「過去から現在まで、ソフトが主、ハードが従のゲームビジネスの基本はこれからも変わらない。ソフト開発者が、大ヒットした昔の「ファミリーコンピュータ」用ソフトも参考にし、進化したハードの上で、誰でも簡単に楽しめるソフトを開発していけるかが、今後の業界の成長のために重要になると思う。」山内溥
※『ファミリーコンピュータ1983-1994』(太田出版 2003年)より
概要
山内家の家業であり老舗の花札製造会社であった任天堂を、一代で世界のNintendoに発展させた人物。ファンからは「組長」という通称で親しまれる。
組長の呼び名の由来は「そっちの筋の人ですか?」とツッコみたくなるようなコワモテと、豪気かつ歯に衣着せない言動の数々から。特に若い頃は晩年など目ではない程に極道じみた外見をしていた。
彼の後継者となった岩田聡ですら、生前、山内の「うちはケンカしたら弱いんや」という発言を取り上げて「あの強そうな人が(そんなことを言う)ですよ!」と続けている。
ちなみに、そんなおっかない外見と京都訛りの独特な口調に反して、声はちょっと高めのハスキーボイスである。
青年期
若い頃は、二代目社長にして祖父の山内積良から貰った金で東京の大学へ進学。しかし真面目に勉強はせず、友人と遊び呆ける毎日を送っていた。つまり、この頃は金持ちのボンボンといった生活であったが、育ての親である祖父が突然病に倒れてしまう。しかも当時、自身の父は浮気の末に家を出奔していたため、すぐに家督を継げる人間がいなかった。よって山内溥は弱冠22歳にして次期社長として選出される。この時、「一族を(要職に)入れるな」と条件を出した上で家督を受け継いだが、激しい労働争議が起こり体を壊しかける程の対立が起こったという。
前述の振る舞いからか社員達からの反応は悪く、早くも「この会社は終わったな」と諦めムードであった。元々そこまで乗り気でなかった山内だったが、この周囲の態度に腹を立ててむしろ奮起したという。
その後、借金までして立てた工場で生産した「プラスチックトランプ」で成功を収める。そして日本初のキャラクターグッズ(ディズニートランプ)を製造してこれもまた成功すると、その後もヒット商品を輩出していく。ちなみにこのことがトランプを一般家庭に普及させる一つのキッカケとなっている。多大な実績を上げたことから、経営陣は山内をバカにできなくなった。
経営者としての挫折と再起
海外のカード製造業の最大手『U.Sプレイング・カード社』を視察した際、山内はその小さなオフィスを見て愕然とした。そしてカード製造業がいかに小さな市場であるかを思い知らされた山内は、会社の未来を考えて多角経営に舵を切る。タクシー、食品会社等に手を出すもノウハウがなかったためごく一部の小さな成功を除いてほとんどで失敗する。このため任天堂の経営は大きく傾いてしまう。
これで終わったと山内すら諦めかけていた矢先、社員の横井軍平が暇潰しで作っていた玩具に着目。それからは玩具メーカーとして立ち返り、老若男女を問わず様々な玩具の開発を指示。その独創的なアイテムは人気を博した。
しかしどれもロングセラーとは行かず、やがてアーケードゲーム方面にも手を出すようになる。大衆向けのゲーム場(レーザークレー射撃場)の展開にも力を入れ、注文が殺到。これで負債をチャラにできると目論んでいたが、オイルショックにより機材のキャンセルが多発。見込んでいた利益が全てパーになった任天堂は再び経営危機に陥る。
万事休すかと思われたが、その後インベーダーゲームの流行に活路を見出す。山内は「インベーダーゲームは遠くない未来に間違いなく飽きられて廃れるが、ビデオゲームというジャンルの時代は来る」と直感し、横井の提案から着想を得たゲーム&ウォッチの開発を推進。その後業務用ゲーム業界からは完全撤退し、「ゲームセンターのゲームを家庭で遊べるようにする据え置きゲーム」の開発に舵を切った。
ちなみに多角経営時期に「任天堂(山内)はラブホテルも経営していた」というエピソードが語られる事が多い。が、実際は先述のタクシー会社が任天堂から独立した後、その会社が運営していたのが真相だという。
ちなみに鍵屋町正面通にある旧山内任天堂本社が2022年に高級ホテルとして増築改装された「丸福樓」として任天堂由来のホテルとして開業した。
貴重な歴史的建造物であり、かつて山内家の住居もここに併設されていた事から創業家である山内家のプロデュースによる任天堂の歴史と原点を盛り込んだ「ライブラリーdNa」がある。
経営者としての才能
山内が経営者として大成したのはその人を見出す慧眼と時勢や顧客の求めるものを正確に読み取る感覚、しかも基本的には直感であったという。横井軍平や宮本茂といった一目ではわからない天才や秀才を然るべきポストにつけ、才能を開花させてきたのは有名な話。HAL研究所時代の岩田聡に経営者としての才能を見出し、HAL研再生の旗振り役として見出すなど、その経営手腕と人を見る目はかなり正確であった。
会社のトップとして大切な「決断力」には特に長けており、娯楽を扱う社長としての「勘」が非常に鋭かった。当時大ヒットを飛ばしていたはずの『ゲーム&ウォッチ』がまだまだ売れ行きが安定していた時期に「先が見えた」と見切りを付け、社内で暇を持て余していた上村雅之に直接Family Computer開発の指令を出す(しかも無茶な条件付き)と言った動きはまさに遠い未来を見据えた動きであった。
ポケットモンスターについても触れた事もなければ内容を殆ど知らないにもかかわらず、「ポケットモンスター 赤・緑」を早急に海外展開するようにと鶴の一声を出したという。当時のゲームフリークは「ポケットモンスター 金・銀」の制作も同時進行しており、流石に両方は難しいとしていたが、両方とも急げという無茶振りであった(結果的に海外展開に関しては、当時のHAL研究所の岩田社長が中心となって行った)。その判断の結果は、今日のポケモンを見ていれば一目瞭然である。ただし、後述の語録を参照してもらうとしてポケモンの大ヒット(メディアミックス等)の急成長そのものにはかなり冷静な観点で捉えていた。
その経営手法は良くも悪くもワンマン的なものであったが、先のように社長を引き受ける際の条件が「同族を要職から外せ」であった事に代表されるように、後述するような独自の経営哲学を持ち主でもあった。よって老舗企業にありがちな社内の権力者同士の足の引っ張り合いや一族間での骨肉の争いとは無縁の社長人生であった。
カリスマ性にも優れ、強面に見合った怖い部分もあった人物でありながら、社員からはとても慕われていた。さらに仕事中は滅多に笑わないことから、「社長を喜ばせたい(笑顔にしたい)から頑張ってる」という発言を残す社員もいたほどであった。社長引退の際は長年の功績と感謝を込めて多額の退職金を提示されたこともある。ただこれについては、山内自身が「社業に使え」と固辞した。
経営者としてはマスコミ等の周囲から大いに持て囃された。しかし山内自身は奢りを良しとせず、全ては「運が良かったからだ」と切り捨てている。ファミコンに手を出したのも「他に出すものがなかったからだ」と語るほどである。アーケードやファミコンなどの電子ゲーム事業に舵を切ったのも、元々やっていたトランプや花札、その他の遊具や玩具が一年もしないうちに廃れていくのを見ていた経験からだと語っている。
顧客は常に新しいものを求めるからだというのが、これまで山内が送ってきた経営者人生で得た持論であり、これを曲げることは一切なかった。
このため、基本的にゲームの続編というのは好まず、可能な限りまったく新しいゲームを生み出せることこそ理想としていた。時を経るに連れてヒットするゲームの商品数は分母に対してどんどん減っていったが、山内はそのことを読んだ発言もしている。バーチャルボーイなどの意欲的な商品に対し好意的な反応を示していたのもそのためであろう。
引退前後
92年には日本企業として初めてシアトル・マリナーズを買収し、同球団の共同オーナーを務めていたこともあった。佐々木主浩やイチローなど日本人選手の獲得にも尽力したと言われており、またこれら日本人選手と山内との親交も深かったという。佐々木がマリナーズに入団した際には「大リーグのピカチュウになってほしい」とのコメントを残している。
ただし、球団経営には口出ししておらず、マリナーズの試合を観戦したことは1度も無かったという。
ポケモンに関しては、そちらが世界的コンテンツにのし上がるにつれて、「ポケモンはできすぎてるから、任天堂は距離を置いた方が良い」と信頼し、ポケモン関連企業に扱いを一任するに至った。
2002年には後釜に岩田聡を指名して社長業から引退。以後、相談役を務めていた。その後社業にはほとんど携わっていないが、DSの二画面構造や、3DSの3D機能は山内の発想や長年の思いが起点となって誕生している。
その他
ちなみに「マリオアーティストタレントスタジオ」のサンプルとして社長のご挨拶が収録されているが、視聴者から組長挨拶のタグをつけられてしまった。(ちなみに首を動かす際の効果音は『グギリッボギリッ』とかなり荒々しい物になっている。だ、大丈夫なのだろうか…)
なお、ゲーム会社の社長でありながら、あまりテレビゲームはプレイせず、ゲームについてもたいして詳しくはなかった(先述の組長挨拶も最後に「これどんなソフトやったかな?」と爆弾発言をかましており、ドリフ染みた音楽で締められている)。ただ、テレビのインタビュー等において、ファミコンを遊ぶ風景が撮影されたり、スーパーマリオ64を楽しそうにプレイしている映像などは残されている。
このことから山内の直感はいわば門外漢の視点だったが、次期社長の岩田は「私の仕事は山内さんの直感を理論的に伝えることです」と語ったこともあり、門外漢でありながら「娯楽」というジャンルについては非常に卓越した判断力を有していたと言っていいだろう。
ちなみに生涯に渡り、自社の「任天堂」という社名の由来を創業一族でありながら全く知らないままの生涯だった。
それ故に様々な解釈があったが、山内溥は「運を天に任せる」という解釈を支持している(後述)。
その独自の経営哲学は人に理解されづらく、またインタビューをあまり好まなかった(しかしTVの取材等にはしばしば応じている)ためか、ゲームの歴史を語るうえで山内の名前は出ても、山内個人を題材とした本などはほとんど出ていない。後継の岩田が化け物じみた伝説を多く遺しているため影に隠れることも多いが、山内の経営センスはある意味それに輪をかけて卓越していたことはより知られるべきであろう。
死去
2013年9月19日、肺炎のため死去。山内が個人的に資金援助した「京都大学医学部附属病院」で最期を迎えた。85歳没。任天堂はこれを受けて社葬を行い、弔事は岩田聡が読んだ。だが、その岩田も僅か2年で後を追うように没するとは、流石の組長も読めなかったであろう。
『彼の記念碑を見たければ、周りを見渡してみるといい。それは、そこにあるだろうから』
(海外のゲームサイトにおける彼の訃報に対するコメントより)
山内哲学、山内イズム
- 失意泰然、得意冷然
座右の銘ではないが大切にしている言葉とのこと。意味は何をやっても上手くいかない時は焦らずゆったりと、上手く言っている時は奢らず淡々とするべきということ。もっとざっくり言えば「常に平常心を保つ」ということである。先の愛人と駆け落ちした父の座右の銘である。この言葉を知ったのは父が死去した際、駆け落ちした愛人サイドから父の形見と一緒に送られてきた「父の好きな言葉」であった。父のことを大いに嫌っていた山内だがこの言葉だけは相当しっくり来たようである。糸井重里も後に「山内さんがよく言ってた言葉」として上げており、宮本もこれが任天堂の理念にも関わっていることに触れていた。
- 他社と無闇に競合しない(ケンカをしない)
山内は同業他社との競合、迎合、追従を嫌った。「うちはケンカには弱い」という意識から、それらとは異なる新しい娯楽を常に求め続けていた。ゲームキューブにFFシリーズを出すとなった際も「これまでにない新しい『FF』をゲームキューブでやれないか?」と要望を出していたという。下記の「パテントはない」発言と矛盾しているようにも見えるが、着想を得た物は多くあれどそのまま完全にコピーした作品はほぼない。スペースフィーバーですら独自性の強いアレンジが加えられて発表されている。
- アンチ『重厚長大』
当時、大容量・低価格の光ディスクを徹底的に嫌っていたことで知られる。結局、山内の在任中にゲームキューブが発売されたことでこの意思には反することになるものの、それでもユーザーのことを考慮して8センチのディスクを用いて他社との差別化を図りつつ利便性の維持(ロードが早いという利点がある)に努めた。「映像が綺麗でもゲームがつまらなければ意味がない」は山内がしばしば口にしていた言葉である。
- 漫然と同じことを続ければ客は飽きる
玩具メーカーとして成長していた時、どんなに面白い玩具を作っても一年前後で飽きられて売上が伸びなくなっていた経験からくる考え。よって基本的に山内はナンバリングタイトルやシリーズものを好まなかった。そしてシリーズものにも、常に新しいゲーム性や新体験を求め続けた。「今までにない全く新しい○○」は、山内が自社の製品をアピールする際にしばしば用いていたフレーズである。
「ユーザーはゲームに飽きたから遊ぶのをやめたのでなく、ソフトがつまらないから遊ぶのをやめたのである」という発言をインタビューで残してもいる。
この精神は現在の任天堂にも色濃く残っており、特に次代の岩田は「非常識な選択をすることこそが任天堂という会社のありようである」とまで語る程だった。2020年代前後には自社シリーズで長年続けた「これまでのあたりまえ」を打破するような試みを採り入れた作品も出てきている(例:ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド等)。
- 異業種には手を出すな
次代の岩田聡にも説いたとされる、山内が考えるある意味最大の悪手。自身が家業の未来を危ぶんで多角経営を始め、会社を傾けた経験から、遊具メーカーは自身の家業としっかり向き合っていくべきだと考えている。下記の通り旧知の仲が異業種に手を出していることに呆れる場面も。ただし、娯楽産業に関しては自社直々とまではいかないものの別の娯楽分野に長けた企業と手を組んだ事業(プロジェクト)はある。
山内語録
・遊び方にパテント(特許)はないわけです |
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「遊び方にパテント(特許)はないわけです。したがってですね、コピーをしようという気持ちがあればね、一定の時間があればコピーできるわけです。しかもそれに対してですね、適切な手が果たしてあるかと申しますとないわけです。要はですね、そういう考え方を捨てて、これからのアミューズメント業界の発展のためにはですね、むしろ相互にそういうソフトをね、もう公開して、そしてこの新しい、しかも巨大な、そしておそらく衰えることない、つまりインベーダーは衰えても、マイコンを軸にした遊びは栄えていく。これらのものを発展させていくために、当然その秘密とかなんだとかいう考え方を捨ててね、そしてお互いの開発した、そういう優れたものを交流していくと。そういうことが望ましいんであるわけですね。」
今でこそ著作権に厳しい会社として知られている任天堂だが、1970年代にはタイトーの大ヒット作「スペースインベーダー」のコピーゲームを堂々と出していた。その時の発言。
いろいろとネタにされたり批判的に取り上げられたりしやすい発言であるが、ビデオゲーム黎明期、花札・トランプメーカーの意識が色濃い時期の発言であることに注意を要する。
おもちゃのデザインに著作権はあっても、おもちゃの「遊び方」にはもちろん著作権は存在しない。ビデオゲームの著作権に対する概念や意識が業界全体に渡ってまだまだ希薄な頃の話であり、遊び方の共有、オープンソース化を主張した発言であった。
しかし、80年代に入って自社製の大ヒット作「ドンキーコング」にコピーゲームが作られた後に厳しくのぞむようになり、「テレビゲームの著作権」のあり方について方針を変えることとなる。
昨今の著作権に厳しい同社の姿勢を語る上で引き合いによく出される発言である。
※NHK「ルポルタージュ日本」(1979年放送)より
(注)この発言を未だに「遊びにパテント(特許)はない」と間違った表記を平気でしているケースが見られるのだが、「方」がないだけで意味が全く違ってしまうので引用には注意されたし。
・任天堂は運がよかっただけなんですよ |
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「任天堂の急成長がよく話題にのぼるでしょ。トランプと花札の老舗が、先端技術を使ったゲーム機メーカーに様変わりしたこと自体が、不思議でしようがないことのようにいわれることもある。あるいは、外から見ると、なにか大層な戦略展開をしたように見えるかもしれない。
しかし、事実は全く違うんですよ。花札とトランプから離れていった理由は、これら伝統的な遊びの人気が落ちたからなんです。時代が変化したんです。そのため止むを得ず転換を図った。それだけのことでしかない。それ以降、幾多の苦難を経ながら、ともかく生き延びてこられたのは、本当に運がよかったからだ。もっといえば、明確な経営戦略などがあったわけではなく、文字どおり試行錯誤の連続でその失敗の積み重ねの中から、少しずつ体で覚えて勉強し、それを材料として、たまたま幸運に恵まれて、昭和55年からようやく急成長の波に乗った。要するに、任天堂は運がよかっただけなんですよ。」
娯楽という業界の持つ特異性を表した言葉。生活必需品では無いゲームの類がヒットするかどうかは世間次第、もはや運を天に任せる他にないと言い、「運が良かった」から成長できたと言う。ここが他の一般的な産業界、家電業界などとの大きな違いであろう。
また、NHKスペシャル「新・電子立国4 ビデオゲームの巨富の攻防」のインタビューでも同じく答えており「運を実力と思ってはいけないのです」と、よく言われる「運も実力のうち」「人事を尽くして天命を待つ」に反する考えで運を実力と錯覚する事の危うさを述べている。これが先述の「運を天に任せる」の最有力な解釈としているのであろう。
・非常識の発想が必要なんです |
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「全くの新製品を作るためには、常識的な発想では人々を納得させることはできない。新製品に必要なのは、社会通念や習慣を変えるようなものでなければならない。そのためには非常識の発想が必要なんです。
みんながこうするから自分もそうするなんていうのは論外です。我が道を行くという考え方、そのためには、他人に煩わされないで、自分の時間を多く持つことが大切だ。人と同じことをやっていたのでは、同じ考えしか出てこないんです。」
運を天に任せるが、そのために人事を尽くす。そして娯楽業界にとって、ソフト屋である任天堂にとって一番重要なものはこの「非常識の発想」であると言う。山内はこれをさらに言い換えて「ユーザーが常に求めているのは独創性である」とずっと語り継いでいた。
また、後任の岩田も株主説明会でプレゼンにおいて必ず「(そのハードやソフトは)他と何が違うんや」とプレゼン者に質問していたということを明かしており、その際に烈火のごとく怒られる一番悪い答えが「違いはないけど他よりちょっといいです」という旨の回答であったという。
・ユーザーは、ハードを買うんじゃないんですから。ユーザーはソフトを買うんですからね。 |
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しばしば山内が発言していたとされる内容で、「パテントはない」に次いで有名なフレーズ。要約すると「ハードとはソフトをプレイするために仕方なく買う箱」である。ゲームハードメーカーの社長という立場にありながら、これはあまりにぶっ飛んだ発言だった。
後任となる岩田もこれについては取り上げており、いささか極端な言い回しだとはしつつも、当時のビジネスモデルを表すうえでは非常にわかりやすい発言だったと紹介している。
つまりどれだけハードが良くても、ソフトの質が良くなければユーザーは買わないため意味がないということ。この思想は今でも任天堂に脈々と受け継がれている。
そんな任天堂が他社ハードとは異なるフォームのハードを作り続けているのは不思議とも言えるが、それもまた任天堂が目指すゲームの形にこだわるために必要だと考えているから、と見ればさほど不思議な傾向ではない。
・あれ(ポケモンの成功)は出来過ぎやね。だから任天堂とポケモンとの距離を置いておくのがええんや |
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当時断絶状態にあった任天堂とスクウェアの再交渉(関係修復)において山内とスクウェア社長(当時)和田洋一の会談の場で山内から「何か聞きたい事あるか?」と言われた際に和田が質問した「ポケモンの成功についてどのように評価されてますか」について。
山内は生前、成功と失敗の経験からくる様々な媒体で「一寸先は闇」をよく口にしていた事から。事実、「スーパーマリオブラザーズ」以来の社会現象級の大ヒットを記録した「ポケットモンスター」は任天堂だけでは全ての制御ができない程巨大コンテンツに急成長を遂げた為、コンテンツ・版権管理として役割を分担する株式会社ポケモンを設立している。
一番のポイントは普通ならばドル箱的な成長は美味しいものだが、それを「出来過ぎ」と冷静に評価している事であろう。その一方で…
「しかし、また当たったからね。わからんもんやね。」とニヤリと笑みを浮かべたという。先述の「任天堂は運が良かっただけ」の理念がここでも現れている。
余談だが、この時の会談で山内はお馴染みの「銀髪に鋭い眼光」はともかくどこで仕立てたかは知らないが「上下共に紫のスーツをビシッと着こなした姿」だったらしく、和田に強いインパクトを与え、追悼ツイートでも組長と呼んでしまう程だった。その様相からは殺気を感じるほどで、まさにラスボスの風格だったという。そのため和田は山内との会談の場(おそらく社長室)は「竜王の間」に例えていた。ちなみに和田は山内を企業家としてのその手腕と経営哲学を尊敬している事をnoteで明かしている。
※参考・引用:ホコタテブログ「任天堂 山内語録」・和田洋一note「そろそろ語ろうか(その弐)」
・大容量ゲームは駄目。こんなことをしていたら世界中のメーカーがつぶれてしまう。重厚長大なゲームはいずれ飽きられる。 |
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2000年の初心会の会見での発言。この後に「ゲームは常に新しい楽しさを開発し、ひたすら完成度を高めていくことが本質である。」と大容量に頼るのではなく、完成度を高めることが重要だと語っている。
実際、現代においてこれらの技術の進歩とコストアップについて行けなくなった中小企業が多く潰れており、更にここ近年の海外ゲームは開発するだけで大金を費やさなければならないという大博打と化している。その結果、映画のようなゲームが次々と乱立したことで日本人はおろかそれを求めていた欧米人にも飽きられてしまったことで、山内氏の発言が現実のものと化した。
もちろん任天堂もソフトの容量がギガバイトに膨らんでしまったが、他のメーカーの容量やゲームの面白さを比較すると山内氏が語った本質を今でも守っているほうなのである。
その他
- 時勢を読む目が鋭かったが、細かいところでは見誤った部分もある。32bit機CD-ROMにより映像表現が多彩になっていっていることに対し、「(CD-ROMは)大容量で安いというプラス点はあるが、大容量だからこそ映像や音声を延々と垂れ流すようなゲームが増えていき、面白さにはあまり寄与しない部分で開発費が不必要に高騰。結果、利益が出づらくなる」と指摘。
- スクウェアが任天堂ではなくソニー側にソフトを提供した際、山内は「機種選択という意味では仕方ない」とスクウェアを咎めなかった。が、その後スクウェア側は裏で「64は駄目だ」とハードを小馬鹿にする発言をしたため、関係が悪化した…が、実際に致命傷となったのはデジキューブがビジネス展開関係の発表の場において「任天堂の何から何までを時代遅れ」と会社批判を行ったことで、これが致命的な亀裂を生んだという。後にデジキューブが株主総会で「任天堂に謝罪して(サードパーティに)復帰すべき・売れ筋のゲームボーイといった製品の取り扱いをするべきでは?」と問われた際は「土下座してなんとかなるならいくらでもする」と返した程に溝が深まっていた。なお、関係修復の足掛かりを模索していた際の和田洋一のこの冷戦的状況の解釈としては任天堂から「(口には出さないが)なんで頭下げに来ないんだ」というようなものを感じていたらしい。
- 先の件で一気に関係がこじれた二社だが、後にスクウェア側がゲームボーイアドバンスでソフトを出したいと発言した際、山内は「何を言っても自由だが、契約する意思はない。将来的な可能性も低い」とばっさり切っており、任天堂の広報員からも「任天堂とスクウェアさんではゲームの認識が異なる」とまで言わしめた。なお、先の通り関係修復に奔走することになった和田洋一によると、当時のスクウェア社内は「任天堂はFFを結局欲しがる」「それを機にゲームボーイアドバンスで復縁できたりして」といった楽観視ムードだった。その脳天気過ぎるにも程があるお気楽さに和田は呆れたという。
- なお、岩田に代替わりして取引が再開されたと言われがちだが、実際は山内がギリギリ在任中に両者は歩み寄りと和解を果たし、ソフト提供が可能となった。どの道在任中でなければソフト発売の予定等は組めないため、それ以前から徐々に歩み寄りを見せていたとする方が自然である。実際、山内は先の通りFFCCをゲームキューブに出すか否かという交渉に入った際「新しいコンセプトを」とオーダーを出したり、GBA版のFFリメイクに対するコメントも残している。
- 星のカービィがロングランで70万本のヒットを飛ばした際、山内は発表会で「任天堂が味付けしたからここまで売れるようになった」とコメントし、任天堂の成果を強調した。しかし実際、任天堂の役割は資金提供や販売元としての戦略的な協力という要素が強く、ゲーム内容には直接携わったことは一切なかった。この時、その場に居たディレクターの桜井政博は、任天堂の販売力や戦略には助けられたとしつつも、「任天堂の味付けに頼る桜井は無能と言われたような気がした」として、かなり悔しい思いをしたそうである。そのため、桜井が山内のことを快く語る場面はほぼない。ただ任天堂はその後も桜井主導の作品が成功したこともあって、桜井を開発上重要なポジションに置くことを咎めず一任。特にスマブラに関しては一貫してディレクターとして置く程に信頼している。山内在任期間中にも初代・DXと双方ともに桜井が担当している。
- ゲームボーイの完成品を見た途端、ゲームボーイの耐久性を確かめるため山内が本体を床に投げつけたという逸話が有名である。顧客層(子供)を考えた行動だったとされているが、任天堂はそもそもそういった事実はないと否定した。これはつまるところ、任天堂製品の頑丈さがあまりに知れ渡ったことで、いつの間にか流れ始めた作り話である。ただし任天堂はある程度耐久性を意識して開発していることは事実である。なお、ゲームボーイに関して山内がした指摘は開発責任者の横井軍平に「当初のモノクロ液晶の視認性のマズさを指摘した事」であり、条件付きとはいえ一時は開発中止寸前まで行きかけた。
- 風貌に見合わず横文字を多用することでも知られる。先の「遊び方にパテントはない」もその一つで、顧客のことを「ユーザ-」と主に呼んでいた。また「○○しますとねぇ……」など、インタビュー時は「ねぇ……」で発言を一旦区切ることも多かった。
- CD-ROMに否定的なのは、ソフト会社の疲弊や、ゲームクオリティに繋がらないことも一つの要因であろうが、NintendoPlayStationでのいざこざもいくらか関わっていると思われる。特にPlayStationが単体で成立した際は、暗にソニーのハードで提供されるソフトの動向を批判することも多かった。
- 任天堂では山内が在任していた頃は囲碁ソフトが出せなかった。これはアマ段位を持つ山内を負かせるCPU対戦ができる事が暗黙の了解とされてきた為。ちなみに囲碁ソフトはルーチンを組むとなると囲碁のルールに則る為非常に複雑化してしまう。詳しくは囲碁の項目参照。
- 「ゴニンカントランプ協会」の名誉名人を務めていた。それ故、「だれでもアソビ大全」ではゴニンカンが遊べる。当時のゴニンカン大会でも「だれでもアソビ大全」が使われた。
山内家
山内家では曾祖父の代から数えて初めての男児(長男)として生を受けたという。それまでは男児に恵まれなかった女系の一族であったとされる。祖父・実父(後に出奔)も婿養子として山内家に入っている。
婿養子が多いのは特に本家筋の家督継承には長男が最優先だった昔の法律があったからである。
山内家の同族を要職から外したのは先述したが、追放まではさすがにしていないとされる。
実際に任天堂には重役の職には就いてないものの、子息が社員として在籍している。
また、かつては娘婿の荒川實が後継者として挙げられていた(しかし社長になることなく退任している)。この他、孫(長男の長男)を自身の養子として財産の一部を継承させるなど、創業家の資産等が散逸しないための相続対策を行っており、全く何もかもを親族に引き継がせないという思想とは異なっている。
関連タグ
バンジョーとカズーイの大冒険:レア社が開発した3Dアクションゲーム及びそのシリーズ。主人公(バンジョーとカズーイ)の名前は山内の孫(万丈)と息子(克仁)の名前に由来する。