概要
『八六艦隊建造計画』に則り建造された5500t級軽巡洋艦。5隻が建造された。
米軍のオマハ級軽巡洋艦を意識しつつ天龍型の艦形を大型化、駆逐艦に合わせた高速性能を発揮できるように設計されている。また、「木曾」のみは竣工時から陸上機を収容できるように格納庫と滑走台が設置されていたが、実用性に乏しかったため後に撤去された(「球磨」と「多摩」には、後に「呉式2号射出機」が設置され、水上偵察機の運用が可能になった)。ただし球磨型とすぐ後の長良型はまだ設計が机上理論のレベルを出ていなかった事も有って公試の実測値では設計理論値を少し下回る性能となる事が多く(例えば最高速度の理論値は36ktだったが実測値は35.5ktより上の速度を記録する事は少なかった、巡航速度も設計値では14kt台だが実際は12kt台に留まっていた)、その時の結果を反映し改良した川内型でようやく設計理論値が公試での実測値に近付いて縮まり(1番艦の川内は5500t級の理論最高速度36ktの実測値到達・突破を唯一達成した)阿賀野型において実測値が設計値を僅かに上回る程度の精度になっている。
太平洋戦争前に全艦が近代化改修を受けたが流石に初期型で艦齢を重ねていた事も有り本来は退役寸前だった。「北上」と「大井」は、当時計画されていた特別夜戦部隊の要となるために魚雷発射管を左右各舷4連装5基20門を装備した重雷装巡洋艦(重雷装艦・雷巡とも)に改装されている(計画では「木曾」にも同様の改装が行われる予定だった)。ただし、この大改造むなしく真珠湾攻撃以降の戦闘は空母が主役となった事で重雷装艦の出番はなくなり、また、経年劣化や改修時に排水量が7000t近くまで増加し速力が低下したため、戦中は専ら北方警備や兵員輸送任務などに従事した。
また北上のみは、戦争末期に特攻兵器・回天を積む為の改造を受けている(ただし実戦投入まではされなかった模様)。
同型艦
No | 艦名 | 工廠 | 起工 | 進水 | 竣工 | 戦没 |
一番艦 | 球磨 | 佐世保 | 1918/08/29 | 1919/07/14 | 1920/08/31 | 1944/01/11 |
二番艦 | 多摩 | 三菱長崎 | 1918/08/10 | 1920/02/10 | 1921/01/29 | 1944/10/25 |
三番艦 | 北上 | 佐世保 | 1919/09/01 | 1920/07/03 | 1921/04/15 | 1945/7/24(擱座) |
四番艦 | 大井 | 神戸川崎 | 1919/11/24 | 1920/07/15 | 1921/10/03 | 1944/07/19 |
五番艦 | 木曾 | 三菱長崎 | 1919/06/10 | 1920/12/14 | 1921/05/04 | 1944/11/13(擱座) |
1945年11月30日の海軍省廃止の時点で日本海軍籍にとどまっていたのは北上のみだったが、その北上と、同年3月20日に先に除籍されていた木曾が、それぞれ呉軍港とマニラ湾において終戦を迎えている。
北上は機関修復の上で鹿児島港に移動、工作艦として復員任務の支援にあたったのち、1946年10月に解体された。
残る木曾は、独立したばかりのフィリピン共和国政府がまだ財政難だったこともあり、同じマニラ湾で擱座していた駆逐艦4隻(吹雪型18番艦・曙、初春型1番艦・初春、夕雲型14番艦・沖波、同18番艦・秋霜)ともどもしばらく現地に取り残されていたが、1955年11月~1956年1月にかけて播磨造船呉事業所(旧・呉海軍工廠)により浮揚し、間もなく解体が行われ、第二次大戦に従軍した日本海軍の軽巡の中で最も長い、36年(進水日基準)の生涯を閉じた。
後継組織である海上自衛隊には、上記のうち北上と大井の名が受け継がれ、「いすず」型沿岸護衛艦の3番艦・DE-213「きたかみ」、同型4番艦・DE-214「おおい」が、1960~80年代にかけて在籍していた(すでに除籍)。いずれも2代目である。
World of Warships参戦
球磨型軽巡洋艦は、一番艦球磨がKumaとして参戦している。優秀な砲撃力と雷撃戦力を持ち、ベテランから愛される艦となっている。なお、紙装甲は史実通りで、低い対空火力も史実通りとなっている。
かつては、北上がKitakamiとして参戦していたが、バランス調整のため消去されてしまった。