概要
前史
19世紀以降極東におけるアメリカ権益の保護を任務とした部隊を起源とする。
東インド艦隊
East India Squadron。1835年、東および東南アジアの国々との何らかの条約締結を目的に設立。
日本には1845年、ジェームズ・ビドル代将を司令官として来航。これが初のアメリカ艦隊来航である。
この時には条約締結は失敗。続く1853年と54年の来航がかのペリー来航である。
1860年、所属するポーハタンが幕府艦咸臨丸とともに新見正興、小栗忠順ら率いる万延元年遣米使節団をサンフランシスコ経由で通過点のパナマに送り届けた (咸臨丸はサンフランシスコ到着後日本に帰還)。
1868年に解散し、アジア艦隊に置き換えられた。
アジア艦隊
アジア艦隊 (Asiatic Squadron) は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて西太平洋や揚子江で活動した。
米西戦争において、マニラ湾海戦でスペインのフィリピン艦隊を壊滅させマニラ湾を制圧、さらにグアムも占領した。
1902年、SquadronからFleetに格上げされアメリカアジア艦隊となった。
アメリカアジア艦隊
United States Asiatic Fleet。20世紀前半における西太平洋駐留艦隊。
日露戦争の際、日本海海戦から逃れたロシア巡洋艦を護送している。
1907年には一度廃止され太平洋艦隊第1戦隊となったが、1910年に再編成された。
1922年に太平洋・大西洋艦隊が合衆国艦隊となった後も存続した。
1941年12月8日、太平洋戦争が開戦したが、後方に控えていた太平洋艦隊は真珠湾攻撃で壊滅。12月10日にはマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊Z部隊も壊滅。南方作戦に対し海軍部隊としてはほぼ独力で対峙することとなった。
1942年、東南アジアの連合国はABDA司令部を結成。アジア艦隊もイギリス東洋艦隊、オランダ東インド艦隊、オーストラリア艦隊とともにABDA海軍を結成。司令長官トーマス・ハート大将がABDA海軍司令官を兼任。隷下には米英蘭豪連合攻撃部隊 (ABDA艦隊) が編成された。
しかし日本軍の進撃を止めることかなわず2月15日には大打撃を受けたアジア艦隊とABDA司令部は解散、3月1日、バタビア沖海戦でABDA艦隊が壊滅。その後フィリピンとオランダ領東インドが陥落。艦隊は重巡ヒューストンをはじめ20隻近い艦艇を失い、オーストラリアへ撤退した。
南西太平洋軍
1942年4月、ABDA司令部に代わってダグラス・マッカーサー陸軍大将率いる南西太平洋連合国軍が発足すると、この地域の米海軍は南西太平洋軍 (Southwest Pacific Force) となり、南西太平洋連合国海軍に加わった。また珊瑚海と南太平洋を管轄するANZAC戦域の西側を引き継いだ (東側はチェスター・ニミッツ大将率いる太平洋連合国軍隷下の南太平洋軍が担当) 。連合国海軍司令官は南西太平洋軍司令官が兼任した。
太平洋戦争
1943年3月、アーサー・カーペンター中将指揮下の南西太平洋軍海軍部隊を改組して創設。しかし、カーペンターと直属上司であるマッカーサーの折り合いが悪かったため、トーマス・キンケード中将が新司令官となり終戦まで率いられた。
以降はマッカーサーの戦略に乗っ取り、ニューギニア島の攻略に携わったのち、1944年10月には護衛空母や旧式戦艦の増援を受けたうえで、フィリピン攻略を担当する陸軍部隊の支援にあたることになった。
ただややこしいのが、海軍部隊ではあるものの第7艦隊の上位にはマッカーサーの南西太平洋軍があり、太平洋の全海軍部隊を握っているニミッツの太平洋艦隊の指揮下には入っていないことである。この命令系統のややこしさが、レイテ沖海戦での第3艦隊の暴走を呼び、あやうく第7艦隊と上陸部隊が壊滅させられる危機を呼ぶことになった。
フィリピンの攻略終了後は、蘭印のボルネオ島攻略に転じ終戦を迎えることになった。
戦後
戦後は軍縮の影響で第3・5艦隊が解散する中、冷戦を睨んで西太平洋防衛のため第7艦隊は残されることとなり、占領下の横須賀を母港に、佐世保や韓国の釜山、シンガポールに基地を置いた。一時マッカーサーの極東軍隷下の西太平洋海軍 (Naval Forces Western Pacific 管理上は太平洋艦隊所属だが有事の指揮は極東海軍) となったがその後再び第7艦隊となった。
朝鮮戦争やベトナム戦争、湾岸戦争ではアメリカ海軍の派遣部隊を指揮下に収めたが、1995年に中東を作戦域とする新生第5艦隊が編成されて以降は、インド以東から日付変更線以西の太平洋が作戦域と定められた。