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山内溥

やまうちひろし

日本の実業家。(京都府出身 1927年~2013年)花札、トランプ、テレビゲームなど、娯楽レジャー機器製造の大手、任天堂の3代目社長。
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「過去から現在まで、ソフトが主、ハードが従のゲームビジネスの基本はこれからも変わらない。ソフト開発者が、大ヒットした昔の「ファミリーコンピュータ」用ソフトも参考にし、進化したハードの上で、誰でも簡単に楽しめるソフトを開発していけるかが、今後の業界の成長のために重要になると思う。」山内溥

  ※『ファミリーコンピュータ1983-1994』(太田出版 2003年)より


山内家の家業であり老舗の花札製造会社であった任天堂を、一代で世界のNintendoに発展させた、通称「組長」。
組長の呼び名の由来は「そっちの筋の人ですか?」とツッコみたくなるようなコワモテと、豪気かつ歯に衣着せない言動の数々から。
ちなみに外見に反して声はちょっと高めのハスキーボイスである。

ポケモンゲットじゃ!



初期には多角経営をして会社を傾けたこともあるが、横井軍平や宮本茂を然るべきポストにつけ才能を発揮させるなどその経営手腕と人を見る目は確か。そして会社のトップとして大切な決断力に長け、さらに娯楽を扱う社長としての「勘」が非常に鋭い。
その経営手法は良くも悪くもワンマン的であったが、社長を引き受ける際の条件が「同族を要職から外せ」であった事に代表されるように後述するような独自の経営哲学を持ち、老舗企業にありがちな社内の権力者同士の足の引っ張り合いや一族間での骨肉の争いとは無縁の社長人生であった。
社員からも慕われており、「社長を喜ばせたいから頑張ってる」という発言を残す社員もいた他、社長引退の際は長年の功績と感謝を込めて多額の退職金を提示されたこともある(「社業に使え」と本人は固辞)。

92年には日本企業として初めてシアトル・マリナーズを買収し、同球団の共同オーナーを務めていたこともあった。佐々木主浩イチローなど日本人選手の獲得にも尽力したと言われており、またこれら日本人選手と山内との親交も深かったという。佐々木がマリナーズに入団した際には「大リーグのピカチュウになってほしい」とのコメントを残している。
ただし、球団経営には口出ししておらず、マリナーズの試合を観戦したことは1度も無かったという。

2002年に後釜に岩田聡を指名して社長業から引退。以後、相談役を務めていた。その後社業にはほとんど携わっていないが、DSの二画面構造や、3DSの3D機能は山内の発想や長年の思いが起点となって誕生している。

ちなみに「マリオアーティストタレントスタジオ」のサンプルとして社長のご挨拶が収録されているが、視聴者から組長挨拶のタグをつけられてしまった。

なお、ゲーム会社の社長でありながら、あまりテレビゲームはプレイしなかった。ただ、テレビのインタビューにおいて、スーパーマリオ64を楽しそうにプレイしている映像などは残っている。

2013年9月19日、肺炎のため死去。85歳没。
「彼の記念碑を見たければ、周りを見渡してみるといい。それは、そこにあるだろうから」(海外のゲームサイトにおける彼の訃報に対するコメントより)


任天堂 山内前社長



山内語録

・遊び方にパテント(特許)はないわけです


「遊び方にパテント(特許)はないわけです。したがってですね、コピーをしようという気持ちがあればね、一定の時間があればコピーできるわけです。しかもそれに対してですね、適切な手が果たしてあるかと申しますとないわけです。要はですね、そういう考え方を捨てて、これからのアミューズメント業界の発展のためにはですね、むしろ相互にそういうソフトをね、もう公開して、そしてこの新しい、しかも巨大な、そしておそらく衰えることない、つまりインベーダーは衰えても、マイコンを軸にした遊びは栄えていく。これらのものを発展させていくために、当然その秘密とかなんだとかいう考え方を捨ててね、そしてお互いの開発した、そういう優れたものを交流していくと。そういうことが望ましいんであるわけですね。」


今でこそ著作権に厳しい会社として知られている任天堂だが、1970年代にはタイトーの大ヒット作「スペースインベーダー」のコピーゲームを堂々と出していた。その時の発言。

いろいろとネタにされたり批判的に取り上げられたりしやすい発言であるが、ビデオゲーム黎明期、花札・トランプメーカーの意識が色濃い時期の発言であることに注意を要する。
おもちゃのデザインに著作権はあっても、おもちゃの「遊び方」にはもちろん著作権は存在しない。ビデオゲームの著作権に対する概念や意識が業界全体に渡ってまだまだ希薄な頃の話であり、遊び方の共有、オープンソース化を主張した発言であった。

しかし、80年代に入って自社製の大ヒット作「ドンキーコング」にコピーゲームが作られた後に厳しくのぞむようになり、「テレビゲームの著作権」のあり方について方針を変えることとなる。
昨今の著作権に厳しい同社の姿勢を語る上で引き合いによく出される発言である。
 
 ※NHK「ルポルタージュ日本」(1979年放送)より


・任天堂は運がよかっただけなんですよ

「任天堂の急成長がよく話題にのぼるでしょ。トランプと花札の老舗が、先端技術を使ったゲーム機メーカーに様変わりしたこと自体が、不思議でしようがないことのようにいわれることもある。あるいは、外から見ると、なにか大層な戦略展開をしたように見えるかもしれない。
しかし、事実は全く違うんですよ。花札とトランプから離れていった理由は、これら伝統的な遊びの人気が落ちたからなんです。時代が変化したんです。そのため止むを得ず転換を図った。それだけのことでしかない。それ以降、幾多の苦難を経ながら、ともかく生き延びてこられたのは、本当に運がよかったからだ。もっといえば、明確な経営戦略などがあったわけではなく、文字どおり試行錯誤の連続でその失敗の積み重ねの中から、少しずつ体で覚えて勉強し、それを材料として、たまたま幸運に恵まれて、昭和55年からようやく急成長の波に乗った。要するに、任天堂は運がよかっただけなんですよ。」

娯楽という業界の持つ特異性を表した言葉。生活必需品では無いゲームの類がヒットするかどうかは世間次第、もはや運を天に任せる他にないと言い、「運が良かった」から成長できたと言う。ここが他の一般的な産業界、家電業界などとの大きな違いであろう。


・非常識の発想が必要なんです

「全くの新製品を作るためには、常識的な発想では人々を納得させることはできない。新製品に必要なのは、社会通念や習慣を変えるようなものでなければならない。そのためには非常識の発想が必要なんです。
みんながこうするから自分もそうするなんていうのは論外です。我が道を行くという考え方、そのためには、他人に煩わされないで、自分の時間を多く持つことが大切だ。人と同じことをやっていたのでは、同じ考えしか出てこないんです。」

運を天に任せるが、そのために人事を尽くす。そして娯楽業界にとって、ソフト屋である任天堂にとって一番重要なものはこの「非常識の発想」であると言う。



※参考・引用:ホコタテブログ「任天堂 山内語録」

その他

山内家では曾祖父の代から数えて初めての男児(長男)として生を受けたという。それまでは男児に恵まれなかった女系の一族であったとされる。祖父・実父(後に出奔)も婿養子として山内家に入っている。
婿養子が多いのは特に本家筋の家督継承には長男が最優先だった昔の法律があったからである。
山内家の同族を要職から外したのは先述したが、追放まではさすがにしていないとされる。
実際に任天堂には重役の職には就いてないものの、山内溥氏の子息が任天堂の社員として在籍している。

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