空母ヨークタウン(CV-5)
くうぼよーくたうんしびご
1937年9月30日、バージニア州ニューポート・ニューズ造船所で竣工。
竣工後は大西洋やカリブ海で訓練等に従事し、1939年に太平洋艦隊に配属されるも、翌40年に英独海軍の通商破壊戦激化に伴い再び大西洋へ配備されることになった。
その結果、1941年12月の太平洋戦争開戦を大西洋で迎えたヨークタウンは直ちに太平洋へ開港され、フランク・J・フレッチャー少将の座乗艦となり、第17任務部隊を形成した。
太平洋戦争
第17任務部隊は1月31日にギルバート諸島を攻撃し、2月からは珊瑚海へ展開してニューギニア・ソロモン方面の哨戒任務にあたった。
5月、レキシントンと共に珊瑚海海戦を戦い、250kg爆弾1発命中、3発至近弾の損害を受けた。
5月27日真珠湾に帰投したが、機関部の損害等により修復には3か月が必要と見積もられた。しかし次の作戦にどうしてもヨークタウンが必要と考えたチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官は、24時間体制で修復と補給作業を行わせ、3日間で曲がりなりにも出撃体制を整えさせた。
水密区画を珊瑚海で破壊されて完全修復されず、航空隊は自前の消耗した飛行隊と修理中のサラトガの飛行隊を合わせた寄せ集めという、万全と程遠い状態で決戦の地、ミッドウェーへ出撃することになった。
ミッドウェー海戦
5月30日、真珠湾を出撃したヨークタウンは、6月5日にミッドウェー近海で日本機動部隊がミッドウェーを空襲したとの報に接する。
エンタープライズ・ホーネットからなる第16任務部隊が攻撃隊を出撃させたのと合わせて、ヨークタウンも35機からなる攻撃隊を編成・出撃させた。
雷撃隊12機は先行しすぎて日本の直掩機によって10機が撃墜され攻撃に失敗したものの、爆撃隊17機は蒼龍を攻撃、3発を命中させて撃沈に成功した。
その後日本機動部隊で唯一生き残った飛龍の反撃により、2度の攻撃で250kg爆弾3発と魚雷2本を受け行動不能に陥ってしまった。ただ結果的に飛龍の攻撃をヨークタウン1隻に引き付けたことにより、エンタープライズとホーネットから(エンタープライズに退避したヨークタウン艦爆隊も含む)攻撃隊を出撃させ、飛龍を沈めることができた。
6月7日13時、曳船にひかれて真珠湾へ向かっていたヨークタウンへ伊168潜から放たれた魚雷のうち2本が命中。翌8日5時ごろに沈没した。