概要
マシュー・カルブレイス・ペリーとは、アメリカ合衆国の海軍軍人。江戸末期の嘉永6年6月3日(西暦では1853年7月8日)に日本の浦賀に来航、当時の江戸幕府に開国を要求し「日米和親条約」を締結した人物。一般にはマシュー・ペリーの名で知られる。
蒸気船を主力とする海軍強化を進めたことで「蒸気船海軍の父」と呼ばれている。また、航海の途上で気象観測を行っており、気象学に貢献したことでも知られる。
経歴
1794年4月10日、ロードアイランド州ニューポート出身。アメリカ海軍大尉である父クリストファーの下に三男として生誕。14歳で海軍士官候補の辞令を受け、海軍に入隊する。
ブルックリン海軍工廠の造船所長や海軍大佐へと昇進、同海軍工廠の司令官となり、代将となった。1846年の米墨戦争ではミシシッピ号に乗艦、艦長と副司令を兼任した。
日本来航(1度目)
1852年に東インド艦隊司令に就任。盛んに行われていた捕鯨の拠点として日本を開国させる指令を受け、上述のミシシッピ号を旗艦とする4隻の艦隊で出港。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に日本の浦賀に来航した。その後、久里浜に上陸し幕府に13代米国大統領ミラード・フィルモアの国書を渡したがこの時は具体的な協議は行わず、1年の猶予をもって一度帰国している。
日本来航(2度目)
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に旗艦サスケハナ号を筆頭に7隻の軍艦を率いて再び来航。清で太平天国の乱が起こり、東アジア情勢の変化が著しいことから早期の条約締結を要求、幕府もついに折れて「日米和親条約」を調印した。
3代将軍の徳川家光より200年以上も続いた鎖国は破られ、それから10年以上に及ぶ幕末の動乱が始まるきっかけとなった。その後、那覇に寄港して琉球王国とも「琉米修好条約」を締結している。
開国後
開国を果たしたペリーであったが体調不良から帰国を余儀なくされ、療養のためヨーロッパを経由しながら1855年1月に帰国、同年に東インド艦隊司令長官を退任。晩年はアルコール使用障害、痛風、リウマチ患いながら日本遠征記などを出版した。
1858年3月4日、ニューヨークで死去、63歳没。
余談
兄のオリバーの名を冠した艦は21世紀に至るまでに5隻存在(うち1隻は自身の名が艦級となった)したが、マシューの名を冠した艦は2010年に就役したルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦9番艦の『マシュー・ペリー』まで存在しなかった。
なお『マシュー・ペリー』は2011年に起きた東日本大震災でのトモダチ作戦に参加、燃料や救援物資を輸送した。