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概要編集

1758年9月29日 - 1805年10月21日

英国の海軍軍人。

青色海軍副司令長官、地中海艦隊司令長官を歴任。

戦死時は白色艦隊中将の階級であった。

アメリカ独立戦争に従軍。フランス革命戦争勃発後は各地を転戦した。

1794年カルヴィ攻略戦で右目の視力を失い、1797年テネリフェ島攻略戦で右手を失った。

1798年のアブキール湾海戦では地中海艦隊の分遣隊を率いてフランスのエジプト遠征艦隊を壊滅させている。

相手艦隊の縦列の横腹に対して垂直に二列の自艦隊縦列を突撃させ、敵隊列を突破・分断して包囲する戦法により1805年のトラファルガー海戦で戦闘に勝利するが戦死。


逸話編集

艦隊決戦主義者であり、イギリス海軍の伝統的な「見敵必戦」の精神は彼の影響も大きいと言われる。


1801年の副司令長官として参加したコペンハーゲン海戦では激しい抵抗を見せるデンマーク艦隊にイギリス艦隊司令長官ハイド・パーカーが自艦隊に命じた「戦闘停止」の信号に対して、望遠鏡を失明した方の目に当て「私には見えんな」と戦闘を継続したという逸話がある。(実際は「戦闘停止もやむを得まい」というパーカー提督の信号を各艦に転送しなかっただけとも)


最期の戦いとなったトラファルガー沖海戦では、普通海戦時には提督はその軍装から身分がばれ敵狙撃兵に狙われる為に掃除夫の服装を上から着て変装するが、この海戦の折には旗艦ヴィクトリーを危険な先頭艦にしたにもかかわらずネルソンはそれを拒絶し、海戦のさなか接舷したフランス軍艦ルドゥタブルの狙撃兵に狙撃され戦死した。(エマ・ハミルトンとの不倫などに悩んだ意図的な自殺説もあり)

――というのはあくまでも後になってからつけられた俗説である。

ネルソンが死んだときに着用していた衣服は今でもイギリスの博物館が保存展示しているが、それは特別華美なものではなく、また身に付けていた勲章も軍装用のもの(平たく言えばイミテーションに近い)であった。そもそも提督が掃除夫の服を着て変装するなどと言うことはない

また狙撃というのにも語弊があり、そもそも海の上で不規則に揺れる船の上から別の船に向かって特定の人間を狙撃するということはほぼ不可能に近い。この時代の接近戦で行われた狙撃とは敵艦甲板上の人間なら誰でもいいから撃つ、というものであって、相手が提督だから狙ったというものではない。しいて言えば指揮系統の混乱を狙って士官が集まっているところに向けて撃った、というのはあるかもしれないが、ネルソンがネルソンだったから狙われた、というのは根拠も証拠もなく、また現実的にも難しい話である。まして自殺ということは考えにくい。


戦後の伝記や伝承等でも、たまたま士官っぽいのを狙った後、やたらと賞賛されて初めてネルソンだと気づいた、あるいは英国相手に砲撃戦で勝てないから狙撃や擲弾を使った接舷戦を主体に訓練した、ぐらいの話である。

また、艦長や提督が堂々と甲板を歩き回るのはある意味普通のことであり、同輩で次席将校であったコリングウッド提督も同様にかつ海戦の先陣を切っている。


ロンドンのウエストミンスターにあるトラファルガー沖海戦を記念して建てられたトラファルガー広場にはネルソンの記念碑がある。

またトラファルガー海戦時に搭乗した旗艦『ヴィクトリー』はポーツマスの乾ドックに記念艦として保存されており、航行状態ではないものの「世界最古の現役軍艦」として扱われている(実際に航行可能な軍艦としてはアメリカ海軍の『コンスティチューション』が世界最古)。


海と陸のギャップ編集

海では比類なき活躍をしていたが、陸に上がると、特に私生活ではあまりよろしくない醜聞を晒すことが多かった。


有名なのは友人でもあったハミルトン公使の妻、エマとの不倫である。

エマとハミルトン公使は親どころか祖父並みに年齢差があったこと、元々エマが器量もよく、セレブ界では王族とも友誼を結ぶほどの著名人でもあり、ついには相思相愛で半公的に同居するまでにもなった。


結局のところ、ハミルトン公使は国難ということで最後まで友人であり続け、ネルソンの正妻も別居し続けたが、ネルソンへ愛情を向け続け、ネルソン自身も最後まで離婚まではせずに夫としての最低限の責務は果たしていたので問題が大事になることはなかった。

が、皮肉にも妻の誠実さがエマに対する最大の批判材料となり、エマはネルソンの遺言に反して周囲から無碍に扱われてむなしく病死。

逆に妻は女性の鏡と最後まで賞賛されることとなる。


公務にしても虚栄心が非常に強く、気に入らない相手にはあけすけな態度をとることが多かった。

まだ有名ではないが陸側の英雄といえるウェリントン(ナポレオン戦争での活躍はないがインドにて数々の武勲を立てている)に対して、初見では誰か知らずに無礼な態度を一方的にとり、改めて会った際は180度態度を変えて堂々と議論したといわれ、部下や海軍に関しては親身となって纏め上げた人格者という評価が多いのに、それ以外では逆に性格上の欠点がやたら目立つ。


総じて

「陸に上がらなければ希代の名提督」が彼の一般的評価といえよう。


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