エンタープライズ(CV-6)
えんたーぷらいずしーぶいしっくす
太平洋戦争の開戦の時点でアメリカ海軍に在籍していた7隻の正規空母(レキシントン、サラトガ、レンジャー、ヨークタウン、エンタープライズ、ワスプ、ホーネット)の1隻で、第二次世界大戦の期間を一貫して太平洋艦隊に所属していた。
太平洋戦争序盤の日本軍優勢の中、太平洋の守るべき広さに対して手持ちの絶対数が少ない正規空母の一部を大西洋艦隊にも振り向けなければならない苦しい状況のアメリカ海軍を支え、15回に及ぶ損傷に耐えて生き残った。
太平洋戦争の開戦時までに就役していて終戦時まで生き残ったアメリカ海軍の正規空母には、エンタープライズの他にもサラトガとレンジャーがあるが、1942年までのサラトガはいつも肝心な時に修理中、レンジャーは第二次世界大戦の期間を一貫して大西洋艦隊に所属していて空母対空母の大きな海戦に巻き込まれることがなかったため、太平洋戦争序盤の精鋭揃いの空母艦載機搭乗員を擁する日本海軍空母機動部隊を相手に何度も死闘を繰り広げて生き残ったのはエンタープライズだけであり、大戦中で最多の従軍星章(バトルスター)20個を得て、第二次世界大戦における最殊勲艦とされる。
愛称は「ビッグE」の他、「ラッキーE」「グレイ・ゴースト」「ギャロッピング・ゴースト」など。
1936年10月3日、ニューポート・ニューズ海軍造船所で進水。
1941年
1942年
マーシャル・ギルバート諸島機動空襲
真珠湾攻撃によって戦艦部隊が壊滅的被害を受けたために考案された航空母艦と護衛の高速艦艇によるゲリラ的なヒット・エンド・ラン戦法による襲撃に第8任務部隊として参加。
1月31日から翌日にかけてクェゼリン環礁、マロエラップ環礁、ウォッジェ環礁に所在する日本軍基地を攻撃した。
東京初空襲
4月18日に日本本土空襲の為にジミー・ドーリットル中佐率いるB-25爆撃機を発艦させた第18任務部隊の「ホーネット」の護衛である第16任務部隊の司令官ハルゼー提督の旗艦になった。
ミッドウェー海戦
5月28日、日本軍の来襲についての情報に基づき、第16任務部隊司令官レイモンド・スプルーアンス少将の旗艦として「ホーネット」と共に真珠湾から出撃。ミッドウェー島北方海域へ向かう。30日には修理途中の迎撃艦隊及び第17任務部隊の旗艦である「ヨークタウン」も出撃。日本海軍潜水艦が哨戒線につく前にすり抜けて配置につき、連合艦隊を待ち受けた。
6月5日、アメリカ海軍3空母の艦載機が、南雲機動部隊の4空母を攻撃。雷撃隊の攻撃は失敗に終わったが、「エンタープライズ」艦爆隊が「加賀」と「赤城」、「ヨークタウン」艦爆隊が「蒼龍」に爆弾を命中させ、炎上させた(後に雷撃処分)。
雲に隠れて無事だった「飛龍」の反撃で「ヨークタウン」が二度に亘る攻撃の被害を受け、伊168に雷撃されて沈没したが、「飛龍」も「エンタープライズ」と「ヨークタウン」の艦爆隊の攻撃で炎上し、雷撃処分された。
第二次ソロモン海戦
ミッドウェー海戦から第二次ソロモン海戦までの間に雷撃機が新型のTBFに入れ替えられた。
8月24日、第二次ソロモン海戦では3群からなるアメリカ艦隊の第16任務部隊司令官トーマス・キンケイド少将の旗艦として出撃。第61任務部隊旗艦兼第11任務部隊旗艦「サラトガ」の艦爆隊が「龍驤」を撃沈するが、「エンタープライズ」は「翔鶴」艦爆隊から爆弾3発を受けて中破し、トンガタプ島で工作艦「ヴェスタル」による応急修理を受け、真珠湾に後退した。
1943年
4年ぶりの帰国
1943年7月20日、ブレマートンのピュージェット・サウンド海軍造船所に入港した。修理の他、バルジ増設、対空兵装増設、消火設備の充実、新型艦上戦闘機F6Fへの入れ替えなどが行われた。
10月31日にブレマートンを出港し、11月6日に真珠湾に到着。
中部太平洋戦線での戦い
ガルヴァニック作戦が発動、海軍と海兵隊を主力とした中部太平洋における進撃が始まり、「エンタープライズ」もマキン上陸、マーシャル諸島沖航空戦、トラック島空襲などに従軍した。
1944年
マリアナ沖海戦
第58任務部隊第3群司令官ジョン・リーブス少将の旗艦として6月11日からサイパン、グアム、ロタを空襲して、6月15日に始まったマリアナ諸島への上陸作戦を支援した。
マリアナ諸島を防衛するため日本軍機動部隊が出撃し、19日よりマリアナ沖海戦が始まった。
「エンタープライズ」の攻撃隊は空母「龍鳳」、「隼鷹」、「飛鷹」を攻撃した。「飛鷹」は「レキシントン」(CV-16)艦攻隊の攻撃により沈没。
1945年
硫黄島の戦い
2月16日より「サラトガ」と共に東京を夜間に空襲する。
2月19日からの硫黄島の戦いで第58任務部隊の防空を担当したが、21日に「サラトガ」が神風特攻を受けて離脱し、夜間空母は「エンタープライズ」だけとなり、苦しいやりくりが続いた。
日本海で日本軍輸送船を掃討中の3月18日、日本海軍機の500キロ爆弾が命中するが、不発弾だった。
3月20日、友軍の誤射により40ミリ機関砲が爆発。甲板に整列していた艦載機が次々と誘爆し大火災となった。1時間以内に鎮火したが司令塔の機能を喪失し、ウルシー環礁に帰還し修理を行った。
沖縄戦
4月5日、沖縄戦を支援するためウルシー環礁を出撃した。
4月11日、左舷後部に突入しようとした特攻機を撃墜したが、爆弾がバルジの直下で爆発した。浸水は免れたが、船体各所に損害が発生した。任務を2日間継続後、ウルシー環礁に帰還し修理を行った。
5月11日より損傷した「バンカーヒル」より第58任務部隊司令官マーク・ミッチャー中将の旗艦を継承、14日、26機の日本機が飛来。特攻機1機(富安俊助中尉搭乗の零式艦上戦闘機)の直撃を受け大破炎上するが、17分で延焼を食い止め、30分で火災は消火。速度を落とすことなく旗艦として部隊の配置を守り続けた。15日、「エンタープライズ」は旗艦から外され、16日に任務部隊を離脱した。富安中尉の遺体がエレベーターホールの下で発見され、水葬に付された。
これが最後の戦闘になり、6月7日、ピュージェット・サウンド海軍工廠に到着し修理を受けた。
また、終戦後に乗組員が富安中尉の遺族を探し出し、彼の零戦の部品が遺族に引き渡された。
不沈空母とも言うべきエンタープライズを決死の特攻で大破させた富安中尉は、乗組員の間で「トミ・ザイ」と呼ばれ、彼は海軍関係者から「彼はこれまで日本海軍が3年かかって出来なかった事を、たった一人で一瞬の間にやってのけたのだ」と称賛の言葉を受けた。