イギリス東洋艦隊
いぎりすとうようかんたい
前史
1914年に始まった第一次世界大戦当時、イギリス海軍のアジア方面艦隊は「東インド戦隊」「中国戦隊」「オーストラリア戦隊」の3個戦隊を総称した「東洋艦隊」司令部が置かれていたが、司令官は中国戦隊司令官が兼ねるものとされ、重要度はさほど高くなかった。これはイギリスの目の前に世界第2位のドイツ海軍が存在したこと、また重要度から言えば大西洋・地中海航路の守りを固めるほうが重要視されていたこともある。
太平洋戦争前夜
その状況が変わったのは日本による仏印進駐であった。1941年7月28日、日本は前年進駐していた北部に続いて南部へも移動を開始し、仏印全土を掌中に収めた。これにより東南アジアに権益を持つ米・英・蘭3国は危機感を抱き、8月25日チャーチル首相は東洋艦隊の正式な編成を命じた。
12月8日、開戦の日を東洋艦隊は以下の戦力で迎えた。
司令長官 トーマス・フィリップス大将
・戦艦 プリンス・オブ・ウェールズ(旗艦)
・軽巡洋艦 ダナイー、ドラゴン、ダーバン、モーリシャス、エンタープライズ
・駆逐艦 9隻
と、日本海軍の南方部隊に引けを取らないだけの戦力があった。しかし8日時点ではハーミズ、モーリシャス、エンタープライズは修理中、エクセターは蘭印へ派遣中だった。またダナイー、ドラゴン、ダーバンは第一次大戦時に建造されたD級軽巡で速力が遅く、シンガポールの防御に使用することにした。
結局フィリップス提督が使用可能な戦力は、戦艦・巡戦各1、駆逐艦4という微々たるものだった。
マレー沖海戦、セイロン沖海戦
8日夕刻、フィリップスは上述の使用可能戦力を「Z部隊」と命名して、日本軍のマレー半島侵攻部隊撃滅のために出撃したが、10日に日本海軍・第22航空戦隊による攻撃で「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」が沈没、フィリップスも戦死し壊滅的な損害を被った。
残存部隊のうち、重巡エクセターはABDA艦隊に所属し蘭印防衛戦で奮戦するも戦没、他の艦はインド洋へ撤退した。
1942年3月ジェームズ・ソマーヴィル大将が新司令長官に就任、2月のシンガポール陥落を受けて、インド洋から退くわけにはいかないイギリス海軍も大規模な増援を送った結果、
・軽空母 ハーミズ
・戦艦 ウォースパイト(旗艦)、ロイヤル・ソヴェリン、リヴェンジ、ラミリーズ、レゾリューション
・軽巡 エンタープライズ、エメラルド、ダナエ、ドラゴン、ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク(オランダ海軍)
・駆逐艦 16隻
まで増強された。
しかし4月、日本のインド洋作戦が開始されたとき東洋艦隊の前に姿を現したのは、前年アメリカ太平洋艦隊戦艦部隊を壊滅させた南雲機動部隊だった。イギリス海軍省は戦力保持を優先させるべく東洋艦隊へ東アフリカへの撤退を命令したが、別行動をとっていた軽空母ハーミズ、重巡コーンウォール、ドーセットシャーが航空攻撃によって撃沈されてしまった。
さらに翌5月に行われたヴィシー・フランス領・マダガスカル島奪還作戦に参加するも、日本海軍の特殊潜航艇・甲標的の攻撃で戦艦ラミリーズが大破するなど、少なからぬ損害を被った。
東洋艦隊の反撃
1943年後半から東洋艦隊は再編成並びに増援を受け始めていた。これはイタリアの降伏、さらにドイツ海軍の弱体化によって戦力の余剰が乗じたためでもあった。
1944年4月、スマトラ島への空襲作戦(コックピット作戦)が行われ、それを皮切りに日本の資源地帯である蘭印方面での空襲作戦を開始した。この時期の戦力は
・第69部隊(水上砲戦部隊、司令官・ソマーヴィル大将)
、・戦艦 クイーン・エリザベス(旗艦)、ヴァリアント、リシュリュー(自由フランス海軍)
・軽巡 ニューカッスル、ナイジェリア、セイロン、ガンビア、トロンプ(オランダ海軍)
・駆逐艦 9隻
・第70部隊(空母機動部隊、司令官アーサー・パワー中将)
・巡戦 レナウン
・重巡 ロンドン
・駆逐艦 6隻
となっており、英・米・仏・蘭の連合艦隊となっている。
1944年8月ソマーヴィル提督は退任、後任には本国艦隊司令長官だったブルース・フレーザー大将が着任したが、4か月後の12月に新設されたイギリス太平洋艦隊司令長官へ転出し、後任にはアーサー・パワー中将が着任した。また同時に東洋艦隊も「東インド艦隊」に改称されている。この時期の東インド艦隊の任務はインド洋の通商路の保護と対日反攻を開始したイギリス陸軍の支援が目的となっており、新鋭艦は太平洋艦隊へ異動となり残ったのは旧式戦艦や護衛空母、他国艦を主とした戦力のみとなった。
戦後
戦後は「極東艦隊」と名称を変え、朝鮮戦争や東南アジアの紛争に参加してきたが、イギリスの植民地政策の終焉によりその役割も終える時が来た。
1971年10月31日、極東艦隊は解散しその歴史に幕を下ろした。