概要
簡単に言ってしまえば、クソゲーが濫造され流入したことでユーザーおよび販売店が同時多発的に興味を失った結果、家庭用ゲーム市場が崩壊した事件である。転じて消費者や小売が「付き合いきれなくなり」市場が衰退する現象をこう呼ぶこともある。
現在では様々な誇張や誤解により、半ば都市伝説的に面白おかしく語られることも多い。
また、崩壊したのはあくまで家庭用ゲーム機の市場であり、それなりにお金もかかる大人やオタク向けの趣味であったPCゲームはそれほど影響を受けていない。寧ろライバルになる家庭用ゲーム機がファミリーコンピュータ登場まで消えたため、ゲーマーがパソコンを所有するようになり、PCゲーム市場は却って拡大したとも言われる。
発端
そもそも「アタリ」とは、ノーラン・ブッシュネルという素人に毛が生えた程度の実業家が立ち上げた会社の名称である。
当時のゲームと言えばピンボールやエレメカなど玩具の延長上にあるような物が主流であり、世間におけるコンピュータゲームの認知度は殆ど皆無に等しかった。
そんな中、アタリ社が片手でプレイできるテニスゲーム『PONG』を開発。各地のパブやショッピングモールに筐体を置くや忽ち爆発的なヒットを起こし、コンピュータゲーム市場をにわかに活気付かせる。
この波に乗ろうと、次々とゲーム業界に参戦する企業が現れる中、ブッシュネルは次なる製品開発のために予算の融資を受けようと考えていた。
しかし先述の通り、当時のゲーム市場は認知度が高いとは言えず、著作権や肖像権と言った業界のルールが未整備だった事も手伝い、
既存の(しかも他社メーカー)製品のプログラムを改変しただけの物が新作ハードやソフトと称して公然と販売されていたり、同じく他社ソフトの中身をそのままコピーしただけの物をラベルだけ貼り替え、資金稼ぎのために地域中の小売店へバラ撒きまくるなどといった、
現在であれば訴訟沙汰どころか刑事事件にまで発展しかねないような無茶な行為や倫理が平然とまかり通っていたのである。
そのため他企業からは「得体の知れないよく分からない稼業(早い話がテキ屋や詐欺の類)では?」などと敬遠され、なかなか融資を受けられずにいた。
しかし、PONGの大ヒットにいち早く目を付け、当時のゲーム市場の覇権を狙おうと目論んだワーナー・コミュニケーションズ(以下、ワーナーと表記)がアタリを買収。これによりアタリはワーナーの連結子会社となる。
ワーナーから多額の融資を獲得したアタリは1977年に、家庭用ゲーム機「AtariVCS(=Video Computer System)」を発売。
これは、現在では珍しくない「一つのハードウェアで他ハード向けのソフトウェアも複数遊べる」という、当時としてはかなり画期的な発明を導入したものだった。(初代や2のソフトも遊べるPS3のような機能の先駆けと言えば分かりやすいか)
だが、この頃にはすでに2600のような据え置きハードや家庭用パソコンが先述したアタリの勝ち馬に乗じようと画策する夥しい数のメーカーから大量に発売されており、当然ユーザーはどれを買えば良いのか分からず混乱。売り上げは伸びなかった。
そして、この辺りから親会社であるワーナー社の上層部と子会社を率いるブッシュネルとの間で方針の違いによる軋轢が生じ始めた。
VCSを一大コンテンツに育てるべく、ユーザーの門戸を広げるため対応ソフトの開発や生産を1本でも多く急がせようとするワーナーに対し、1つのコンテンツに固執するよりもさっさと別の開発を行うべきだと考えていたブッシュネル。
双方の食い違いは深刻化し、やがて会社規模で対立するようになる。
一連の抗争に嫌気がさしたブッシュネルはワーナーから提示された今後5年間ゲーム業界に関わらないと言う条件をのみ、退職金を貰ってアタリを退社する。
さて、創業者なきアタリを擁するワーナーに残されたのは、現在のような経理やリサーチの概念など微塵も無いまま無計画に製造されまくった事で売れ残ったVCSの大量の在庫であったが、そんな最中に奇跡は起こった。
タイトーが開発した日本製のアーケードゲーム『スペースインベーダー』(通称・インベーダーゲーム)がAtariVCS用に移植されたのである。家で手軽にインベーダーゲームが楽しめるとあってAtariVCSは飛ぶように売れ、さらにはソフトの発売日が掻き入れ時でもある年末だった事も拍車をかけ、アタリは4000万ドル分もの在庫を全て相殺する事に成功した。
と、ここまで見れば一件落着かのように見えるかも知れない。
・・・しかし、詳細はおいおい後述していくものの、この時点で、全米を揺るがす異常事態の布石は既に出来上がっていたのである。
栄光
インベーダーゲームのヒットを受け、総合利益の三分の一を占めるまでになったゲーム部門に対し、ワーナーが次に行い始めたのは綱紀の粛正だった。
というのも、先述の通りアタリ社は元々ブッシュネルが個人で立ち上げた小規模な会社であったためPONGの思いがけないヒットを受け人手が足りなくなり、
生産を増加するために数多くの人間を中途採用した経緯があった。
だが、生産を急がせるあまり面接の類をほとんど行う暇がなく、職安にいた人間をそのまま引っ張って来たのはまだマシな方で、会社の前にたまたま通りかかっただけの無関係な一般人はもちろん、果てはブッシュネル個人のいかがわしい知り合いやプログラムのプの字も知らないようなヒッピーもどきなど、良く言えば幅広い、悪く言えば節操なく文字通りあらゆる人材を、ロクに吟味もせずに即採用しまくってしまったのだ。
当然ながらアタリ社内は(ゲーム開発に長けている者もある程度は存在するとはいえ)ならず者や浮浪者の様な人種が大多数を占め、工場内にはマリファナの臭いが立ち込め、大音量でロックが一晩中鳴り響くなど、風紀は荒みに荒み切ってしまっていたのである。
ワーナー側からすれば、そんな者達が、ましてや自社の子会社で働いていようものならば会社の沽券に関わると判断しても不思議ではなかった。
しかし個人経営時代の良くも悪くも自由な社風を求めて反発した一部の社員はアタリを抜け、自分たちの思い通りのソフトを世に生み出そうと新しい会社を設立する。これが現在のアクティビジョン社である。
アクティビジョンは当初、(当時の他の企業と同様)アタリの許可無しにAtariVCS用のソフトを開発していたため、アタリから訴訟を起こされ長く争うこととなる。
そんな折、ライバル会社のコレコ社が1982年にコレコビジョンを開発。AtariVCSを遥かに上回る高性能機だった。更に高い拡張性を備え、AtariVCSの互換ユニットも発売された。ユーザーの需要に応えたコレコビジョンは100万台(一説によると600万台)もの売り上げを記録した。
焦ったアタリ・ワーナー社は発売済みのホビーパソコンATARI800をベースとした新ハードのATARI5200を開発する。これに伴い、AtariVCSはATARI2600に改名する。AtariVCSは発売から5年が経っており性能的に陳腐化していたので、新ハードを発売すること自体は正しい決定だった。だがATARI5200は(ATARI800にもATARI2600にも)互換性が無く、販売は上手くいかなかった。
1982年、アタリ社とアクティビジョン社が長い裁判の末に和解。アクティビジョン社がアタリ対応のゲームを開発・販売する際にはアタリ社へロイヤリティを支払う、ということを条件に双方の合意が成された。
ちなみにこの一件が、これまた現在では当たり前になっているサードパーティーと言う概念が生まれた瞬間であった。
しかし、これは同時に、それまでグレーゾーンであった「他社ハード用のソフトのみを作って売り払う行為」が(みかじめさえ支払えば)法的に認められた事を意味する出来事でもあった。
この流れを受けて、アタリ社にソフトのみを提供して利ザヤを稼ごうとするサードパーティーが続出。
アタリ社も「ロイヤリティさえ得られればそれで良い」と言わんばかりに次々とサードパーティのソフトを承認していった。
このアタリ社のスタンスは、目の前の一時的な利益こそ上げられるものの、裏を返せば「売れさえすれば内容は二の次でも構わない」と取られてもおかしくない姿勢である。
そして、いつの時代も販売する側の思惑や打算に気がつかないほど顧客も愚かでは無い。
ここへ来て、ゲーム史上最悪の大事件へと繋がる最後の布石がいよいよ敷かれたのである・・・。
崩壊
ライバルのコレコ社を大きく引き離し、ゲーム業界の覇者として君臨し続けるアタリ。
だが業界の黎明期にありがちな事とはいえ、その実態は後年から見ると杜撰そのものであった。
1981年、絶好調でハードの生産が追いつかないアタリ社は、ソフトやハードの各販売代理店に対し、よりによって翌年分の一括発注を求めてしまう。
(分かりやすく言うならば、
「どうせ爆売れするんだし、売り切れる度にイチイチ店先と連絡して卸すのも面倒臭いから、前もって多めに並べさせとけば楽じゃね?」
という、今の我々から見れば大手ゆえの奢りとも取れるとんでもない行動ではあるが、そんな無茶がまかり通るほど当時のアタリ社は飛ぶ鳥を落とす勢いであった証拠でもある。)
売れ筋ハードのアタリが品切れになることを恐れた代理店はその要請に応えて大量の水増し発注を行い、
アタリ社も店先からの多めの発注を鵜呑みにして、ソフト・ハードともに例年以上の生産を行ったのである。
この注文の殆どがキャンセルされ、気が遠くなるような在庫の山と化すことも知らずに……。
翌1982年、崩壊の引き金を引いたのは、皮肉にもアタリ社自身が販売した2つのビッグタイトルであった。
一つは、1980年にナムコが開発したアーケードゲーム『パックマン』。アメリカに輸入され大ヒット(のちにギネスブックにまで載った)した事に味を占め、アタリはナムコから直々にライセンスを得た上でアタリ2600に移植。82年に発売したのだが、これが後に詐欺パックマンとも呼ばれるドが100個ついても足りないほどの劣化移植であった上、
「ACのパックマンを家で遊べる」と期待したユーザーが多数いた事から飛ぶように売れてしまい、ユーザーにとってはタイトル詐欺も良い所であり、引いてはアタリ向けのソフトやハードそのものが「剥き出しの地雷」と見なされてしまった。
更にアタリ社は、当時のATARI2600の出荷台数1000万台を上回る1200万本もの「パックマン」を製造するという血迷った行動もやらかしていたという。
と言うのも、ATARI2600が大ヒットしたは良いのだが、その結果、市場からの2600の需要が生産ペースを大きく上回ってしまい(コレコ等から当初権利無視で発売されていた互換機を最終的に認めたのも、アタリだけでは市場を支えられなくなっていた事が一因である)、
それを受けたアタリ社では、その莫大な発注に対して1未満をかけた割当制度を取るようになっていたのである。
つまり、流通業者からその末端のいわゆる販売店では、売れまくる事を見越して実際に予期された数よりも水増しした数を発注をするのが常態化していたのである。
その上さらなる問題として挙げられるのは、他ならぬアタリ社自身がその現状を把握していなかった事である。
水増し発注されているなどとは夢にも思わないアタリ社は、供給不足を改善するために1年スパンの長期事前集約発注制度なるものを導入したのだが、これに対して販売店は先述のような水増し発注を81年末に合わせて例年どおりかけてしまったのである。
日本でもこのような現象はしばしば起きるが(例:『アイドルマスターDS』)、この頃においてはアメリカはおろか日本でも「商品そのものが売れずとも、IP(Image Product)を固定化できれば(すなわち商品の印象や存在感を根付かせ、ネームバリューや知名度を安定させることが出来れば)半分は成功したも同然」という考え方など存在していなかったため、
過剰発注はそのまま大量の負債へと一気に姿を変えてしまったのである(IPが固定化されて人気シリーズともなれば、後々再出荷や次世代機へのリメイク・移植といった需要も生まれるため、長い目で見れば充分コストを回収できる可能性がある)。
この状況で、伝説のクソゲーとして名高い『E.T. The Extra-Terrestrial』が登場することになる。
このソフト、クリスマス商戦に合わせるためになんと6週間という超短期間で開発されたシロモノであるにもかかわらず、バカ売れを確信していたアタリ社とワーナーは、版権元のユニバーサル・ピクチャーズに多額のライセンス料を支払って製作。出荷数400万本の内、90%程が売れるだろうなどと見込み、業績などの成長率が50%にもなると予測していたようである。
……取らぬ狸の皮算用とは、このことである。
発売された当初こそネームバリューも手伝って出荷数400万本中150万本ほどの売上を記録したものの、そんな短期製作で良作が生まれる訳も無く、パックマンに続いて伝説級のクソゲーを掴まされてしまったユーザーのゲーム離れは凄まじい規模となり、小売業者からは返品はもちろんアタリ社との受発注契約解除の嵐が続出した(当然、400万本の出荷分とライセンス料も回収できず大赤字であった)。
更に、増えに増え過ぎた劣悪なサードパーティーもユーザーのゲーム離れに追い打ちをかける。
殆どの会社が大したノウハウ無しでいきなりゲーム市場に飛び込んだため(一時は食品会社やペットフードメーカーまでもがサードパーティーにあったという)、市場は粗製濫造されたクソゲーで溢れ返り、アタリショック前後の市場には、他社のゲームの丸パクリやそもそも起動すらしない不良品はおろか、カートリッジを挿してスイッチを入れただけでハード本体がショートを起こし故障する代物まで横行する始末であったとされる。
おまけに当時はインターネットはおろかゲーム雑誌の内容すら今以上に未発達かつ製造元への忖度丸出しで、ユーザーは買って実際に本体にソフトを挿すまでそのソフトが本当に良いソフトなのかが分からず、それらも購買欲を下げる原因となった。
そして、これらの要因すべてが複雑に重なった事で、劣悪なサードパーティーをホイホイ承認して市場にクソゲーを蔓延させたアタリの権威はとうとう地に落ちた。
また、同82年の夏にはコモドール社がゲーム機能を備えたパソコン「コモドール64」を発売。当然ながらATARI2600よりも高性能なうえ、当時としては性能に比した低価格でゲーム機の流通ルートに乗っかり、据え置きゲーム機の需要を食い始めていた。
その一方で前述のコレコビジョンに加え、マテル社の「インテレビジョン」やエマーソン社の「アルカディア」など様々なゲーム機が市場に溢れ、ゲーム機・ゲームソフトとも供給が過剰になっていた。
もっとも、アタリにも危機感が無かったわけではない。失敗が明らかなATARI5200の代替品を他社ライセンスで補うことを考え、ATARI2600と同じモステクノロジー製CPU搭載で、なおかつATARIとはすぐには食い合わないビデオゲーム機を比較検討していた。
一方その頃の日本では、国内各社から販売され始めた各社による黎明期の家庭用ゲーム機がシェアを争っていた頃であり、中でも高い知名度と人気を誇っていたのが任天堂ファミリーコンピュータであった。
アタリはATARI5200の代替機として日本国内で人気の高いファミコンを市場に供給することを決め、任天堂との交渉に入ったが、アタリの能力やモラリズムを疑問視していた任天堂はハード及びソフトの製造を日本国内に限るという条件を提示し、交渉は難航した(もっとも、任天堂が当時のアタリ社や米ゲーム市場の状況を知っていたとすれば当たり前の対応とも取れる)。
そして……
“突然死”
1982年の冬から1983年にかけて、散々クソゲーを掴まされたユーザー達、売り手である問屋や小売は、ビデオゲームそのものを警戒するようになって久しく、大規模な「買い控え」の状態に陥った。
それまでの勢いが嘘だったかのように、ゲームというゲームがごく一部を除き全く売れなくなったのである。
市場は急速に冷え込み、意欲のあるゲーム会社がどんな良作を作っても、クソゲーの山の中に埋もれてしまうという負の連鎖が始まった。
この流れを読めなかった多くの業者が倒産し、それによって市場に流れた不良在庫で各社がワゴンセールを開始。小売店は在庫を処分するため新製品を仕入れる余裕を無くし、商品の流通が完全に焦げ付く状況となった。
株式市場に与えた影響も大きく、栄華を誇っていたワーナーとアタリの天下はここに崩れ落ちたのである。
同じ時期、コレコはコレコビジョンの事業は好調だったものの、8bitホビーパソコン「Adam」がIBMの新型機発表にマトモにかち合い、更に酷い初期不良を発生させたことで約3000万ドルの損失を出してしまい、Chapter11(連邦倒産法第11章・日本の会社更生法に相当)申請目前まで追い込まれたことにより、コレコビジョンの周辺機器や自社ソフトを供給するための資金を用意できず、惰性で販売を続けた後、1984年に製造終了するという事態になった。
この2大メーカーの衰退により市場全体がますます縮小、他企業もビデオゲーム市場から撤退し、多くの中小企業は投資を回収できずに倒産を強いられ、大手サードパーティーも相当数が倒産に追い込まれた。一方、アクティビジョン社はパソコン用ゲーム市場にも進出していたことから、どうにか倒産は免れた。
また、既にトイ&ホビーベンダーによる死闘でアメリカに先んじて熟成の段階にあった日本市場だが、当時はまだ為替レートが1US$≒¥200~240をウロウロしている時代だったため、任天堂と闘うにもアメリカの既存ハードを買うより国内独自開発に踏み切った方がローコストであったため、これらの資産を日本企業に切り売りすることもできなかった。
これらの事情により、アタリと任天堂の交渉も無に帰した。
こうして米国の家庭用ゲーム市場は崩壊、というより“突然死”を迎えた。83年こそ何とか踏みとどまっていたものの、84年には市場全体が82年の三分の一を割り込み、85年に至っては市場がゼロ同然となる凄まじい有り様であった。
この頃はゲーム&ウォッチのような携帯ゲーム機の登場や家庭用コンピューターの低価格化が進んでおり、特に家庭用コンピューターにおける82年末期の業界の盟主ともいえるコモドール64は既存ゲーム機以上の高性能を誇りつつもVCSよりも低価格と美味しい所だらけだった。
そのため大人やお金持ちのオタク向けだったコモドールが当時の中流家庭にも流通し、クソゲーだらけの家庭用ゲームを買う理由が無くなったのだった。
更にはアタリやコレコでは上手く実現が出来なかったRPG(日本ではADVとして分けられるカテゴリーも、北米ではRPGに含まれる)が家庭用コンピューターにも現れ、
安価な機器で長く遊べるクオリティの高いゲームができる、というユーザー心に叶うものだったことも家庭用ゲーム衰退に拍車をかけた(今で言う本格的なRPGがビデオゲーム機で初めて実現したのは、1985年日本発売のファミコン版『ポートピア連続殺人事件』が嚆矢だと言われている)。
もっとも、その家庭用コンピュータも長い栄華を誇ることはできなかった。規格が濫立して一時期のビデオゲーム機と同様の混乱を起こした後、日本市場においてNECが本来ハイエンドレンジにいるはずの高性能機に16色カラー表示とFM音源を搭載して、アメリカの家庭用コンピュータに当たるホビーパソコンを残らず駆逐する(余力で自社のPC-8801シリーズをも葬ってしまったが)様を目の当たりにした結果、資本が家庭用コンピューターメーカーから逃げ出し、技術面でNECと正面切って戦えるIBMとその互換機のメーカーやAppleに集中したため、死屍累々を晒すことになる。
ワーナーはアタリの経営再建を試みるが、紆余曲折を経て最終的には家庭用ゲーム・パソコン部門を「アタリコープ」に、アーケードゲーム部門を「アタリゲームズ」に会社分割し、1985年には経営権を手放すことになる。
こうしてアーケードゲームやパソコン用ゲーム市場にお株が回った一方で、家庭用ゲーム業界には長い氷河期時代が訪れることになるのだった。
雪解け
VCS改めATARI2600がアタリショックを引き起こした大きな要因の1つなのは事実であるが、氷河期を経て再びゲームが市場に返り咲く地ならしを担ったのもまたATARI2600だった。
ビデオゲームを買い渋ったユーザーがパソコンに逃げたことからも分かるように、当時のアメリカにおけるビデオゲーム機のイメージは、どちらかといえば中高生以上の好事家に向けたアダルトホビーという認識だった。
しかしアタリショックを経て店頭価格が一気に下がったことで、より低年齢層の子供たちがお小遣い程度で買える身近な玩具と化し、その結果、日本などと同じく大人も子供も楽しめるファミリー向けホビーとしての需要が高まっていくことになる。
1985年、プラザ合意により円ドルレートが一気に1US$≒¥100~130まで暴騰。これは自国製品の輸出には不利な状況である反面、米国外の企業にとっては北米において融資が受けやすくなり、日本企業の北米進出を加速させていく大きなきっかけとなった。
これ以前にNintendo of America(NOA)を既に設立していた任天堂は自力での北米進出を試みるが、アタリショックの顛末とそれによる氷河期を目の当たりにした事で、「日本用のファミコンをそのまま輸出してもヒットさせるのは難しい」と考え、ゲーム機ではなくパソコンとして家電流通に乗せるため、キーボードや外部補助記憶装置を持ったホビーパソコンという体で「AVS(Advanced Video System)」を発表した。
ところが、いざ発表した直後には市場では総スカンを食ってしまう。この頃になると既にユーザーや流通業界は、価格の割には大した性能も無く互換性も無いホビーパソコンにも飽き飽きし始めていたのだ。
更には、以前から「アメリカ製ホビーパソコンをシャットアウトし続けている日本から『国民を魅力している大ヒットビデオゲーム機』が上陸するらしい」などといったハードル上げ上げの前評判がメディアなどで流れていた事も相まって、北米ユーザーの目には大きな期待を裏切られてしまったようにも映ったのだ。
但し、AVSの開発費用は日本国内で取り返している(ファミリーベーシック)。
その一方で、任天堂も何とかホビー流通でファミコンを輸出できないかと苦心していた。その結果、ロボットや光線銃型コントローラをバンドルして「これはゲームコンソールではなく、新たなエンターテイメントのためのトータルシステムだ」との売り文句で流通業界を説得し、北米版ファミコンこと「NES(Nintendo Entertainment System)」は無事発売にこぎつけた。
このNESによって凍りついていた北米ビデオゲーム市場は雪解けを迎え、息を吹き返していく。
後日談
北米ビデオゲーム市場はMicrosoftがXBOXで市場参入する2001年までの約15年間に亘り、日本企業の独壇場(もしくは、任天堂とセガとソニーの戦争状態)となった。結局XBOXも発売当時こそ前評判ほどのシェアは得られず、やはりゲームの中心は日本であると誰もが信じて疑わなかった。
しかし2000年代後半にアタリを退職した男が作ったスマートフォンが世界を席巻、その後はゲーム市場にモバイルゲームが君臨し、「メジャーなゲーム機はスマートフォンである」と言われるまでに家庭用ゲームのシェアは衰退した。
また海外でのPCゲーム流行に対し、日本はCS機の席巻によってPCゲームの開発ノウハウが数十年分損なわれており、気づいた頃には手遅れの状況だった。
ただし、日本的なキャラデザインは世界に拡散してむしろ増加しており、PC・モバイルとの住み分けを図ったNintendo Switchも好調な売上をみせている。
ビデオゲームの墓場
「クソゲー」の項目にもひっそりと記述されているが、アタリショックに纏わる一連の出来事のインパクトが余りにも強すぎるせいか、売れ残りの『E.T. The Extra-Terrestrial』が350万本ほどコンクリート詰めにされて(もしくは裸のまま)ニューメキシコ州の何処かの砂漠地帯に埋められたという都市伝説がまことしやかに語られていた。
アタリショック前後から既にゲームの墓場の噂は存在していたようではあるが、「ゲームを買う金のない子供達が【ビデオゲームの墓場】から【Atari2600】を夜な夜な盗掘して持ち出している」「不良在庫が余りに多かったため砂漠にも埋めきれず、残りは工事や建築現場のセメント原料として溶かされ再利用されたらしい」などといった、あくまでネタ混じりの伝聞の域を出なかった。
当時の『E.T. The Extra-Terrestrial』のプログラマーもこの噂について質問された際に頑なに否定し、「(この都市伝説は)かつてのゲーム業界の悲惨な出来事を今に伝える教訓じみたメッセージだ」という認識を述べるに留まっていた。
……ところが、近年の発掘調査によって、なんとこの都市伝説が嘘ではなかった事が証明されることとなった。
事の発端は、この都市伝説にまつわるドキュメンタリー番組を制作するのための発掘調査であった。その様子は一般公開されて注目を集めていたが、噂自体が眉唾ものだった事もあり「本当に発掘される訳がないだろう」と誰しもが期待などしておらず、撮影スタッフ達も「発掘作業を行うのも、あくまで番組に箔をつけるための誇張じみた演出」程度の認識であったという。
しかし2014年4月26日に開始されたこの発掘作業中に、噂やジョークの種でしかなかったはずの夥しい量の『E.T.』ソフトが本当に発見されてしまったのである(埋められていたゲームの本数には誇張があり、実際に埋められたのは72.8万本だったことが判明した)。
都市伝説が真実であったことが証明されたこの出来事は、当然ながら米国内外のゲーマーの間で大きな話題となった。なお、発掘作業から発見までの一部始終は「Atari:Game Over」のタイトルでドキュメンタリー映画化されている。
余談
- この事件を世界で最初に「アタリショック」と呼称したのは米トイザらス副社長を務めたハワード・ムーア役員である。1990年の『日経エレクトロニクス』における同氏に対する取材記事の中にこの言葉が登場し、以後日本ではこの呼称が定着した。
- 海外ゲーマーの間でも、この事件は「Atari Crash」と呼ばれることがある。
- アタリ2600は日本で発売する際に筐体のデザインやコントローラーの形状を変更したため、アタリ2800と商品名を変更された上で販売された(ちなみに「Atari 2700」というハードウェアも開発はされていたもののお蔵入りとなっている)。
- ブッシュネル時代のATARI社に籍を置いており『ポン』の制作にも携わった初期メンバーの中には、後にアップル社を立ち上げるスティーブ・ジョブズもいた。
- 先述した通り、アタリショックが起きた時期はそのまま家庭用パソコン(マイコン)が普及していった時期とも重なっているが、このアタリショックこそがアメリカにおいてこの種のマイコン、特にヨーロッパや日本製のものが定着しなかった一因とも見なされている。
- 後に任天堂の社長はこの事件について、「サードパーティによる低品質ゲームソフトの乱発がアタリの市場崩壊を招いた」(山内溥)、「粗悪なソフトが粗製濫造されたことで、お客さんからの信頼を失ってしまった」(岩田聡)とそれぞれ分析している。
- 後年の経済学者達によると、「アタリショックという事件自体が経済学的に曖昧」で、「クソゲーの乱発が直接アタリショックの引き金になったのか否は証明できない」らしい。
現在では「そもそもアタリ2600のヒットは(規模こそ巨大ではあったが)『スペースインベーダー』の移植に伴って突然現れたあくまで一過性のブームであり、それを目当てにアタリ2600を買った大多数ユーザーは当然ながら他のゲームに対しては興味を持たなかったために、需要と供給のバランスが崩れ必然的にバブルが弾けただけ」という考えを持つ識者も多い。
(つまり、ユーザーがアタリ社製のゲーム(引いてはビデオゲームそのもの)から一気に離れたのは『スペースインベーダー』の大規模なブームが沈静化した事が要因であり、上記してきた無計画なソフト・ハードの増産やサードパーティによるクソゲーの乱発は、あくまでブームの終焉に拍車を掛けたに過ぎないという見方である。)
- とはいえ、大量のクソゲーがユーザーおよび売り手を苦しめたことは紛れもない事実であり、北米に進出した任天堂はファミコンの発売時にアタリの二の舞とならないようサードパーティーの管理を徹底するルールなどの整備を急いだという(なお、「管理徹底のために『アタリショック』自体を任天堂がでっち上げた」という奇説もあるが、アタリショックという出来事はもちろん、それをあらわす言葉自体もファミコンの登場以前から存在していたため、ただの眉唾話やガセの類と見るのが妥当であろう)。
- なお、この当時アメリカではゲーム&ウォッチなどの「電子ゲーム」は引き続き売れていたとされる。
- 勘違いしてはならないのは「アタリの出すゲームがクソゲーだらけ」だったわけではなく、前述したとおり、ゲームそのものの供給過剰とサードパーティーの劣悪さ、そしてアメリカ経済界の良すぎる引き際(日本でもアタリショック再現の兆しが見えることはあったが、日本企業特にここの往生際の悪さが市場の“突然死”を防いでいる)の合わせ技によって、このショックが引き起こされたという事である。
- 当時も「ゲームを評価するメディア」は存在していた。
- この事件によるゲームソフトの管理強化は次第にエスカレートし、表現規制問題の遠因となっている。