概要
1946年1月5日三笠宮崇仁親王殿下と崇仁親王妃百合子殿下の長男として生まれる。
次男には桂宮宜仁親王と三男には憲仁親王、姉は長女近衞甯子と次女千容子がいる。
生涯
聖心女子学院幼稚園、学習院初等科、学習院中・高等科を経て学習院大学へ入学し、その後ヒゲを生やすようになる。
1966年1月5日に成年皇族となり、皇族として公務に携わるようになる。
1972年に麻生太郎の妹である麻生信子に求婚するも未成年だった為、1980年に皇室会議が開かれ、その後御成婚した。
翌年1981年に長女である彬子女王と1983年に次女、瑶子女王に恵まれたがその後ガンを患い、長年の闘病の末、2012年(平成24年)6月6日15時35分、多臓器不全のため、入院先の東京都千代田区の佐々木研究所附属杏雲堂病院で薨去した。66歳没。斂葬の儀は同年6月14日に執り行われ、喪主は長女の彬子女王が務めた。その後落合斎場で火葬に付され、豊島岡墓地に埋葬された。なお、三笠宮本家からは独立の生計を営んでおり寬仁親王が当主を務める「寬仁親王家」(ともひとしんのうけ)として他の宮家に准ずる扱いを受けていた。親王の薨去に伴い、当主不在の状態が続いていたが、2013年(平成25年)6月10日に宮内庁は、「薨去にさかのぼり、親王家を廃止する」と発表した。従来の慣例では信子親王妃が当主を継承することになるが、長年別居が続いており、親王の薨去後も2人の子女たちと同居していなかった。これにより遺された信子親王妃と彬子女王、瑶子女王の2人の子女は三笠宮本家に合流した。また、寬仁親王邸の名称も「三笠宮東邸」と改称された。
余談
- 髭を生やすようなった理由は髭は男の象徴で応援団として活躍すべく髭を生やすようになり、その後ヒゲの殿下として親しまれるようになった。
- 寛仁親王妃信子と出会ってご成婚するまでは数々の女性と付き合ってたが誰に対しても丁重に対応した。
- 皇族代表としてラジオ番組や黒柳徹子の冠番組である徹子の部屋に出演し、皇族方の生活を語った。
- 皇族の中で目立った行動しがちだったのか、極左テロ組織に狙われるようになり、天皇を除く宮家の中では常に警備体制が強化されてた。
- 札幌オリンピックでは皇族ながら一般スタッフとして勤務してた。
- 皇族としての負担とストレスが大きかったのか、一時期皇籍離脱発言するも昭和天皇に止められ、発言撤回した。
- 両親からは勉強するよう言われる事は余りなく、スポーツは得意分野だったが勉強はどちらかと言えば不得意だった。
- ガンを発症して治療費が膨大になり、宮内庁職員に治療費を何とかしてほしいと伝え、その後治療費負担を軽減されるようになった。
- 成年皇族時に日産プリンス・スカイラインGT-B(今のスカイライン・シリーズ)を運転してたがオートバイとの人身事故で免許返納した。
- 皇位継承問題で皇族方が中立的なお言葉を述べる中、彼は男系男子維持と旧宮家皇籍復帰させるべきと述べてたり
- 社会福祉活動には積極的で障がいがあっても無くてもともに共生し合う社会を望むと述べた。