部も、主計課の兵士がなけなしの砂糖をかき集めて、芙蓉部隊隊員の慰労のためにわざわざ作った汁粉を、甘くないと罵倒しその主計課の兵士を男泣きさせたなどと海原雄山のような食通エピソードも残しており、食通の指揮官のおかげで、芙蓉部隊隊員はビフテキだのコンビーフだの卵料理など戦争時においては高級食材を食べ、デザート汁粉果物缶詰だのも用意させるなど特攻隊員以上の豪華な食生活を送っていた。


戦果について編集

太平洋戦争末期の日本軍航空機が通常戦闘では碌な戦果を挙げられなくなっており、有効率の高い特攻で戦局の挽回を図っていたが、通常戦闘で戦果を挙げられなかったのはもちろんこの部隊も同じである。

あらゆるコネを活用し、口八丁手八丁で相応の規模の航空部隊を維持して、終戦まで作戦行動を継続できたことは純粋に評価できるが、だからと言って戦果には全くと言っていいほど繋がっておらず、ジリ貧に追い込まれてゆくのみであった。

報告上は「潜水艦撃沈1、戦艦1、巡洋艦1、大型輸送艦1を大破」などとしているが、米軍の損害報告には対応するものは全く確認できない。


美濃部は著書などで、現場の過大戦果報告に基づく大本営発表を小馬鹿にしていたが、芙蓉部隊隊員から報告されてくる戦果報告については「うちの隊員は(根拠はないが)優秀だから戦果報告は正確だ」「いや、うちの隊員は謙虚だから、実際はもっと戦果があがっているはず(希望的観測)」とただでさえ過大な部下の戦果報告を、さらに美濃部の妄想で膨らませて軍司令部に報告していた。正に絵に描いた大ブーメランが美濃部に突き刺さっており、大本営発表を笑えないレベルの壮大な虚偽である可能性すら取り沙汰されている。

圧倒的じゃないか我が軍は

同様に芙蓉部隊が猛攻したとされる沖縄の米軍飛行場攻撃についても、陸軍の重爆撃機隊が、サイパン島の米軍飛行場を爆撃し、B-29多数を撃破するなどの輝かしい戦勲を誇る歴戦搭乗員も作戦に投入し、出撃するたびに確実な戦果を報告していたのに対し、まともに対地攻撃の訓練を受けておらず、またそのような運用はあまり想定されていない彗星やら零戦やらが主力の芙蓉部隊では、所詮は素人の付け刃的な運用であって、戦果報告は曖昧なものが多く、米軍側の記録でも芙蓉部隊が挙げたとされる戦果は全く確認できない。(美濃部が戦後になってから、米軍の公式報告書で、彗星たった1機の爆撃で600機!?の米軍作戦機が地上で撃破されたことを確認した。などと主張していたが、さすがに超兵器でも使わなきゃ無理だろう)


また、芙蓉部隊の戦歴で有名なのは、米陸軍の夜間戦闘機P-61「ブラックウィドウ」を撃墜したというものであるが、米陸軍の記録上では敵戦闘機によって撃墜されたP-61は1機も存在せず、また、芙蓉部隊が撃墜したと主張する日には非戦闘要因でもP-61の損失はあっておらず、艦船のときと同様に過大戦果報告に過ぎない。

「特攻は無駄死だ!特攻特攻と空念仏を唱える前にもっと有効な戦術を考えろ!!」などと大口をたたいたと自称している上、「無駄」とこき下ろしたはずの特攻まで命じておきながら、このざまというのは正直寂しいと言いざるを得ない。


具体的な戦果はなくとも、芙蓉部隊機が夜間に飛行場攻撃を続けることによって米軍を疲労させるといったハラスメント効果が大きかったとの擁護も見られるが、義烈空挺隊の攻撃成功で、最大限の夜間厳戒態勢を続けていた沖縄の米軍飛行場も、沖縄戦に見切りをつけた陸軍重爆撃機や海軍陸上攻撃機が沖縄飛行場攻撃から順次撤退していき、芙蓉部隊が攻撃の主力となってからは厳戒態勢を解除しており、米軍飛行場は夜中であろうが灯火管制などどこ吹く風で、照明を煌々と照らすなど全く警戒しておらず、芙蓉部隊機が攻撃に成功しても、煌々と照らしている基地内の照明を消すことすらしなかったという舐めプぶりで、残念ながら芙蓉部隊は“縁の下の力持ち”的な貢献すらできていなかった。


一方で芙蓉部隊は戦闘行動により、彗星37機と零戦16機の合計53機損失、また戦闘行動によらない故障や事故や地上撃破でも約同数の作戦機を失い、総損失は100機以上と多大な損害を被っており、搭乗員の戦死者も100人を超えている(なぜか、美濃部の著書やそれを引用した芙蓉部隊礼賛本などでは、非戦闘要因や地上撃破は損失機数に含まれておらずノーカン扱いだが)。


ときには「特攻を凌駕する戦果を挙げた」などと紹介されることもあるこの部隊ではあるが、4000人の特攻隊員が散華した代わりに、約20,000人の連合軍将兵を死傷させ、70隻以上の艦艇を撃沈もしくはスクラップにし、300隻以上の艦艇を撃破した特攻の戦果のどこを凌駕しているかは不明である


しかし、美濃部の本領は戦果ではなく、それを軍上層部や上官に膨らまして報告し、それを真実として信じ込ませる天才的なプレゼン力と、常に自分や部隊をアピールし続ける優れた自己アピール力にあった。

フィリピン戦での第153空時代には、並み居る上官を前にして、夜間戦闘機月光に自ら搭乗し、戦闘訓練の旗振りをやってみせて褒められたり、敵空母や魚雷艇狩りの夜襲では全く戦果が無かったのにもかかわらず、直属の上官を飛び越えて海軍省功績調査部(部隊の戦功を評価する部署)に「夜間戦闘機での夜襲で大戦果を挙げた。これで新しい戦術を確立できた(からもっと評価して頂戴)。」という報告書を送り付けたり、寺岡謹平中将、大西滝次郎中将、有馬正文中将、宇垣纒中将などといった将官にもまめに接触して、積極的な意見進言をするなど上司とのコミュニケーションも欠かさなかった。(美濃部が現在のリーマンであれば、上司からの飲み会ゴルフの誘いは絶対に断らなかっただろう)

そのおかげで、美濃部や芙蓉部隊はその寂しい実績と反比例し、軍内での存在感を高めていくこととなり、補充や補給で異常とも言える厚遇を受けることになる。


『芙蓉部隊伝説』と実像との乖離編集

芙蓉部隊については、指揮官の美濃部がマスコミやジャーナリストなどに協力的であり、積極的に取材を受けて様々な証言をしているが、その中にはどう見てもこんなの絶対おかしいよというものも多見される。

しかし、自分らに協力的な美濃部に好意的なマスコミやジャーナリストなどは、その証言の正確性や矛盾点などをあまり検証することもなく、あたかも事実のように取り上げてきた。


特に、航空戦に多数の著作を持つ戦記作家渡辺洋二は美濃部に好意的であり、その著作に何度となく登場させて褒めちぎりまくり、最後には“芙蓉部隊伝説”のバイブルでもある『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』という芙蓉部隊単独本まで出版している。

今日一般的に広まっている芙蓉部隊の印象はこの『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』の記述によるところが大きいが、他公式資料等と比較するとその印象は実像とはかなりかけ離れている。


  • 敵艦隊や敵基地への夜襲攻撃がこの部隊の独創と扱いされているが、むしろ芙蓉部隊が編制されたときには、夜襲攻撃は日本軍航空部隊の常套戦術として行われており、上記本文の通り、実際に多大な戦果を挙げている部隊もあった。
  • この部隊が美濃部の“独創”でやっていたとされる夜戦特殊訓練というのは、「猫日課」と称した昼夜逆転生活であったが、これは夜間攻撃を重視していた当時の日本軍が、別に特殊訓練なんて畏まらず普遍的に行っていたものである。
    • ネコ科には夜行性の種もいるが、お馴染みのイエネコは夜行性ですらない、もっとうまい例えはなかったのか・・・・例えば「コアラ日課」とか「スローロリス日課」とか・・・・
  • 『夜襲』と言ったところで、レーダーを装備した米軍には丸見えであって、同時に的確なレーダー対策を行わないと夜襲の意味がないことは、大規模な夜間攻撃が行われた台湾沖航空戦の惨敗を見ても明らかであった。そのため夜間に出撃する特攻機は、海面すれすれを飛行したり、巧みに島影を利用するなどのレーダー対策で敵艦隊への接近に成功していたのに対し、この部隊は夜襲でありながら、航法の負担軽減や燃料節約として高度4,000m前後というレーダーにもっとも美味しい高度の飛行を基本としており、見つけてくれと言わんばかりであった。そのため、夜間戦闘機の配備が進んだ沖縄戦後半には米軍の夜間戦闘機に待ち伏せされて撃墜される機が続出している。
    • ちなみに美濃部が芙蓉部隊に指導したレーダー対策は「蛇行飛行して敵のレーダー射撃をかわせ」や「探索用レーダーで発見されても射撃用レーダーの探知範囲内に入る前に、目を凝らして根性で先に敵機を発見して退避しろ」という根性論に等しいもので実効性はなかった。

  • 整備能力に長けて、難物『アツタ』エンジンをよく整備し、高い可動率を誇ったとされているが、この部隊の作戦報告書から所属機機数と可動機機数の推移を追っていくと、彗星の可動率は50%前後であった。(美濃部は70%~80%を主張)一方で、機材も部品もない南方最前線の基地では非常に低かった彗星の可動率であったが、この部隊と同じ日本内地の基地配属の彗星の可動率は60%前後と言われており(なかには100%を維持していた航空隊もあり)、この部隊の彗星の可動率が突出していたということはない。さらにこの部隊では、可動と認定されて出撃した機でも、機体やエンジンの不調で引き返したり時には墜落する機体も多かった。
  • この部隊が指揮官美濃部の方針によって例外的に特攻を免除されたと紹介されることがあるが、全くの事実誤認であって、沖縄戦における海軍航空隊出撃機の延べ機数は、特攻機1,868機に対し、制空戦闘機3,118機、偵察機1,013機、通常攻撃機3,747機、通常作戦機合計7,878機と、特攻をしない一般作戦機の方が遥かに多く、この部隊もその一部にしか過ぎなかった。芙蓉部隊が第5航空艦隊から特攻を命じられなかったのは、実際の部隊運用は別として書類上は「夜間戦闘機隊」扱いであり、ほかの多くの制空戦闘機隊と同様の扱いであったためと思われる。
  • 元々この部隊は対艦への夜襲攻撃を主任務であったが、全く戦果が挙がらないので沖縄の敵飛行場攻撃に回された。しかしそれを「敵基地夜間攻撃のスペシャリスト」として喧伝。それで先述の通り戦果と言える戦果は無かったが、逆に敵の空襲で10機以上の作戦機を地上撃破されるといったオチまでついている。
  • 本来、地上爆撃が任務の陸軍の重爆撃機や海軍の陸上攻撃機もこの部隊と同様に沖縄の敵飛行場攻撃を行い、この部隊とは段違いの打撃を与えていたのに対して、対地攻撃には不慣れで有効なレーダー対策すらないこの部隊は損害ばかりが積み重なり、まともな戦果を上がることもできなかったのに、なぜかこの部隊が単独で米軍飛行場を悩ませていた様な扱いに。
  • 九州各基地への米軍の空襲が激化したことから、第5航空艦隊が戦力の分散を企画し、その計画に従って、本土決戦準備の一環として特攻用の「秘匿基地」として前々から整備が進んでいた「岩川基地」に移動を命じられたこの部隊であったが、なぜか、第5航空艦隊の命令で移動しただけの「岩川基地」を、美濃部が探し回ってようやく見つけたことになっていたり、大本営の方針によって工事が進んでいた「岩川基地」であるのに、不時着用の飛行場として放置されていたとか、飛行場秘匿の工事についても、そもそも海軍の「空地分離」方針で飛行場整備には大した権限もない実績部隊指揮官の美濃部が独創で指示したことになっている。
    • ちなみに「岩川基地」の秘匿化を褒めたたえる際によく持ち出される、滑走路上に草を敷いてカモフラージュするのは、「岩川基地」の半年以上も前に、日本陸軍の第4航空軍がフィリピンでやってたり、カモフラージュ目的で移動式小屋や植え込みなどを置いたりするのもマニュアル化されており、ほかの「秘匿基地」でも使われたりしている。
    • 美濃部は岩川基地を牧場にカモフラージュしていたつもりだったが、実際には全く隠れてはおらず、米軍は飛行場造成中から偵察飛行を繰り返し、飛行場施設や機体を隠すバンカーなどどの位置も詳細に分析し、目標番号までナンバリングしていた。そもそも滑走路を小細工で隠しても、芙蓉部隊隊員や飛行場を造成している設営隊員合計4000人以上が生活する施設を全部隠すなど初めから無理であり、他の「秘匿基地」と同様に米軍からは丸見えであったことが戦後に判明している。

無題

……と、実像はずいぶんと寂しいものになっている。


実際の戦闘に於いては殆ど存在感がなかった部隊であったのに、「芙蓉部隊はアメリカ軍を悩ませた神出鬼没の精鋭夜襲部隊」などという“都市伝説”を信じて、悲惨な結末となった日本海軍航空隊に一筋の光明を見出そうとするのは、太平洋戦争中に現れた未来兵器やら超兵器の活躍を描く“架空戦記”や“なろう系小説や漫画”を現実として受け入れているのに等しいものかも知れない。

所詮は、芙蓉部隊と指揮官の美濃部は巧みな処世術と時代時代が求めた英雄像が上手く合致してきた結果作り出された、一種のキャラクターのようなものであったと言える。


ではあるが、夜間戦闘機隊であったはずのこの部隊に、軍上層からの特攻出撃の命令は出ていなかったとは言え、指揮官であった美濃部には硫黄島の戦いのときのようにいつでも特攻出撃を命じることができたわけで、それを“積極的”にはしなかったというのは、美濃部の『特攻は常用の作戦とすべきではなく、戦機に応じて必死部隊を編成すべき』という信念を貫いたとも言えるだろう。


部隊の顛末編集

他の陸海軍航空部隊が本土決戦準備で出撃を抑制するなか、芙蓉部隊が最後まで沖縄に全力出撃し続けた。しかし、その頃にはアメリカ軍もオリンピック作戦の準備で、沖縄よりむしろ九州への空襲や制空戦闘を重視しており、芙蓉部隊の微々たる攻撃などはアウトオブ眼中で、飛行場は夜中なのに灯火管制すらしておらず、どうにか夜間戦闘機をくぐりぬけた芙蓉部隊機が飛行場を爆撃しても、対空射撃はおろか消灯すらしない有様であった。


そんな中でいよいよ終戦が決まり、日本軍将兵は玉音放送を聞くように命じられたが、よくも悪くも自由なこの部隊はその命令すら徹底されておらず、一部の隊員が命令通り放送を聞いていたのに対し肝心の美濃部は作戦会議と称して放送を聞いていなかった。

後に通信兵から終戦の事実を聞いた美濃部は、これまで「指揮官先頭の日本海軍の伝統を守らない特攻隊指揮官はつまらん奴らだ」とか「後から続くから待っててくれ」とかと使い古された台詞で部下達を送り出し100人以上を死なせた手前、簡単には終戦を受け入れられなかったようで、かつて仕えた海軍第302航空隊司令官小園安名大佐が主張していた「昭和天皇は周囲の重臣に騙されて終戦を決めた」などという陰謀論を信じて、部下を集めると徹底抗戦を命じた。


しかし、よくも悪くも自由なこの部隊(二回目)は、その美濃部の方針すらも全員には伝わらず、さらに「徹底抗戦」と大見得を切った美濃部であったが、やっぱり組織人として不安であったのかヘタレてしまい、零戦や彗星の武装を外したり、機体番号などを塗りつぶすなどの武装放棄の準備も命じており、隊員たちは「徹底抗戦とか言ってたのに丸裸で突っ込めとか言う気か?」などと口々に美濃部を批判し、部隊の混乱は深まってしまった。


一方で藤枝基地で訓練にあたっていた芙蓉部隊の分遣隊については、指揮官の座光寺一好少佐がしっかりと統率していた。座光寺は一部の将兵が動揺しているのを見るや、全員を集合させて、おもむろに拳銃を抜いて空に向けて発砲するや「きさまたちが海軍の伝統をけがすような行動に出たら、即刻射殺するぞ!」と一喝、まるで映画の一場面でも見ているような鮮やかさで混乱を収拾し、粛々と終戦処理を進めた。

ご挨拶に行ってみた その2

やがて第5航空艦隊司令部から指揮下の全部隊の指揮官に集合の命令があり、美濃部も意気込んで出かけたが、そこで司令官の草鹿龍之介中将から「(抗戦する気なら)まずこのわたしを血祭りにあげて、しかるのちことをあげよ。いけないと思ったら即座にやれ」と剣豪でもあった草鹿の身を挺したド迫力の一喝を受けると、他の指揮官同様にあっさりと徹底抗戦を諦め、全員で日本酒で乾杯したのち、美濃部はそそくさと引き上げた。


美濃部は岩川基地に帰ってくると隊員を集めて、「戦争は終わった。負けた!」と徹底抗戦断念を告げたが、よくも悪くも自由なこの部隊(三回目)は、一部の隊員が美濃部に焚きつけられて徹底抗戦を決心しており、「なんでそんな“コロッ”と態度が変わるんだ」「今さらそんなこと言われても」と嚙みついた。

対応に困った美濃部は草鹿のマネで「戦おうという奴はオレを斬ってからいけ」と泣きながら身を挺して説き伏せ、ようやく一部の隊員も抗戦を諦めた。


でもまだ美濃部本人に抗戦の未練があったのか、勤労奉仕で部隊で働いていた地元農家に頼み込んで、その農家の離れに食糧やら武器やらを運び込んで「進駐軍が乱暴をはたらいたらここを拠点に徹底抗戦する」とぶち上げたが、翌日に第5航空艦隊司令部にバレて叱責されたため、あっさりと撤収している。先生何やってんですか


最後のドタバタはあったが、結局は芙蓉部隊も他の部隊と同様に整正と終戦を受け入れた。

指揮官の美濃部は「後から続くから待っててくれ」の約束も虚しく、結局出撃も自決することもなく生き延びた。戦後は「つまらん奴ら」と批判した旧軍人の伝手を頼って自衛隊に入隊。パイロット養成などをしながら空将(≒旧軍の中将)まで栄達している。

……が、このエピソードにもオチのようなものがあり、当初は自身がパイロットになる事を志すも、当時自衛隊に深く関与していた米軍関係者と反りが合わず断念。そのため日本人が自力で養成する必要性を強く訴えていたら言いだしっぺの法則的に命じられたという経緯で、別に天職とかそういった意識は無かったらしい。


晩年に美濃部は自讃に満ちた自伝を書いて「自分は命を賭して特攻に反対した」と主張しているが、硫黄島の戦いのときなどに特攻を命じたことは当然ながら書いていない。

他にも特攻に対してはケチをつけまくり、「(特攻隊員は)女を抱かせてもらって士気を維持したらしい」などと根拠も無く風説の流布をし、特攻の責任を取って自決した宇垣纒や大西瀧冶郎や岡村基春らの特攻指揮官に対しては、「自己正当化のための自決」「戦後の生活苦のための自決」などと批判している。

これが下手に受けてしまったために上記のような「武勇伝」が広く信じられる事となった。

そうかと思えば「戦後のヒューマニズムと敗戦という結果だけで考察し、当時の状況を全く考慮していない的外れな特攻批判が多い」などとも述べていたりする。


晩年には、「グルメに浮かれる平成時代の日本人に世界平和を唱える資格はない!!今の日本の若者たちは生活を50%切り下げて飢餓民族を救え!!」などという主張も増えていた。戦時中は飢える国民をよそに芙蓉部隊隊員が美食にふけっていたことを考えれば、絵に描いたようなお前が言うなである。

遺稿を遺した後は、他の多くの生き残った旧日本軍の指揮官たちと同様に、戦死した部下を尻目に、家族に囲まれて幸せな余生を送り、孫に囲まれて81歳で天寿を全うした。


評価編集

戦後になって美濃部は、他の多くの旧軍人が「敗将兵を語らず」と戦争に対して口をつむぐなかで、積極的に発言を行った。

自衛官として昇進していく中でその発言力も増し、自衛隊内の広報誌や戦友会誌などに寄稿した他、戦史叢書などの戦史編纂にも関わり、自費出版で回顧録も出版した。さらに自衛隊を退職すると、その動きはさらに活発化し、マスコミやジャーナリストに加えて、渡辺洋二、豊田譲保阪正康御田重宝 などの戦記作家や歴史研究家の取材もウエルカムで迎えた。


それら著書や取材などで、美濃部は旧日本軍と、戦時中に散々可愛がってくれた軍高官に対して高速手のひら返しで徹底的に批判や糾弾し続け、晩年には「侵略戦争を行った日本民族は反省すべき」などと、左翼的なスタンスのマスコミ等に対してはリップサービス的なポジショントークも行ったが、その主張内容と旧軍人で且つ高級自衛官という肩書が持て囃され、その反戦・反軍的な発言がうまく利用されていくこととなった。

そうして、事実とはかなり異なる形で高く評価されることとなった美濃部は、さらにサービス精神を発揮して、旧日本軍への糾弾を激化していった。

美濃部の著作や主張などを見ていると、戦時中にこの人が戦っていた敵は、アメリカ軍ではなくて日本軍だったのではと錯覚するほどである。


一方で、戦記作家渡辺洋二らの著作によって、日本海軍の伝統“指揮官先頭”を実践する有能な前線指揮官という印象(かなりファンタジー要素が入っているが)が定着すると、旧日本軍を評価する保守派や、ミリタリーものが好きな軍ヲタからも評価されるようになった。そのため美濃部は、disられることの多い旧日本軍高級軍人のなかで、かなり稀な左右両方から評価されている旧軍人と言えよう。


特に美濃部が戦後になって自著等で、事実とは異なる「自分は戦時中も強硬に特攻に反対した」「自分が反対したおかげで“例外的”に芙蓉部隊は特攻を免れた」などと主張したため、特攻という作戦への嫌悪感にもうまく乗って、近年になっても様々な媒体でよいしょされている。

また、上記の通り全くの事実誤認ではあるが、「芙蓉部隊は特攻を凌駕するような大戦果」を挙げたなどとする事実無根の都市伝説が定着すると、特攻がいかに無駄で非合理的な作戦であったのかを証明する(実際は違うが)『特攻専用叩き棒』として、マスコミなどに愛用されるようになれ、担ぎ出されれるようになった。


戦後日本においては、価値観の劇的な変化もあって、特攻が否定的に捉えられるようになって『特攻を拒否した』というだけ(自称も含む)で、その活躍談がろくに検証されず無条件で受け入れられてきた。その象徴がこの部隊や、9回特攻に出撃して生還したとされる『不死身の特攻兵』こと佐々木友次伍長や、新鋭戦闘機『紫電改』を運用した第343海軍航空隊『剣部隊』などである。それだけ特攻という作戦が、多くの人から日本史上の悲劇として捉えられ、何とかして救いを求めたいという意識の現れであったのだろう。

出撃数時間前の笑顔

このように美濃部は非常に自己アピールと、時代の流れを見極め時流に乗る能力に長けた人物ではあったが、しかし、それらは事実誤認に基づくものも多く、また美濃部の主張も時期や出典によっては変遷している。

それに、美濃部が「旧日本軍は侵略戦争を行った」と批判したところで、美濃部や芙蓉部隊もその片棒を担いだことには変わりなく、正に天に唾するブーメラン的な批判に過ぎない。


『芙蓉部隊伝説』の一番の問題点は、自己アピールがうまく声が大きい指揮官が喧伝する“幻の戦果”を、軍上層部がまともに検証することなく妄信して高く評価し、あからさまなえこひいきで、作戦機と搭乗員の補充や食糧の補給などで異常なほど優遇し続けたことであろう。(美濃部への上官によるえこひいきの判りやすい実例としては、美濃部が持病で寝込むことが多く、作戦指揮に支障をきたしていることを問題視していた第5航空艦隊の参謀が、美濃部を更迭するため、後輩の座光寺を後任に据えようと芙蓉部隊に転任させたが、焦った美濃部が掟破りで、参謀をすっ飛ばして司令官宇垣纒中将へ直接泣きつき、美濃部を可愛がっていた宇垣の判断で美濃部の更迭が撤回されたこともあった。)


芙蓉部隊のアンチテーゼである特攻が、ネガティブな日本面(軍事面・1868-1945)の象徴として語られることがあるが、芙蓉部隊も同様に、自己アピールが上手で上官に可愛がられた美濃部が高く評価されるといった「情実(情意)評価優先」や、その上官の情実評価に基づく誤った判断に現場が盲目的に従って、芙蓉部隊に異常な優遇を続けた「権力者に従順」というネガティブな日本面の発露であったとも言える。


また、その伝説が近年に至るまで全く検証されることもなく妄信され続けたところに、特攻に対する嫌悪感を上手く利用した美濃部の卓越したプレゼン力と自己アピール力の凄さが実感できる。


とは言え、美濃部が積極的に発言していたひと昔前であれば、国内外の詳細な情報を調査するのも困難で、いわゆる“言ったもん勝ち”なご時世でもあり、自己申告の活躍談で多数のヒーローが誕生したが、情報公開が進み、ネットも発達して、国立公文書館アジア歴史資料センターなどで詳細な戦史資料を気軽に閲覧できたり、海外の資料や情報も、現地に行かずとも比較的容易に調査できる時代になって“言ったもん勝ち”時代のヒーローたちが検証されており、美濃部や芙蓉部隊もその洗礼を受けている最中である。


美濃部や芙蓉部隊を褒めるにしてもdisるにしても美濃部本人の主張やそれを根拠にした出典を鵜呑みにするのではなく、もっと客観的な事実に基づく評価が必要であろう。


練習機特攻について編集

美濃部は、その武勇伝として有名な(真偽はともかく)上記の特攻拒否宣言において「2,000機の練習機を特攻に狩り出す前に赤とんぼまで出して成算があるというなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と豪語している。


美濃部の反論を真に受けて、偵察機練習機まで特攻に投入した事は大戦末期の日本軍の戦力枯渇の典型的な事象としてよく取り上げられて批判されることも多く、戦争当時においても、沖縄戦で特攻戦を指揮した宇垣纒中将が「数あれど之に大なる期待はかけ難し」などとあまり期待をしていなかった。


しかし、練習機は機体に多くの木材を用いていたため、米軍のレーダーに探知されにくかったり、米軍の新兵器近接信管がまともに作動しなかったり、またレーダーで探知されても、「特攻機から追われている」という無線を聞いたある日本軍参謀が「特攻機を米軍艦艇が追い回してるんだろ」と聞き違えた程の飛行速度の遅さに、米軍が敵機となかなか認識できなかったなどというローテクがかえって米海軍の探知や迎撃を困難にし、美濃部の主張とは違って戦果を挙げることができた。

美濃部をフォローするのであれば、練習機が実戦で通用するなんて当の日本海軍も期待はしていなかったので、美濃部がその“活躍”を予想できなかったのも仕方ないと言える。


…………がこの部分は美濃部のビッグマウスだったかどうか。というのも、日本の戦闘機は欧米機に比べて翼面荷重が低く失速速度が異常に低いため(日本の搭乗員が高い高いと言っていた雷電鍾馗で米艦上機のF6Fと同じぐらい)低速機の迎撃が容易なわけで……米軍にしてみりゃ「ゼロの感覚で言うな」と言ったところはある。

また練習機搭乗の特攻隊員というのは言い方を変えれば練習機しか搭乗経験の無い者であり、ぶっつけ本番に近い形で「ハイテクな」機体に乗せるくらいなら多少は乗りなれた機体のまま戦地に出した方がまだマシという「合理性」もあった。


実際、大西洋方面でも複葉機で布張りの旧態依然としたイギリスのフェアリーソードフィッシュ雷撃機の低速さはドイツ空軍の戦闘機がエンジンを絞り、フラップを下げ、更に脚まで出して速度を落とさなければならない程であり、対空砲火も速度を見誤り手前で爆散する有様で、また主翼・機体に銃弾を命中させても布製で貫通するだけなので、パイロットかエンジンに命中させないと確実に撃墜できないとされるタフさでドイツ軍を梃子摺らせている。

私も一緒に

海軍練習機(「赤とんぼ」こと「九三式中間練習機」「白菊」)は63機を失い、115名の特攻隊員が戦死したが、一方で挙げた戦果はなかなかのもの。

  • 撃沈

1.駆逐艦ドレクスラー

2.駆逐艦キャラハン

3.輸送駆逐艦(高速輸送艦)バリー

4.中型揚陸艦 LSM-59

  • 大破

駆逐艦シュブリック

駆逐艦カシンヤング

  • 撃破

駆逐艦ホラス・A・バス他

 

この7隻で米軍は273名の戦死者と280名の負傷者(死傷者合計553名)を生じている。(他にも撃破艦がある可能性もあるが詳細は不明)


米海軍も本来なら戦力に数えない旧式の練習機に痛撃を被ったことを重く見て

  1. 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い
  2. 近接信管が作動しにくい(通常の機体なら半径30mで作動するが、練習機では9m)
  3. 対空機関砲の弾丸が木や布の期待を貫通してしまうため効果が薄い
  4. 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた

と詳細にその要因を分析したうえで、「高速の新型機以上の警戒」を全軍に呼びかけている。

米海軍史の大家サミュエル・モリソン少将も「特攻は、複葉機やヴァル(九九式艦上爆撃機)のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と特攻という戦術ではどのような航空機でも戦力となると指摘している。


対する美濃部が率いる芙蓉部隊の「戦果」は先述した通り、艦船に対する戦果は絶無である。

主張すればするほど、かえって特攻が正当化されてゆくとさえ言えかねない状況である。


なお、この練習機による特攻にさらにオチを付けるような話が朝鮮戦争で発生している。

北朝鮮側が木造の練習機で夜間にゲリラ的空襲を行って米軍基地への爆撃に成功した。

この時爆音を消す為に、爆装練習機は爆撃の少し前に一旦エンジンを停止させ滑空、そのままレーダーにもひっかからず爆撃してのけるという思わぬ離れ業を演じ、米軍は慌ててサーチライトを手配する事態になっている。


ちなみに、「まともに育てておけば優秀なパイロットになれたものを……」といった批判もありがちなものであるが、これもまた的外れと言える。

大真面目に「一億総特攻」「一億総玉砕」などと掲げた時点でそんな未来は潰えており、国民全員が正しい意味での鉄砲玉になっていたのだから。

後は「使われる」順番が早いか遅いかだけの問題である。

それに芙蓉部隊の戦死率もかなり高く、特攻隊ともあまり変わらず(特攻隊は出撃しても会敵せずに帰還することが多く、意外と戦死率は高くなかったりする)「優秀なパイロット」になれないのはこの部隊も特攻隊もあまり変わらないというつらい現実もある。


創作における芙蓉部隊編集

  • ヤシュウタイ

こがしゅうとの漫画。元芙蓉部隊隊員の取材に基づいて執筆された。

原作小説で名前が登場。美濃部が過剰なまでに英雄視されている。

完成作品には一切登場していないが当初は美濃部が主要人物として登場し特攻批判・海軍批判を主題にした作品になる構想だった。

芙蓉部隊を意識した「彗星一二型(三一号光電管爆弾搭載機)」が実装されているほか、サーバのひとつが岩川基地名となっている。

劇団グーフィー&メリーゴーランドによる舞台、『JUDY』とは芙蓉部隊主力機の艦爆彗星のアメリカ軍によるコードネーム

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