ここには、日本面のうち、軍事・防衛に関するもので、
日本の軍事の近代化が始まった戊辰戦争(1868年~1869年)から、
旧大日本帝国陸海軍が滅亡する太平洋戦争(1941年~1945年)まで、
に関するものを記載しています。
日本面についての概要と、その全般については「日本面」を、
鉄道に関するものは「日本面(鉄道)」を、
企業や文化など、その他は「日本面(その他)」をご覧ください。
軍事・防衛部門【大日本帝国陸海軍編】
全般
- 大日本帝国に於ける陸軍と海軍の確執:「陸軍と海軍で仲が悪い」というのはどこの国でも同じだが、日本の場合は同じエンジンでも陸軍と海軍でライセンスを別に取り名称が違っただけでなく部品にも共用性がなかったりする、陸軍で独自に輸送用潜水艦を作る、海軍で独自に戦車を作るなどなど諸外国よりも深刻であり、お陰で「陸軍と海軍で喧嘩して、その余力で敵国と戦う」とか「日本軍ならぬ二本軍」などとネタにされるほどである。またドイツから参考に軍用機を輸入する際も同じ軍用機を陸軍、海軍が別々に購入しておりドイツ側を呆れさせたともいう(この軍用機はHe118の可能性がある。別々に購入した理由が確執によるものかは不明な部分がある。)。
- なおエンジンに関しては、「陸海軍で製造メーカーが違うのだから、メーカーの数だけライセンスを買うのは当然だろう」という至極全うな意見からであった。単に仲が悪いだけではないのである。
- ちなみに日本陸海軍の確執に呆れたドイツもまたやらかしている。陸海軍がそれぞれ航空部隊を持った日本とは違いドイツ軍は空軍が航空戦力を担っていたが、海軍が空母を作り始めたときにその艦載機までも空軍の管轄にしてしまった。ドイツ海軍の空母は完成することなく終わったが、もし運用されていたらきっと苦労が絶えなかったに違いないし、それ以前に軍艦搭載の水上機すら空軍管轄にしている。これはおデブで第三帝国No2の実力者だった空軍の国家元帥殿の権力欲旺盛だったことが主因ともいえる。海軍総司令官エーリヒ・レーダー提督と犬猿の仲だったし。
- 前線装備の強さにこだわるあまり、後方を軽視する姿勢:戦う分には強い日本軍の弁慶の泣き所。お陰で立派な兵器があっても、弾が無くて戦えなかったり、燃料が無くて動かせなかったり……ここを突かれて第2次世界大戦に負けたと言っても過言ではないかもしれない。「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」というこの姿勢を如実に示した文句だとよく言われるが、輜重輸卒は基本的に戦時に多く徴用される、武器すらロクに支給されない、入営もほとんどしない、兵隊とは言い難い兵科で、これが後方軽視に繋がるかと言われると微妙なところがある。すなわち「輜重輸卒が~」は「兵隊でもないやつが何イキってんだコンチクショウ」のようなニュアンスである。どちらにしろ、兵站が弱かったのは事実である。この後方支援部隊で地獄を見たある軍曹が生み出したのがかの名作、というのも大変な皮肉。
- 大日本帝国陸海軍の施設隊の過剰なこだわり:機械化が遅れ施設整備の速度が遅かったとされる日本陸海軍だが、そもそも仮設とか急造とかが必要な状況というのをきちんと理解していなかったフシもあったり。例えば「仮設橋」と言いながら上質の木材を多数持ち込み、足りなきゃあたりから伐採して、大工経験者の指導のもと立派な橋をつくってしまうのである。あまりに頑丈すぎて500lb爆弾では直撃させないと破壊不可能だったり、戦後しばらくの間地元の正式な幹線道路になっていたりしたのはご愛敬。元々災害大国であまりにもろい建築物をつくることに抵抗があったというのもあるのだが…… そしてこれに関しては自衛隊にも伝染し一切反省していない。
- 大日本帝国陸海軍の訓練に対する異常なこだわり:敵が強そうだから訓練を重ねて軍全体の練度と士気を高めるというのはどこの世界でも同じだが、彼らの場合桁が違う。一年分の弾薬を十日間で使い切ったり、雪山行軍とか台風に艦隊を突っ込ませるといった死と隣り合わせの訓練をさせるというか実際に死者を出すレベルの激しい訓練だったり、当の兵士達もその状況に何の疑念も抱かないというもはや世紀末。挙げ句の果てに『訓練程度で死ぬような奴は誇り高き帝国兵士ではない軟弱者』という風潮が全軍に蔓延。どうしてこうなった。しかし、これほどの訓練のおかげで上記の化け物兵士達を生み出すことができたのも確か。日本面の正と負の両方を兼ね備えたものであろう。ちなみに、自衛隊はこれをしっっっかりと受け継いでいる。
- 石原莞爾・辻政信・牟田口廉也・神重徳:諸説はあるものの、それぞれ異なったベクトルで破壊力を持つ。「これだから陸軍は」と言われてしまう原因は大体石原・辻・牟田口の三者にある。神は「海の辻ーん」とか呼ばれていたり。
- 大日本帝国海軍の艦隊決戦に対する強いこだわり:ぶっちゃけ病気レベルで艦隊決戦バカといえるのが帝国海軍の特性。日露戦争でバルチック艦隊を撃破し、大艦巨砲主義が世界に広がれば、日本を含めた各国が追い付け追い越せと巨費を投じて軍用艦艇の建造に熱中した。そのおかげで日本の造船技術は変態レベルで向上している。特に日本は先の戦争を戦訓とした猛烈な海戦訓練を実施し、世界有数の海兵集団を教育することに成功している。恐らく日清・日露戦争の折は敵艦隊を撃ち破って制海権を確保する事でシーレーンの安全を守るという考えだったと思われる。
- 太平洋戦争では戦線の拡大に伴い艦艇の数が足りなくなり、さらに後方軽視の態勢から敵の輸送物資を遮断する「シーレーン破壊」にも自国の「シーレーン防衛」にも無頓着だったことから、連合国側に反撃の猶予を与える遠因を作ってしまう。軍費・資材の切迫もだいたいは軍艦建造に拘りすぎたことが原因。また軍艦より安価なので仕方ない面もあるが、それでも全体的に商船を撃沈するよりは軍艦を撃沈する事を重視したり、商船を軽視する面があったという(ただ、シーレーン破壊に全く無頓着だったというわけでもなく、潜水艦の任務は太平洋戦争前にはロンドン軍縮条約以前に想定された通商破壊を含む哨戒と艦隊支援に戻っていた。戦中は輸送船襲撃なども行っており、インド洋では通商破壊も行われていた。だが、アメリカのシーレーンに対して通商破壊を行うには距離や戦力、潜水艦部隊の拠点などの関係から難しかったと思われる。シーレーン防衛にも全く無頓着だったというわけでもなく、戦前に想定された大陸との航路護衛を考慮した掃海艇や敷設艇などを整備する計画も進められ、戦争後期には大型・中型艦艇の修理や整備を中止し、余ったリソースを日本における対潜戦闘の主役こと海防艦の建造整備につぎ込んでいる)
- 大和型戦艦は大艦巨砲主義艦隊決戦思想の極致であり、「とにかく艦隊組んでゴツい戦艦でブン殴れば勝てる」という嗜好のもと建造された戦艦である。しかし大和型が竣工したまさにその時、時代は大艦巨砲主義から航空主兵主義へと移り変わり始めており、また海軍の艦隊現存主義も相まってなかなか前線に出ることができずにいた。後半からは徐々に出撃が増えるものの、艦隊決戦の機会はついに訪れず、全艦が沈没してしまった。
- だが、実は開戦後、ガラッとこの思想をぶん投げたのも実は日本海軍だけだったりする。開戦必至となった状況でのマル急計画、マル五計画では戦艦はただの1隻も発注されておらず、空母・駆逐艦・潜水艦で埋め尽くされている。いよいよそれでも足りないとなったら建造中の大和型戦艦の船体を空母に転用することにしたり、全戦艦の空母改装が企画されたりしていた(結局伊勢型2隻のみ、それも工期短縮のため航空戦艦という鵺的存在に終わるが)。アメリカはこの期に及んでもモンタナ級戦艦とアイオワ級戦艦計10隻を発注、アイオワ級4隻は完成しており、アイオワ級の最終2隻とモンタナ級が正式にキャンセルされたのはもう日本海軍の脅威度が急激に低下した1943年後半のこと。イギリスに至っては間に合いすらしないと解っていて戦艦ヴァンガードの建造を続行、終戦後に就役させているのである。
- すなわち、「自ら航空戦力の有用性を真珠湾攻撃で証明しておきながら、空母機動部隊を艦隊決戦の前座ぐらいにしか考えなかった“水上戦力至上主義”への甘えで、最終的に機動力と制空権競争が重要となった戦場で自分たちが時代に取り残される」というのは戦後の浅い時期に蔓延した誤解である。むしろ日本の運用体制の拙さは空母よりも戦艦を積極的に動かさなかったことにある。これは戦艦を動かすと空母並の資材(特に石油)を食ってしまう割に効果がイマイチ……ということからなのだが、実は積極的に動かした金剛型と大和型では対して燃費が変わらなかったり……
- もっとも大艦巨砲主義艦隊決戦主義は捨てても、砲雷撃から航空兵力に乗り換えただけで艦隊決戦主義は変わらなかった。しかし太平洋戦争は陸軍と共同での拠点占拠・防衛、そして自国のシーレーンを防御し、相手のシーレーンを寸断する戦いがメインで艦隊決戦は二の次であった。開戦当初はシーレーン攻撃も行われたが、山本五十六が敵艦隊を撃滅するチャンス(つまりは艦隊決戦)と喜んだと言われる米軍のガダルカナル島上陸では第七戦隊の予定していた通商破壊作戦は中止され、ガダルカナル島方面に向かう事が優先され、以後は敵シーレーン攻撃の試みは戦局の悪化もあってかあまり省みられなくなる。その後も戦局は悪化の一途を辿り、「艦隊決戦での勝利こそが敗色濃い戦局を一変させる手段」という夢物語的な構想も、マリアナ沖海戦における空母機動部隊と海軍航空隊の壊滅により崩壊した……というかする筈なのだが、未練がましくレイテ決戦、沖縄決戦とまだ続いていく。
- 大日本帝国陸軍の軍刀に関するこだわり:「刀は武士の魂なり」と本気で考えていたのか現在では不明だが…フランス軍を真似て当初は儀礼用にサーベルを使っていた。儀礼用に。ところが、腰に吊ったそのサーベルを戦場で振り回す者が後を絶たず、日本刀の刀身をサーベルに仕込んだ。が、それでも扱い辛いと不満が出て日本刀式の拵えに。砲弾が降ろうが敵が機関銃を持っていようがいざというときには抜刀するのが日本流。軍歌にもあるもんね。最終的に、--戸山学校(戦技教育機関)、造兵廠、大学、冶金工場が一丸となって実戦的な刀剣の開発と製造に励んで、日本刀の弱点を尽く克服しようとした。20世紀の1/3を過ぎてもなお国家規模で斬撃武器の研究開発を行うあたり日本面の面目躍如である。一方で陸軍とは正反対の路線を歩むことが多かった海軍の場合は…「鉄だと錆びるだろ!」とステンレス鋼の軍刀を開発していた。
- 大日本帝国海軍の夜戦に対するこだわり:列強海軍に数では敵わない、どうする?→闇にまぎれて襲い、数を減らしてから決戦に持ち込めばいい! と考えた結果。もはやフェチや病気のレベル。レーダーが無かろうが、暗闇だろうが関係なくとことん楽しむのが日本流。初戦の大戦果には夜戦の戦果が結構ある。後半は新戦術を編み出した米軍に押され気味になるが、それでも勝ち戦があるのも日本流。
- 探照灯:その一端をよく表わすのが艦艇への探照灯装備の標準化である。これ自体はさして変な発想ではないのだが、問題は艦隊旗艦が率先して探照灯照射を行い続けたことだろう。もともと海軍内でも「夜間の探照灯照射は危険」という”闇夜の行灯論”があったものの、開戦後間もない時期はとにかく夜戦になったら探照灯、敵艦捕捉に探照灯、攻撃照準に探照灯……と、まぁ「夜戦時には探照灯を用いて戦闘すべし」をマニュアル化してまで徹底していたあたりでお察しいただきたい。しかし南方進出後のクラ湾夜戦で第三水雷戦隊旗艦が、直後のコロンバンガラ島沖海戦で第二水雷戦隊旗艦それぞれ探照灯照射を行った末に敵艦の集中攻撃を受け沈没し、二水戦、三水戦司令部が揃って全滅するという大惨事を目の当たりにしてからは徐々に探照灯の使用が控えられ、代わりに照明弾の使用が進められていった。
- 平賀譲造船中将:軽巡洋艦に一クラス上の装備を搭載するという無理を力業で克服する設計手法を用い、重巡洋艦という艦種を生み出す立役者となった。大日本帝国版アドミラルフィッシャー。
- 軽くする病:主に戦車開発など。搭載するエンジンが非力だったり、輸送インフラが貧弱だったりするのが主な理由。艦艇や携行装備は適用外。自衛隊にも罹患しかけた。実は意外なところに伝染していた。
- 大日本帝国陸軍の狙撃に関するこだわり:狙撃へのこだわりで定評のある帝国陸軍であったが、それを物語るエピソードの一つとしてマシンガンの発射速度を意図的に落とした上で(弾道がぶれないようにするため)重石として銃剣を装着して(重さで銃口を安定させ、必要の無いときは外して運びやすくした)狙撃を行っていたというものがある。
- なお、WW2で世界の歩兵の主力武器となったサブマシンガンを日本も一応研究・開発してはいたのだが、「2発目以降は当たらない」と忌避され、日本軍の主力武器とはならなかった。これは、日露戦争で日本軍も塹壕戦は経験していたものの塹壕内での白兵戦・銃撃戦の経験には乏しかったため。そもそもが常に物資不足に悩まされ続ける貧乏国家(当時)、相手にプレッシャーを与えるためだけの銃弾の使用などもってのほか。反動が少なくコントロールしやすいはずの拳銃弾を使う短機関銃でも上手く撃てないほど日本人の体力が無かった、なんてことはない。多分。
- 大日本帝国陸軍の銃剣(突撃)に関するこだわり:どれほどかというと、一般的な小銃への着剣はもちろん、短機関銃、果ては軽機関銃にまで着剣装置をつけて磨きをかけ、とうとう銃剣道なる武道にまで昇華してしまったほど(銃剣術自体は各国に存在した。余談だがスターリング短機関銃やウージー短機関銃など銃剣を装備できる短機関銃は少なくない)。さすがに重機関銃を構えて突撃、というのは無理があって、上述のように単なるバランスウェイト代わりだったようだが、着剣しなかったのは拳銃くらいじゃ……え、軍刀と拳銃が一体化したのがあったって?あれは刀に拳銃がついてるから(震え声)。太平洋戦争の緒戦では充実した火力支援を得た上での攻撃であったため有効性があったのだが、中期以降の島嶼防衛戦では満足な支援を受けることができなかったため、通常突撃のほとんどと万歳突撃の全てが失敗に終わり、結果として多くの悲劇の作り出す要因となってしまった。
- もっとも、戦後のPKO活動などでは銃剣の威嚇効果が極めて有効だったとか、けっこう馬鹿にならないのも事実だったりする。英国軍部隊が武装勢力相手に銃剣突撃キメて(しかも勝って)いたりするし。
軍艦
- 松島型防護巡洋艦:清国の強力な新鋭戦艦、定遠級戦艦に対抗すべく、排水量4000tの船体に32cm単装砲1門を乗っけたもの。英国面の一つとされるハッシュハッシュ・クルーザーを本国より20年早く、より極端にやっちまった例である。砲を旋回させるだけで船体が傾き、発射しようものなら大揺れで偏差修正射撃など夢のまた夢、無理やり使っても同級合わせて所詮3門(しかも当たらない)の火力でしかなく敵から見れば全然怖くないと、その主砲は文字通り無用の長物であった。そして肝心の清国戦艦は副砲でタコ殴りにしてスクラップにした。なお、原設計を担当したのはフランス人の設計技師エミール・ベルタンである。
- 金剛型戦艦:そう、後日談があった(前日談はこちら)。(2代目の)「金剛」型はもともと戦艦ではなく巡洋戦艦であり、その原典はドレッドノートではなく同じ技術を用いた巡洋戦艦「インビンシブル」である。この巡洋戦艦は、戦艦がまだ25ノットも出せなかった頃に重装甲の戦艦では追撃戦や通商破壊戦に向かなかったことから、装甲は巡洋艦並みで高速を発揮し戦艦並みの主砲で相手を攻撃するという機動戦の為のフネで戦艦とは似て非なるものである。日本では同数の戦艦と装甲巡洋艦を目標に整備を進めており、第一次大戦の戦訓などで長門型以降の戦艦には25ノットを越える高速を求めた日本海軍(と言うよりどこでもそうだが。しかも大和に至ってはさらにデカイ全長と横幅で27ノット以上を記録している)では、巡洋戦艦という艦種は戦艦との連携を期待されていた。ワシントン軍縮条約で保有が制限されると金剛型以外の巡洋戦艦は保有排水量などの関係ですべて廃艦になり、1931年には巡洋戦艦という種別自体も廃止されてしまった。しかし金剛型は比較的新しくレイアウトも近代的なため、装甲を増して名実ともに戦艦に改装してしまったのである。戦艦に艦種変更された当時の金剛型は、速力25ノット程度と長門型より遅いくらいだった。その後ロンドン軍縮条約明けをにらんだ第二次改装で、機関出力を3倍に上げ、30ノットの高速戦艦に改造したのである。しかしこの時の金剛型はあくまで戦艦であって、巡洋戦艦ではない。まったく島国ってのは……。因みに、就役時と最終時の外見はもはや別物と言っていいぐらい変わっている。多分、何も知らなければ同じ戦艦だとは気付かない。だって艦橋は扶桑型とは言わないものの増設されまくるし、大和型の艦橋つけられたのいるし艦体延長するし、妹分も魔改造されるし……
- 扶桑型戦艦:下記の金剛型の成功を経て日本が自力で初めて作った超弩級戦艦。近代化に次ぐ近代化の結果誕生した違法建築または違法建築物ばりの艦橋とすら言われる物理法則を放り投げたような艦橋はあまりにも有名。
- 伊勢型戦艦:上記扶桑型の姉妹艦。扶桑型の設計者は速力や主砲配置の改善案を考えており、同盟国のイギリスから第一次大戦初期の海上戦闘の戦訓なども得ることができたため設計を変更し、戦艦としてはそこそこまともに仕上がった・・・ただし、直進性に問題があり操舵が難しいという問題があった。その後ミッドウェー海戦での空母大量喪失に伴い、航空戦艦へと改装されるが、結果として艦載機の運用はしなかった。ただし大幅に広くなった甲板をフレキシブルに利用してそこそこの活躍は残している(ex.飛行甲板に大量の機銃を設置したり、航空機格納庫を倉庫として利用したり)。また乗員の操艦もあって爆撃機や雷撃機による爆撃や雷撃を回避する(しかもその当時の艦長は新米やブランク明け)。ちなみに航空戦艦の発想自体は世界中にあったが、本当にやらかしたのは世界でも伊勢型のみ・・・と思いきや、戦後ソ連が1143型重航空巡洋艦(いわゆるキエフ級空母)という限りなく近い何かを作っている(だがキエフ級は本職が対潜巡洋艦なので、実際はこっちの方が近いかも)。
- 特型駆逐艦:ワシントン軍縮条約で大型艦艇に制限を受けた結果考えた、「ぼくのかんがえたさいきょうのほじょかんてい」。本来水雷艇に対処するための駆逐艦を大型化、かつ重武装させることで主力に勝るとも劣らない火力と小型艦艇の小回りを両立。それまでの世界中の駆逐艦を過去にした、いわば「駆逐艦のドレッドノート」であり、次の軍縮会議で速攻制限枠に指定された。その性能は米海軍をして「我が国の駆逐艦300隻と特型駆逐艦50隻を交換してほしい」と言わしむるほど(当時の米海軍はWW1で作りすぎた旧型駆逐艦が余っていた)。また、そもそも駆逐艦が『駆逐』する対象とは水雷艇であり、その活動は沿岸部に限られるため、重武装化云々以前の問題としてそもそも外海に出すという発想がなかった。それはそれこそ巡洋艦の役目であったという点でも画期的な艦であり、米国の駆逐艦長から『特型に乗って外海を駆けるのが俺の夢』とまで言われてしまうほどである。主な戦場となった太平洋戦争の時点では既に旧型化して次々戦没していったが、戦後を生き延びて賠償艦となり、1970年代まで残った艦も存在する。そしてこの特型駆逐艦の登場により、駆逐艦はただの補助艦艇から立派な戦力となり、戦後に至ってはそれ以上の巡洋艦そのものを駆逐して海軍力の主力となったという点ではドレッドノート以上のエポックメイキングである。
- もっとも空母の台頭により戦艦・巡洋艦の価値が薄れ、突出した戦力である空母以外の水上軍艦に平和時で求められるのはコストパフォーマンスとオールマイティ性であって特型駆逐艦が登場しなくても駆逐艦は海軍の主力となったとも考えられる。事実、現在は駆逐艦を駆逐してフリゲート艦が主力となっている。当の日本海軍はあくまでも艦隊決戦の為に造ったのであって、対艦能力向上に血眼になった結果駆逐艦の価値とも言うべきオールマイティ性を次第に見失ったうえに飛行機の時代となってもそれはさして変わらず、戦争中は特型駆逐艦の血を受け継ぐ艦隊駆逐艦を艦隊決戦などでなく、物資輸送すら行うような駆逐艦のオールマイティ的な役割という不本意な使い方で、貧弱な対空能力しか与えずに喪失していく様には大いなる皮肉が感じられる。日本でも駆逐艦の主砲に対空能力を持たせる試みは行われたが、対艦戦闘を重視しすぎた結果遅きに失したのである。だが、その命脈はただ単に現在の駆逐艦の原型という意味だけではなく確実に受け継がれている。
- 重巡洋艦:特型駆逐艦と同じようにワシントン海軍軍縮条約での巡洋艦の制限内で日本が考えた「ぼくのかんがえたさいきょうのじゅんようかん」で制限内の巡洋艦の船体に20cm(8インチ)砲を搭載したもの。戦艦と比べ厳しい保有制限が無い為に第二の主力艦として各国の注目を集め建艦競争に拍車をかけた為に特型駆逐艦同様にロンドン海軍軍縮条約で巡洋艦は重巡洋艦と軽巡洋艦に分別され、それぞれ保有数を制限されることとなる。基準排水量が一万トンに制限されているために搭載主砲弾を防御する事は困難な艦種となった。それ故にか参加国で条約失効後も重巡洋艦を作り続けたのは参加国では日米、その他の国でもドイツ・ソ連に限られ、そのドイツは「あ、なんか流行ってるしフランスの巡洋艦対策に造ったけどこれ昔の装甲巡洋艦と同じだわ」とでも気付いたのか未完成のリュッツォウをソ連に売り飛ばしたばかりかプリンツ・オイゲンも売却しようとした。イギリスはタウン級軽巡洋艦がよほど使い勝手が良かったからか戦時中も一貫してそれに沿った軽巡洋艦を戦艦に次ぐ水上打撃力として建造(戦時中に重巡の建造を計画していたとの話もある)。アメリカは好んだのか、それとも仮想敵国の日本が造り続けているのでお付き合い?したのかは分からないが、末期には戦後に理想の重巡洋艦デモイン級重巡洋艦を造り出している。生みの親の日本はそれ故にか重巡洋艦を寵愛し、基準排水量一万トンを超えるのが分かっても反対した設計者の不在中に設計を変えて魚雷を搭載したり、前述のロンドン海軍軍縮条約で制限されても重巡洋艦を欲して、条約失効を見越して失効後に20cm砲に取り替える前提で15cm砲15門搭載の最上型軽巡洋艦という大型軽巡洋艦を建造までもした。しかしその登場は各国に軽巡洋艦という条約内ながら重巡洋艦に匹敵する打撃力を持った艦として衝撃を与え、アメリカは対抗するためにブルックリン級軽巡洋艦を、イギリスはタウン級軽巡洋艦を建造する事となり、造った当の日本海軍の方がその反響に驚いたかも知れない。また一発の打撃力には欠けても速射性のある事から日本海軍内でも最上型を20cm砲に変える折りに従来の15cm砲のままでよいという反対意見もあったという。しかし、日本の艦艇の個艦性能の変態的な高騰ぶりには、対抗するためにそれだけ予算がおりる世界の海軍関係者は喜んだであろうが、為政者達の方は「ねえ、君、軍縮条約の意味って本当に分かってるの?」と日本に対して苦虫を潰した思いだっただろう。特にA級駆逐艦やリアンダー級軽巡洋艦が理想的なコストパフォーマンスだったイギリスは。
- 高雄型重巡洋艦:妙高型重巡洋艦の改良型として登場。書類上では日本最後の重巡洋艦(一等巡洋艦)である。その特徴は巨大な艦橋であるが、妙高型重巡洋艦で指摘された居住空間の狭さと戦闘指揮系統の機能を充実した結果あのような艦橋となった。現場の声を聞いて実現させた、いわゆる「全部乗せ」の結果である。しかし、第四艦隊事件をきっかけに高雄と愛宕は艦橋の縮小工事を施工、摩耶と鳥海については艦橋縮小工事を施さないまま太平洋戦争に突入してしまった。ちなみに高雄型重巡洋艦の設計者は平賀譲のライバルである藤本喜久雄である。なお、こんごう型護衛艦を建造中にジェーン海軍年鑑で「高雄型重巡洋艦を建造」とまで言われた。確かに艦橋の形状は似ているが。
- 大和型戦艦:「デカい、デカい」とどれくらいかというと横付けしていた戦艦が重巡洋艦に間違われるくらい有名な大和型だが、造船学的に言えば積んだ兵装の割にコンパクトな事で有名。寧ろアイオワ級と同じ主砲配置で同じ門数を積みながら口径は大型化しているのに船体のサイズがほとんど変わらないのはどう考えてもおかしい。因みにこれでも防御装甲の関係で必要以上にでかくなっているらしい。さらに最高速力27ノットまで出ると言うおまけ付き(実は、金剛型に次ぐ速さ。しかもこれでも安全の為に出力を抑えた機関を使っている。・・・が公試で27.56ノットを出した海は深度が浅かったため深い海では29ノット近く出したとも・・・あれ?金剛さん追い付かれてね?)で、それでいて設計に無理があるかと言うとそうでもなく、機銃の増強や乗員の増加にも普通に耐えている。そして意外と燃費がいい。ある意味、チート戦艦である。そしてなにより、長門型まではそこそこ似通っていた船体形状が、コイツになった途端一気に近代化した。たしかに長門型と大和型の設計は20年以上差があるが……いったい何があったんだろうか?(なおその20年以上の間に「設計したものの建造出来ず仕舞い」の艦がそれなりにある。さらに巡洋艦や既成戦艦の改造で経験値はタップリ溜め込んだということか。)
- 『こんなにでかくてどこがコンパクトなんだ!?』とお考えの諸兄のためにもう少し詳しく解説すると、大和型の主砲である46㎝三連装砲の重量は2800t。35.6㎝連装砲にして4基分と、たった1基で比較的軽量とはいえ他の戦艦1隻に搭載される全主砲に相当する重量だったのである。ここまで重いと主砲どころか艦船さえ比較対象になり、軽巡洋艦である『夕張型』とも誤認された大型の駆逐艦『秋月型』とほぼ同じ重量である。そしてそれを3基積んでいる。基準排水量65000tに対しておよそ13%を主砲が占めるという計算だ。また、当然ながらこれは『主砲』だけの話であり、他の各種兵装を含めればさらに増える。その上足も決して遅くなく、さすがに金剛型に追いつくほどではないが他の戦艦よりは速度を出せる。人間に例えると、体重65㎏の小柄な成人男性が主兵装だけで総重量10㎏くらいの武装を軽々ぶん回しながら他の奴より速く走り回っているという状態である。これをコンパクトと言わずしてなんと表現するのか……。
- ちなみにホテルニューオータニ東京の回転レストラン建設時にもこの大和主砲塔を回転させる技術が導入されている。開業50年を経ても改修を経たとはいえ現役でコップに並々注がれた水が一滴もこぼれないほどスムーズに動き続けているが、建設にあたって現場責任者が『大和型の主砲より軽いんだろ? 余裕余裕』などとのたまったというエピソードも残っている。
- ちなみに長門型と大和型は排水量が2倍近いにもかかわらず起工から進水までの期間がほぼ同じである。というのは、大和型では現代の造船の主流であるブロック工法と電気溶接を採用したためで、いうなれば現代のタンカーやコンテナ船の礎といえよう。
- 余談ながら、武装の割りにコンパクトとはいえやっぱりデカいので1隻建造するだけで国家予算の3%が吹き飛ぶ(間違えても軍事費ではない)。現代的に言えば、あたご型イージス艦が一気に2隻作れる。しかもこれを4隻そろえるつもりだった。つまり合計12%…あれ?もう一個艦隊組めるんじゃね?(しかも曲りなりにも3隻目まではとりあえず(?)完成している)。
- ただし補足しておくと、現在の日本にとって大和1隻分など単年度予算である(当時は後から建造される予定の駆逐艦としてでっちあげるなど、付け替えて後年度に回した分がかなり多い)。それほど当時と現代とでは日本の経済力が違うのだ……戦争勝ったのどっちだったっけ?
- 『こんなにでかくてどこがコンパクトなんだ!?』とお考えの諸兄のためにもう少し詳しく解説すると、大和型の主砲である46㎝三連装砲の重量は2800t。35.6㎝連装砲にして4基分と、たった1基で比較的軽量とはいえ他の戦艦1隻に搭載される全主砲に相当する重量だったのである。ここまで重いと主砲どころか艦船さえ比較対象になり、軽巡洋艦である『夕張型』とも誤認された大型の駆逐艦『秋月型』とほぼ同じ重量である。そしてそれを3基積んでいる。基準排水量65000tに対しておよそ13%を主砲が占めるという計算だ。また、当然ながらこれは『主砲』だけの話であり、他の各種兵装を含めればさらに増える。その上足も決して遅くなく、さすがに金剛型に追いつくほどではないが他の戦艦よりは速度を出せる。人間に例えると、体重65㎏の小柄な成人男性が主兵装だけで総重量10㎏くらいの武装を軽々ぶん回しながら他の奴より速く走り回っているという状態である。これをコンパクトと言わずしてなんと表現するのか……。
- 伊四〇〇型潜水艦:潜水艦と水上機母艦を足して二で割ったような感じの潜水空母。空母と言うには搭載機が少ないが当時世界最大の潜水艦で水上機を3機も積んだのはある意味充分脅威といえる。就役時期が遅すぎた為既に活躍の場は無かったが、巡潜型などの水上機搭載型潜水艦がそれなりの成果を上げていたことから投入時期と使用方法を間違えなければ優良な戦略兵器に成得た。もっとも海軍が考えていたのはパナマ運河破壊であり、造船スタッフからも、役に立つのか、と建造中から疑問視されていたという。
航空機
- 大日本帝国海軍航空隊:当時世界屈指の人外の巣窟。海上戦闘における航空機の有用性をまざまざと世界に見せつけた。太平洋戦争の緒戦において文字通りバケモノ級の強さを見せ、特に急降下爆撃と水平雷撃については、共に実戦命中率80%超というトチ狂った精度を誇っていた。また坂井三郎・岩本徹三・西澤廣義・赤松貞明・笹井淳一・本田敏明など、前線を支えた戦闘機乗りからも多数エースパイロットを輩出している。そのために地獄と名高い戦艦勤務で鍛えられた水兵がドン引きするレベルの訓練体制が布かれ、その陣頭に立っていたのが彼の人殺し多聞丸である。荒くれどもの巣窟でもあったがゆえに風紀はかなり悪く、初期の空母加賀なんかは世紀末状態だったとか。
- しかし、消耗戦が前提となる航空戦において、航空機の供給能力が絶望的に乏しかったため、前述の悲劇を招く結果になった。また古参のエースを前述の「前線主義」で激戦区に突っ込ませ続けたせいで次々と喪い、後輩指導ができる人材が枯渇し、資材の枯渇と同期するように弱体化も進んだという身も蓋もない状態になり下がってしまう。
- これにはミッドウェー海戦後、喪失リスクの高い空母機動部隊よりも、喪失リスクの低い基地航空隊に整備の軸足を移し、実質的に空軍化していたからという事情があり、その空軍化での消耗は深刻ながら、上層部に認識されておらず、肝心の空母機動部隊同士の決戦に負けた事は海軍のみならず東條英機首相が喧々諤々になるほどの衝撃であったと伝えられる。さらに戦後、海軍上層部は致命的なまでに砲雷撃戦での艦隊決戦バカだったという誤解が蔓延。実際には大艦巨砲主義者が完全に沈黙させられたのは日本海軍のみである。
- なおドイツ軍航空隊とよくよく比肩されるが、陸と海では設定条件が大きく異なり、引き合いに出すのは少々お角が違っていることに注意。日本の練度低下は燃料枯渇も絡んでいる事も注意が必要である。
- 三菱 A5M九六式艦上戦闘機:三菱を英国面に走らせた元凶とも言える、日本初の金属製単葉艦載機。艦載機の開発に難儀していた海軍がまさかの「とりあえず飛行機作ってから空母作るべ」に転換した結果、制約が緩くなって生まれたという逸話を持つ。極限までのスリム化、世界初の捻り下げ、リベット等の新機軸を諸々と詰め込んだ結果、当時の常識をぶっちぎる速度(要求性能190kntに対して240knt)と格闘性能を発揮。日華事変で初投入され、あっという間に中国の制空権を握った。
- 海軍航空技術廠(空技廠) B4Y九六式艦上攻撃機:日本版ソードフィッシュ。本家ほどの活躍はできなかったが、小型空母や沿岸からの偵察・哨戒でそこそこ働いた。
- 三菱 A6M零式艦上戦闘機:異常に長い航続距離、鬼のような重武装(20mm機銃)、軽業師のようなフットワークを兼ね備えた脅威の艦上戦闘機。ただし運動性と航続力にパラメーターを全振りした結果、機体強度がギリギリまで切り詰められており、高速で急降下すると空中分解しかねず(実際に開発初期には試作機の空中分解事故が起きている)、防御力はほぼ皆無という極端な設計になっている。陸上機を超えた艦上戦闘機はこれとアメリカのF-8クルセイダーくらいと言われるが、零戦はこの極端な設計のため発展余裕に乏しく、大戦後期の劣勢の一因となってしまった。
- 京華木:戦時中に海軍から出された「木製の零戦って作れない?」という要求に対する回答と言える特殊な木材。航空用に使うだけあって強靭であり、現代では箸の素材に使われている。これだけなら普通に思えるかも知れないけど、そもそもこの素材が開発されるに至った理由は材料不足による代替品…というわけではなく「木製の飛行機ならレーダーに映らない」というものである。…考えたやつ絶対デ・ハビランドからなんか吹き込まれてただろ!
- 三菱 A7M烈風:零戦1945年モデル。敵戦闘機が強くなってきたので「零戦と同じぐらい格闘戦に強くて短距離離陸できてもっと速くて長く飛べて格闘戦に強い戦闘機が欲しいよう!」というおねだりの末誕生した。紆余曲折あって機体がやたらデカくなった(エンジンが同じ陸軍の四式戦より一回りデカい)りエンジンが不良品だったりして割を食った挙句、エンジンを強力なものに積み替えてこっちは強いぞ!アピールしたら採用してもらえたが戦争に間に合わなかった。
- 川崎 五式戦闘機:エンジンの生産が進まず工場に200機以上野ざらしになっていた三式戦闘機の機体に当時の日本では比較的パワフルで信頼性も高かった三菱・ハ112(海軍呼称「金星」)を搭載したキメラ戦闘機。正真正銘のありあわせだが、エンジンのバージョンアップを見越して柔軟な調整が出来るようにしていた三式戦の基礎設計の妙と、液冷エンジンに不可欠な補機類・冷却液・バランス調整用のバラストを降ろし330kgの軽量化に成功したことで、最高速こそ三式戦・四式戦に譲るが加速力・上昇力ではむしろそれらを上回り、信頼性に勝るエンジンをフル回転させれば米軍最新鋭機にもなんとか食らいつける意表をついた高性能機に。主に本土防衛に駆り出され、一定の成果を残した。終戦後、この機体を分析した米軍は「技術的には見るべきものなし」と結論づけている。三式戦の初飛行が1941年、ハ112に至っては1930年に基本形が出来ていたエンジンであり無理もないが。
- 川西 H8K二式大型飛行艇(二式大艇):PBYの天敵にして川西航空機(後の新明和工業)飛行艇の傑作。当時の日本軍機としては珍しく強靭な防弾装備と防御火力を持っており、索敵中の大型機が鉢合わせると襲ってくる場合もある脅威の大型高性能飛行艇。実際には運用面での問題点もあったようだが、接収後にテストした米軍も感嘆する程の当時世界最高水準の性能を持ちジェット飛行艇が現れるまでは世界最速であったレシプロ大型飛行艇。その血脈を受け継ぐ後継機達は現在でも日本の海難救助や対潜警戒において活躍を続けている。ちなみに川西・新明和の技術的系譜はイギリス・ショート社を祖とする。なるほどな。
- 川西 H11K-L 蒼空:製造が簡易な輸送用の飛行艇として1944年から開発されていた、富嶽に匹敵する大きさの巨人飛行艇。製造の簡易化の為に全木製であり、しかも搭載量を増やすために貨物室が二段構造だった。当然こんなモンスターマシンの開発は大いに手こずり、終戦直前に中止に。製造が簡易な輸送飛行艇はどこへ。
- 川西 KX-03:その蒼空より一年前に設計されていたとされる、500tクラスの超々巨大飛行艇。全長162m、全幅180m、ネ201ターボプロップエンジン12基とネ330ジェットエンジン6基の計18基のエンジンで飛ばす予定だったらしい...正気か川西。
- 中島 G5N十三試大型陸上攻撃機「深山」:4発攻撃機開発に当たり民間の航空会社に偽装してアメリカから旅客機を購入し参考にしようとしたが、偽装を見抜かれ「DC-4E」という失敗作を売りつけられたとの説もある(DC-4Eの失敗からダグラス社は新たに「DC-4」を開発し1942年に初飛行を行った)。当然、深山は重量過多、出力不足の失敗作に出来上がった。その後、輸送機として運用されることになったがパイロットからは「バカ鳥」と言われるなど散々だった。
- 中島 G8N十八試陸上攻撃機「連山」:先の深山のベースたるDC-4Eが失敗作だったのでイチから設計をやりなおした。新型エンジン4発にターボチャージャを組み合わせ、大型爆弾/魚雷による 対 艦 攻 撃を目指した。なお未完成。ちなみに戦後米軍が飛ばしたところ、米軍の整備能力を以ってしてなお飛行不能になるシロモノだった。
- 三菱 F1M零式水上観測機:最強の複葉機と名高い三菱の飛ぶ不条理。通称「零観(ぜろかん)」。零戦よりも小回りが利いたとされる九六式艦上戦闘機と同等の旋回性能を誇り、ドッグファイトに持ち込むことさえできれば当時の米海軍主力艦上戦闘機F4Fワイルドキャット(単葉の近代的戦闘機)を退け、時には撃墜することもあったほど。それどころかF6Fヘルキャットを迎撃戦闘で(未確認)撃墜したとか、挙句の果てにはB-17を体当たりで撃墜して生還したという猛者まで現れる始末。米軍機を警戒して艦隊の護衛を要請したらなぜか戦闘機の「零戦」ではなく観測機の「零観」が駆けつけるなんてことも。なお、本来の任務は艦隊決戦時の艦砲射撃の着弾観測です(ただし、情報源を奪うことによって優位を得るという観点から敵の偵察機を撃墜できる程度の空戦性能は最初から要求されており、その条件を満たす運動能力を確保する為にあえて前時代的ではあるものの翼面積の多い複葉式が採用されている)。
- 愛知 E16A 「瑞雲」:零式水上偵察機の後継として開発された水上偵察機。偵察機+爆撃機をコンセプトに開発されていて、水上機なのに急降下爆撃も可能な機体である。そのために、フロートの支柱にダイブブレーキが装備されていた。また、主翼に20mm機関砲を装備しており、さらに空戦フラップも装備していたため空中戦もできるまさにマルチロールな水上機であった。航空戦艦「伊勢」・「日向」に搭載する(予定であった)第634航空隊所属機は特に有名。しかし実戦投入が1944年と遅く、生産機数もわずか220機ほどであり、戦況悪化もあって本来の性能を発揮できずじまいであった(沖縄戦の際に、特攻をせず九州から飛行する通常攻撃でわずかながら戦果はあったのだが)。2017年、1/1に復元されたレプリカ(先述の第634航空隊仕様)が富士急ハイランドに展示され、さらにその周囲でとあるゲームから派生した音頭を踊る奇祭が行われた。
- 中島 A6M2-N二式水上戦闘機&川西 N1K1「強風」:イギリスもアメリカもあきらめた事をやっちまったその一。しかもそこそこ結果を残した。ただ、技術的に優れていたというよりは地理的要因から需要があった為に実用化まで漕ぎ着けたとも言える。二式水上戦闘機は零戦を水上機に改造したもの。強風は最初から水上戦闘機として開発され正式化された。後に陸上用に改修されて欠陥だらけの局地戦闘機「紫電」(N1K1-J)に生まれ変わるも、最終的には全面的に再設計され局地戦闘機「紫電改」(N1K2-J)へと変身を遂げる。
- 三菱 キ109試作戦闘機:B-29迎撃用として75mm砲を搭載。アメリカ(B-25H)やドイツ(Hs129)にも似たような機体は一応あるが、こちらは飽くまで対地・対艦用である。重爆に向けてぶっ放すのは日本くらい。結局上手くいかずに対地用に転用された。
- 日本国際航空工業(国際) キ105試作輸送機:燃料輸送機。輸送用グライダーにエンジンをつけて自力飛行を可能としたもの、すなわち和製ギガント。ちなみに開発の理由は制海権を敵に握られた状態で内地に燃料を輸送するため。この機体を数百機製造し、バケツリレー方式で燃料を空輸する計画だった。…あれ?確かフォークランド紛争でイギリス軍が空中給油で似たようなことをやったような…。
- 三菱 キ46一〇〇式司令部偵察機:零戦でおなじみの三菱が開発した、戦略偵察機第弐號(第壱號は先任の九七式司令部偵察機)にして世界の航空史にその名を遺す傑作偵察機。設計思想・性能共に非常に画期的で、最高速度に至ってはヘルキャットですら不意討ちを使わないと食いつけなかったほど。それだけに留まらず、「大戦中に運用された物で最も美しい軍用機の一つ」「地獄の天使」「空の百合」とまで絶賛されたほどの絶対的に美麗なプロポーションも兼ね備えている。その一方で前線の連合軍将兵間では、飛来した場所は数日以内に必ず日本軍に襲撃されたため「写真屋のジョー」と恐れられ、ビルマ戦線配属機に至っては「ビルマの通り魔」と評され、完全に恐怖の代名詞だった。
- 空技廠 R2Y一八試陸上偵察機「景雲」:英アブロのマンチェスターや独ハインケルのHe177「グライフ」と同じ双子エンジンを搭載した。発動機の不調のためまともにテストができず、1号機はエンジンの換装中に空襲を受け破壊され、2号機が組み立て中に終戦となり、1号機の総飛行時間はわずか10分程度だった。
- 空技廠 D4Y艦上爆撃機「彗星」ニニ型:下記の伊勢型航空戦艦で運用される為に改良された艦上爆撃機。カタパルトで射出されるまでは良いが、甲板が短い為に当然ながら戻って着艦は出来ない。なので味方の空母や陸上基地に収容される予定になっていた。貴重な爆撃機をそこまで手間暇かけて改造してまで航空戦艦に載せようとする必要性があったのかは疑問。もっとも「伊勢」「日向」、2隻あわせて44機という数字は正規空母1隻の攻撃隊に匹敵する数で(逆にいえば手間隙かけても二隻で一隻分)、戦闘で搭載機を消耗した他の空母(例えば「信濃」)に収容すれば、再出撃も可能という目論みがあったとも言われるが、戦況の急速な悪化によって、一切実現できなかった。
- 川西 E15K水上偵察機「紫雲」:敵に制空権を取られていても強行偵察が出来る水上偵察機、という無茶苦茶な要求の下に作られた水上偵察機。日本機としては初めての二重反転プロペラ、引き込み式の補助フロート、緊急時には投棄できる主フロートなど、意欲的な構造を多数採り入れたが、それが仇になって信頼性がガタ落ちした上、戦闘機より優れた速度は結局出せず、少数生産されたのみに終わる。なお、主フロートを投棄するギミックは、実際にやってしまうと胴体着水するしかなくなり、試作機を失う危険があったために空中投下試験は行われていない。
- イ号誘導弾・ケ号自動吸着弾:どれも陸軍が開発した対艦誘導弾。イ号は甲乙丙の三種があり、甲乙はドイツのHs293と同様の目視による無線誘導弾である。だが、丙はなんと敵艦の発砲音を探知して進入方向を決める自動誘導装置を、さらにケ号爆弾は目標から発せられる赤外線による誘導装置を備え、撃ちっぱなしが可能という代物であった(実際当時の日本の技術では手に余った)。そのうちのイ号乙無線誘導弾は終戦時にほぼ開発を終え、量産も進み実戦投入まで秒読み段階に入っていた。ただし、その頃には母機の手当と保護策が頼りなくなっていたが...。なおイ号甲乙は特呂ロケットエンジンを備えるミサイル、イ号丙とケ号は推進なしのスマート爆弾だった。 ...ちなみに、イ号一型乙は試験中に誘導装置の故障で進路をはずれて旅館の女湯にダイナミック覗きをしてしまい、『エロ爆弾』なるあだ名を貰った。
- 大日本帝国海軍の雷撃に対するこだわり:上記『夜戦に対するこだわり』と同じフェチ・病気レベル。というか地続きと言ってもいいかもしれない(近接戦闘が増える夜戦では、艦砲に比べて射程の短い魚雷が有効に扱いやすくなる)。前述の平賀譲が設計した妙高型への魚雷搭載に彼が反対していたので不在の内にその兵装を設計加えて実装させたり、旧式軽巡洋艦に雷装を四十門積ましたりの時点で重度だが、他にも一式陸攻などの双発陸上攻撃機は海軍では中型陸上攻撃機であり、四発の大型陸上攻撃機こそが海軍の夢であり、それにより生み出されたのが上述の「深山」とその後継機「連山」であったが、そんな大型機に雷撃させるのはどんなものだろうか? ドイツの急降下爆撃機に対するこだわりと似たものがある。富嶽が実用化されていたら海軍は超大型陸上攻撃機ににも欲したかも知れない。...ちなみに、この雷撃信仰の大元は、日清戦争時に当時の主力艦の砲撃によっても沈められなかった定遠・鎭遠を小型の水雷艇による魚雷攻撃で大破させたという戦果が原因なのではないかと思われる。そしてこの魚雷病は従姉妹筋の海自にもしっかり伝染している。
- 球磨型軽巡洋艦大井・北上(重雷装艦):下記の九三式魚雷を撃ちまくるために魚雷発射管40基を装備した雷撃特化型の極端な軍艦に改造された。しかし当時は既に空母による航空戦が海戦の主体となったため、その重雷装を実戦で使用する機会は無かった。というかそんなに魚雷発射管を搭載したら被弾=爆沈になる気もするが……
- 特四式内火艇:海軍陸戦隊向けに開発された、上陸作戦用の水陸両用車。これだけ聞くと普通に聞こえるが、フェチをこじらせた日本海軍はなんとこんなものにまで魚雷を積んでしまった。ついでに、潜水艦に外付けして上陸地点付近まで運ぶために耐圧構造になっている。これを使って環礁の外から水上航行→潜水艦侵入阻止網を超える為上陸→環礁の内側に入って水上航行、というプロセスを経て、環礁内に停泊する米艦隊に魚雷で夜襲をかける……という夜戦&雷撃フェチ全開な作戦をするつもりだったが、浮上から発進まで20分かかる、エンジンがうるさすぎて隠密性が皆無、スピードが遅すぎる(地上で20km/h、水上で8km/h)などの理由で中止。ちなみに、海軍が開発した水陸両用装軌車の中でこれだけが陸軍の車両をベースにしていない。やはり餅は餅屋。
- 秋月型駆逐艦:空母の護衛専門艦として充実した防空能力を与えられるも、当初は後方の空母直衛だからいらないよねって事だったが、空母が敵水上部隊に捕捉された時の戦闘や用途を一つに限定するよりも汎用性を高めてほしいという意見もあり、やっぱり魚雷発射管を積まされ駆逐艦となり、結局、駆逐艦として使用される。まあ、本格的に隻数をそろえた後、間もなく守るべき機動部隊が壊滅したのである意味では正解だが、それ以前から水雷戦隊旗艦など本来の任務とは違う雑用に使われているのはオールマイティ艦たる駆逐艦とされてしまったが故にだろうか(ただ、第二次大戦で空母が水上戦闘に巻き込まれた例は非常に稀(三回だけ)ではあるが存在するし、輸送船団護衛任務艦ではあるがハント級護衛駆逐艦も護衛中の水上戦闘などを考慮されて雷装が追加されるなどの例もあるので全く不要な装備であったとは言い切れない)?
- 九三式魚雷/九五式魚雷/九七式魚雷:イギリスもアメリカもあきらめた事をやっちまったその二。酸素魚雷は隠密性に優れ、また速度や航続距離で通常魚雷に対して大きなアドバンテージを持っていたが、燃料との混合時に起きる爆発が大きな障害となっていた、しかし始動時のみ空気を使用することで実用化。雷撃(及び艦隊決戦)を重視する日本海軍ならではの一品といえる。しかし不発を危惧して信管を過敏に調整した結果命中前に自爆したり(設計者は信管に調整機能をつけたことを後悔したらしい)、実戦並みの高速航行中の発射を訓練でやらなかったら実戦で故障したり(魚雷って高いのだ)苦労も多かった。が、やたら長射程なのが幸いして空母を狙って外れた魚雷が10km先の戦艦と駆逐艦に命中なんてことをやらかしている(ちなみに狙った空母は3本が命中して大火災を起こし沈没、戦艦は1万トンの浸水で長期修理、駆逐艦は曳航中に沈没という大戦果であった)。
- 技術交換でドイツにも持ち込まれたが、「潜水艦は通商破壊戦に使用するフネ。商船相手にこんな高性能なもん使ってもしょうがない」という方針を立てていたドイツは興味を抱かなかった...というが、実際は魚雷はドイツ海軍は英艦隊と交戦する機会の多い水上艦艇も潜水艦と同じ物を使用しており、思想的にも敵のシーレーン寸断も重視していたので商船は最重要目標の一つであり有効な高性能兵器なら使用しないはずは無く、実際のところは隠密性では水疱が出ない電気魚雷を既に開発・使用しており、ホーミング魚雷なども実用化しようとしている現状で充分間に合っているので、取り扱いが危険で整備が面倒なうえコストのかかる酸素魚雷をわざわざ実用化したところで意味はないというのが本音だと思われる。もしくは商船よりも軍艦撃沈を重視した日本海軍が、ご自慢の酸素魚雷に対するドイツ海軍の予想外の冷淡な態度に対して感じた受け止め方かも知れない。技術交換の折にドイツ側に「よくこんな騒音の酷い潜水艦で此処まで来れたものだ」と言われるぐらいに基礎技術レベルがドイツに遅れをとっていたなか、酸素魚雷の技術だけは重宝するだろうと思っていた日本海軍軍人は悔しがったという。というかドイツに限らず、日本と違って列強国は魚雷は遠距離では当たらないと割り切ってあまり航続距離・速度を重視せず、(日本に比べ)低性能だがコストの安い魚雷を用いているような……。
- ただし旧海軍の名誉のために言っておくと、内燃式無航跡魚雷は戦後米英軍に引き継がれた。また枢軸海軍ではイタリアの尖突型魚雷も引き継がれている。しかしドイツの電気魚雷技術はメジャーにはならなかった。ホーミング魚雷はどの国でもやっていたのでドイツ特有のユニークな存在とは言えなかったし(もっとも第二次世界大戦で実用化出来たのはドイツとアメリカのみ。そしてアメリカを凌駕している。日本は発想すらなかったし、それ以前に音響魚雷を実用化するまでの技術自体が無かった。また酸素魚雷はイギリスが開発している。危険性と手間隙かかるので実用化は諦めたけど)、結局一番魚雷に対して先見の明がなかったのはドイツだった。まぁお師匠曰く「田舎海軍」だからしょうがない……って海上自衛隊の72式魚雷ってドイツのヴァルター機関魚雷では?
- ちなみに九三式魚雷がおなじみ直径61cmの水上艦艇用、九五式は直径53cmの潜水艦用、九七式は直径45cmの特殊潜航艇用である。
- 九一式魚雷:文字通り世界最高峰の航空魚雷(於登場時)。それまでは低速、低空からそっと発射しなければ直進さえせず故障しかねない代物であったのに対し、この魚雷は時速500km、高度300mから荒れた海にも発射可能というとんでもないものに仕上がった。真珠湾攻撃の成功はこの魚雷の開発成功が一端をなすと言っても過言ではないだろう。驚くべきは、この魚雷が水中姿勢はもとより、投下中の空中姿勢さえも制御しているという点である。
- 甲標的:前述の九七式魚雷を搭載し敵艦隊に雷撃による不意打ちを食らわす特殊潜航艇。諸外国との戦力差、特に米国の桁外れの生産能力に対しどのように立ち向かえばいいか悩んだ海軍が生み出した物体。さっくり説明すると、魚雷を人が操縦すれば必中じゃね?構想は太平洋戦争の10年前、さすがに人命を犠牲にするような兵器は承認されず、代わりに二人乗りの小型潜水艇で雷撃を行うことにした。いろいろ欠陥だらけではあるものの一応実用レベルになんとか達し、真珠湾攻撃で実戦投入された。が、太平洋戦争では本来の用途である艦隊決戦がほとんど発生せず、甲標的は本来不向きな低速での港湾や泊地への奇襲に使用された。大戦を通して芳しい戦果を挙げることができなかった一方で、フィリピン・セブ島の甲標的部隊のように、小柄な船体と狭い地形を活かして効果的に攻撃を行っていた例も存在する。しかし小型であるが故、索敵が難しい、雷撃時の計算が艇長の暗算、さらにはまっすぐ雷撃することも難しいなどなど性能はホントに実用レベルかよという有様であり、加えて敵に発見された時の生存率も低かった(後期にはどちらも改善されている)。そしてこのときの不満が、特攻兵器「回天」、決戦兵器「蛟龍」「海龍」の開発につながるのである。
- Y標的:港湾の水道内に沈底待機して敵艦を待ち伏せ、頭上を通った瞬間に敵艦ごと自爆し、残骸で水道を封鎖する、というツッコミどころしかない構想の元に改造された甲標的。さすがに攻撃方法は「自爆」から「機雷を敷設する」に変わったものの、その機雷が敷設の振動で爆発するという問題が解決できず開発中止に。
- 蛟龍:簡単に言えば母艦が必要なくなった代わりにデカくなった甲標的。基本的には本土決戦の際に沿岸に接近してきた敵艦に肉薄し雷撃を行う「決死兵器」だったとされる。(艇首に爆薬を搭載して特攻艇にする計画があったという噂もあるが真偽不明)
- 海龍:こちらは母艦が必要なタイプの甲標的の後継。爆撃機譲りの操縦装置とフラップ付き大型種中翼により甲標的と比べ操縦が簡単だった。攻撃面では船体下部両側面に魚雷発射筒を装備し、火薬の爆発で魚雷を発射するとともに反動で発射筒を後方に投棄する無反動砲のような発射方式を採用したが、発射に伴う轟音や衝撃、重心の急激な変化により姿勢がものすごく乱れるため魚雷の搭載を断念、結局こちらは本当に艇首に爆薬を搭載した特攻艇となってしまう。また、どちらにしても速力が低すぎて低速の輸送船団以外にまともに攻撃を仕掛けられないとも。そして致命的な欠点として、海龍は「速度が出ているほど艇首が下を向く」という操作特性があり、多忙になりがちな乗員が気付かない事も多かったため、「潜望鏡による観測など吸排気筒を解放した状態で気付かず潜行→海水が流入して慌てて吸排気筒を閉じる→エンジンの燃焼で急激に酸素がなくなり乗員が窒息」という事故が単独訓練時に多発していたが、結局終戦まで改善されることはなかった。
- 邀撃艇:甲標的から輸送用に武装を取り外し貨物室を設けた特型運貨筒を魚雷発射管を搭載して再武装した特殊潜航艇。潜望鏡がないので艦橋を縦に長くして物理的に水上を観測する。まともなスペックが確保できず、魚雷を発射すると姿勢が乱れ最悪横転するという有様だった。
その他
- 12cm28連装噴進砲:上記の伊勢型戦艦などに搭載された対空ロケラン。近距離に大量のロケット弾をぶちまける装備。日本版シング対空火炎放射器orグラスホッパーLCT-R。モロに英国面に毒された火器の一つ。
- 三式弾:対空焼夷榴散弾。ただしこれをぶっ放すのは重巡洋艦や戦艦の主砲である。近接信管がなかったため時限信管で炸裂位置を調整するしかなく、当てること自体がかなり難しかった。
- 三号爆弾:クラスター爆弾。最初は飛行場破壊用に開発されていたが、後に「敵の重爆撃機が硬すぎて落ちない」という理由で対空クラスター弾にされた。戦闘機に懸架して空中投下する。
- 震海:特殊潜航艇。艇首の吸着機雷を敵艦に取り付けて攻撃する予定だったが試作艇の運動性能が悪すぎて開発中止に。
- 戦争末期に開発された特攻兵器の数々
- 回天:母艦から発射され目標まで自動で突き進む魚雷。なお制御方式は人間。これに至っては身内の海軍のみならず陸軍参謀総長殿からも直々に「おいばかやめろ」と言われている。ちなみに「中からハッチが空けられない」というのは事実無根であり、実際は内外どちらからもハッチを開ける事ができた。
- 桜花:母機にぶら下がり目標手前で投下、ロケットモーターによる加速で突入する一種の対艦ミサイル。これも人間制御。
- 桜弾:和製トールボーイ/グランドスラム。あまりに重すぎデカすぎて搭載機である飛龍に専用の改造が必要になった。対艦用なのでこいつを抱えて飛龍は敵艦に突っ込むわけである。だが本家が炸薬を詰め込んだ通常爆弾の延長にあるのに対して、これは成形炸薬弾、言わばバカでかいパンツァーファウストである。バカでかいRPGと言い換えてもよろしい。その威力たるや、前方3km、後方300mが吹き飛ぶとされた。
- 大戦末期の歩兵による対戦車攻撃用兵器
- 震洋:ベニヤ板でできた船体に爆薬と自動車用のエンジンを載せたもの。
- 伏龍:潜水服を着せて柄を少し長くした刺突爆雷を持たせただけ。どうしろと。
- 梅花:松根油で飛ぶパルスジェット機。
- キ-115 剣:木とブリキと余ってたエンジンで作った。
- タ号特殊攻撃機:ブリキもまともなエンジンも足りなくなって、全木製・練習機のエンジンになった。どうしろと。
- 神龍:ロケットブースターつき木製グライダー。ついにエンジンまでなくなった。ほんと、どうしろと。
- 登戸研究所:30億円もの偽札を中華民国向けに製造したり特攻兵器の研究などをする傍ら、奇妙だったり技術的に早過ぎたりする秘密兵器などを研究していた。
- ふ号兵器:気球に爆弾をぶら下げ偏西風でアメリカまで飛ばす。民間人6人と幾つかの山火事が唯一の戦果。なおアメリカではそれなりの心理的効果があったため日本軍にバレないようひた隠し、生物兵器の搭載を懸念して不発弾の調査にガスマスクを装備させ細菌学者を動員したり、少人数の日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するのでは、という懸念まで抱いていたとか。
- く号兵器:マイクロ波を照射してB-29のエンジンを故障させる計画だった。実験で数m先の兎は殺傷できたらしい。なお兎はスタッフがおいしくいただきました(実話)。
- と号兵器:とある日本の電気投擲砲。高射砲の代わりにする予定だったが、試算した結果電力供給は高射砲一門に発電所が2つ必要という結果に。
- 原子爆弾:あまり知られていないが、実は当時の日本でも開発されていた。結果はウランの濃縮が当時の技術では無理だった。しかし「こんなのアメリカ人にも無理だろ」と思っていたら...
- 日野式自動拳銃:ブローフォワード式という、バレルを引っ張って前進させてコッキングを行い、トリガーを引くと装填・撃発・排莢を行う変態拳銃。しかし構造の都合上常にボルトが開きっぱなしのオープンボルト式で、射撃準備しようとコッキングした際にバレルを引いた指が滑ろうものなら暴発して自分の手を撃ち抜く。またトリガーを引きっぱなしにすると発砲の反動で前進したバレルが引っかかる場所がなくなりフルオート暴発射撃になったりする。あまりに危険すぎて開発者の日野熊蔵本人ですら暴発事故で重傷を負っているほど。
- PX計画:伊400型と晴嵐を使った細菌兵器計画。アメリカ西海岸付近の海域から晴嵐を発進させ、ペスト、コレラ、炭疽菌その他の病原菌を散布、乗務員は病原菌を抱えて上陸し、バイオハザードを発生させるというものだった。実際に生物兵器自体は陸軍で開発がなされていたため海軍から打診した結果、参謀総長・梅津美治郎大将から『それは日米戦という次元のものから、人類対細菌といった果てしない戦いになる。人道的にも世界の冷笑を受けるだけだ』と咎められ中止された。計画があったこと自体も秘匿された。
- 五式中戦車:別名「チリ」。明確な戦車戦を見据えて開発された中戦車で、主砲に半自動装填機構を採用する計画だったが装弾機の動作不安定が最後まで解決せず、試作車に主砲が搭載できないまま終戦に...。
- オイ車:重量150トンの超重戦車。八九式中戦車を倍にして作れと命令されたとかなんとか。主砲には九六式15センチ榴弾砲を採用する予定だったが、車体だけつくられるも走行性能が劣悪(というか走っただけで壊れる)なため開発中止。ちなみに車体寸法は 超重戦車マウスより大きい。
- タイヤ爆弾:関東軍が独自開発した兵器。タイヤの中に爆薬をしこたま詰め込み圧縮空気の噴射で自走して敵陣に突っ込む。要するに和製パンジャンドラム。どこの国でもこういうものは一度は考え付くってことなのかなあ…。
- 阻塞弾発射機:隅田川で見るような花火の筒まんまの対空兵器。真上にパラシュート付きの爆弾を打ち上げるだけで敵機に狙いをつける事はできなかった。
- 竹槍:本土決戦における主力兵器(のひとつ)とされていた武器である。但し一般師団は通常の兵器で武装しており、竹槍を主力として持っていたのは三線級部隊の国民義勇隊くらいであった。なお親記事の通りイギリス軍も似たような発想はしているが、少なくとも向こうは金属製である。そして以下の様な珍バリエーションも・・・。
- 弩弓:木と竹でできたクロスボウ。ただし登場したのは1945年である。これを本気で本土決戦時の主力兵器(のひとつ)にするつもりだったシリーズその2。
- 擬砲:輸送船に載せる大砲が不足したため電信柱などを載せて見た目だけ誤魔化した。