前史
アメリカ海軍の歴史は1775年のアメリカ独立戦争時に発足した「大陸海軍」までさかのぼることができるが、太平洋艦隊の発足は1907年と後の最大のライバルとなる日本海軍連合艦隊よりも遅い(連合艦隊の発足は1894年)。あくまで推測でしかないが、この時期の日本海軍は日露戦争、殊に日本海海戦での大勝利により無視できない存在へと成長しており、それに対抗するべく編成されたものと思われる。
ただしこの「初代」太平洋艦隊の歴史はさほど長続きせず、1922年ワシントン軍縮条約の締結に合わせて太平洋・大西洋艦隊の両艦隊を統合した「合衆国艦隊」の編成に伴っていったん解散している。最も太平洋艦隊は「戦闘艦隊」と名称を改めて存在し続け、大西洋艦隊を改称した「偵察艦隊」の司令官が中将だったのに対し、戦闘艦隊司令官が大将であったことを考えると、重要度はさほど下がっていないと思われる。
太平洋艦隊の再編成
第二次世界大戦勃発
1940年1月、対日関係が悪化する中で新「太平洋艦隊」の発足が決定、ハズバンド・キンメル合衆国艦隊司令長官が兼任することになった(新「大西洋艦隊」の発足は41年2月)。ナチス・ドイツの台頭、更にはフランスの対独降伏により大西洋艦隊にも戦力を割かねばならない状況であったが、それでも連合艦隊と互角以上に戦いうる戦力がある、と思われた。
そう、真珠湾攻撃までは…
太平洋戦争勃発
1941年12月8日、日本海軍第1機動部隊によるハワイ攻撃によって主力戦艦部隊は文字通り壊滅、キンメル提督も解任された。
代わって新司令長官となったのがチェスター・ニミッツ大将である。ニミッツは残された航空・潜水艦戦力をフルに活用し、通商破壊戦ならびに空母機動部隊によるヒット・エンド・ラン攻撃で日本軍の進撃を妨害し続けた。
そして42年6月のミッドウェー海戦で日本の正規空母4隻を沈めたことで大打撃を与えることに成功したニミッツは、8月カタルカナル島への進攻作戦を開始、保有する全空母が撃沈あるいは損傷によって一時的にすべて失われることもあったが、南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー中将の勇猛果敢な指揮によってそれ以上の損害を日本軍に与えることに成功した。
1943年エセックス級空母の就役、新型戦闘機F6Fの登場によって戦力が整ったと判断したニミッツは、中部太平洋軍司令官レイモンド・スプルーアンス中将へマーシャル諸島への進攻作戦を発令、11月から翌年2月までかかったもののマーシャル諸島の完全制圧を完了した。
2つの大艦隊
この時期、太平洋戦域ではハルゼー麾下の南太平洋軍とスプルーアンス麾下の中部太平洋軍による同時攻勢が行われており、こと海上戦力については中部太平洋軍に集中しているため南太平洋軍が攻勢に出る場合は「部隊の貸し出し」が頻繁に行われた。
これは指揮系統上好ましくないとのことで、1943年12月末南太平洋での戦いが一段落した段階で、ニミッツと上官であるアーネスト・キング海軍作戦部長による協議で新たな艦隊運用が決定した。
まず実戦部隊は作戦ごとにハルゼー大将麾下の第3艦隊とスプルーアンス大将麾下の第5艦隊が交代で運用し、一方が前線に出ている間もう一方の艦隊司令部は休養と次期作戦の立案にあたることとすることになった。これによってマリアナ沖海戦(第5艦隊)→レイテ沖海戦(第3艦隊)→硫黄島の戦い(第5艦隊)と各作戦ごとに番号が違う艦隊が出てくることで日本軍は「2つの大艦隊が交互に攻撃を仕掛けてきているのではないか」との疑念を持つことになった。ちなみに45年の沖縄戦では作戦当初指揮を執っていたのは第5艦隊であったが、作戦が硫黄島の戦いから長期に渡ったこと、そして特攻攻撃による損害の累増でスプルーアンスはじめ艦隊司令部の疲労がピークに達したとニミッツが判断したことで、作戦中の5月末に第3艦隊司令部と交代する事態となった。
ちなみに南西太平洋軍司令官ダグラス・マッカーサー大将の麾下にあった第7艦隊はこの艦隊運用から外れていた。理由としては第7艦隊の主任務が南西太平洋軍の上陸作戦支援であったため、マッカーサーの麾下に置かれていたのが大きかった。しかしこれはレイテ沖海戦でのハルゼー提督の暴走を招く結果を生じさせており、必ずしもすべてがうまくいったわけではなかったことを記しておく。
戦後
1945年11月に予定された日本本土進攻作戦では、第3・第5両艦隊司令部が参加する予定(第5艦隊が上陸支援、第3艦隊が増援阻止攻撃)となっていたが8月の終戦によってなされずに終わった。
戦後も朝鮮、ベトナム、そして湾岸、イラク戦争に参加しているが、戦後の対ソ戦略方針に従って現在は太平洋の陸海空軍・海兵隊を統括する太平洋軍司令部の指揮下にある。現在の太平洋艦隊は東太平洋防衛の第3艦隊と西太平洋防衛の第7艦隊からなっている。