水雷戦隊の旗艦を担うために5500トン型(球磨型)軽巡洋艦の最初の艦として佐世保海軍工廠において1918年(大正7年)に起工、1920年(大正9年)呉鎮守府の所属艦として就役。
就役直後に発生したシベリア出兵時における船団護衛が初任務となった。
機関の最大出力が90000馬力(完成当初の長門ですら80000馬力)と言う高出力に加え、最大船速も36ノットと言う脅威の性能だったが、後年の太平洋戦争開戦時には旧式化しており、機銃増設など近代化改装を行った上で参戦。
第三艦隊に配属、開戦後にフィリピン方面を担当する第三南遣艦隊の所属となる。
1944年(昭和19年)1月11日、マラッカ海峡ペナン島沖でイギリス海軍のツタンカーメン級潜水艦タリー・ホーによる雷撃を受け魚雷2発が直撃、轟沈した。
なお、残骸は長らく海底に眠っていたが、2014年に中国籍の違法サルベージ業者によって勝手に引き揚げられスクラップとして売却されてしまった(羽黒も同じ業者による被害にあっている)。後にマレーシア海事当局が違法サルベージ中のこの業者の作業活動現場に踏み込み全員を拘束・逮捕している。なお一部メディアにおいては本事件はマレーシア現地の業者の活動であると誘導するような表現になっているので注意が必要。(これにはWikiも含まれる)
軽巡洋艦球磨の艦内神社の分祀元は、熊本県球磨郡湯前町にある「市房山神宮」(本宮)であった。しかし地元の本宮側でこの事が分かったのはごく最近のことであり、市房山の山中にある本宮や、湯前町にある下宮の「里宮神社」にも分祀に関する記録や資料が一切残されていなかった。その事もあり宮司の息子さんが2014年にTwitter上において初めてこの分祀の件を知る事となったという。「公式HP」(本内容が記載された大正時代の呉新聞が発見されたのが切っ掛けであった)
2016年(平成28年)の1月11日に初めて慰霊祭が執り行われ、下宮の「里宮神社」の境内に軽巡洋艦球磨の慰霊碑が建立された。また球磨の戦歴や模型、地元人吉の海軍に関する資料などを展示する記念館も建てられている。
熊本県唯一の艦内神社という事もあり、神社の御朱印の印影にも艦艇の球磨が入っている。