「名刺の上では、私は代表取締役社長です。
頭の中では、ゲーム開発者です。
でも、心の中では、ゲーマーです。」
経歴
1959年12月6日生まれ。北海道札幌市出身。父親は室蘭市の市長を務めたこともある岩田弘志。
愛称は「いわっち」など。
高校生時代からプログラマとしての頭角を表しており、独学でプログラミングを習得し、ヒューレット・パッカード社の発売していたプログラミング電卓「HP-67」を使ってゲームを作成。このデータをHP社に送ったところ、同社が驚いて様々な資料を岩田へ送ってきたというエピソードがある。
東京工業大学に入学した後もプログラミングに打ち込み、コモドール社の「PET 2001」をローンで購入。これを売っていた西武池袋店のパソコンコーナーに通い詰めていた。
その後、顔馴染みとなっていた西武池袋店の店員がHAL研究所の設立に携わることになり、同じくプログラミングに熱中していた大学の友人と共にアルバイトとして参加するようになる。
大学卒業とともに正式にHAL研究所に入社。プログラマーとして数々のゲームソフトの開発を手掛け、取締役開発部長にまで昇進した。
この頃から任天堂に度々顔を出して『バルーンファイト』などを開発しており、宮本茂とも仕事をしている。HAL研究所が和議(民事再生法)を申請した際は、立て直しのため岩田が社長を務めることに(山内溥の指名であったとされるが、両者とも生前に何も言及していないため、真偽は不明)。社長時代もプログラマとして度々助っ人的に活躍しており、『MOTHER2 ギーグの逆襲』の開発が行き詰っていた時「いまあるものを活かしながら手直ししていく方法だと2年かかります。
イチからつくり直していいのであれば、半年でやります」と申し出て、開発を請け負ったエピソードが有名。実際に半年後には通して遊べるようになり、細かい調整に半年をかけ、約1年で作品を完成に導いた。詳しくはこちらを参考。
ポケモン金銀に関しても商業的成功を支えた立役者として認知されており、彼がいなければ100%開発が失敗していたとされる。
2000年、山内に経営手腕を買われ任天堂に入社。取締役経営企画室長に就任した後、2002年に山内の指名で同社の社長に就任。それまで同社の社長は創業家である山内一族が務めていたこともあってか、創業家出身ではない岩田の社長就任は社内外でサプライズ人事だった様子。
『MOTHER2』の開発をきっかけに糸井重里とは交友関係を築き、後に日本最大の個人ウェブサイトとなる『ほぼ日刊イトイ新聞』の立ち上げに貢献した。その功績を称えて「ほぼ日の電脳部長」という肩書きが与えられている。
任天堂の社長となってもゲーム開発の現場には参加していた。プログラマとして活躍したのは経営企画室長時代が最後で、社長になってからはさすがに自らコードを書くことはなくなったものの「できればプログラムを書いていたい」と発言していた。
HAL研究所時代から自ら積極的に前に出てプレゼンする傾向があり、社長就任後もE3用のプレゼンテーションムービー(後述)や、サードパーティー含めて新作ソフトを紹介していく『ニンテンドーダイレクト』、社内外を問わぬ社長によるインタビュー記事『社長が訊く』などその傾向が強く見られる。
また、大企業の社長と思えないほどフットワークが軽く、ニンテンドーDSの発売日に東北大学を訪れて川島教授と会って『脳トレ』の製作への協力をお願いしたり、社長業の合間を縫ってゲームセンターCXに出演したり、『ラストストーリー』の制作発表会に飛び入りで参加(坂口は「リハーサルでも聞いてなかった」らしい)してみたりと、逸話には事欠かない。
若き日より名を知られた「天才」プログラマでありながら「他人のために動くことが自分の幸せ」という稀有な人物で、誰からも好かれる人柄だった。コワモテかつ歯に衣着せなかった山内と違い、柔和な風貌やあくまで「任天堂からの提案」という形で新たなハードを提案するその姿は、対照的であるといわれる事もある。
温厚そうな印象であるが、本人曰く「割と短気」だとされている。
「ゲーム人口の拡大」を就任当初から自身の課題として掲げ、その成果がニンテンドーDSやWiiである。
突然の訃報
2014年に胆管腫瘍に罹患している事が発覚、6月に手術を受け一旦は仕事に復帰する。
翌年も数々のビッグプロジェクトの発表の場に顔を出す等精力的に活動していたが、2015年7月、突如体調を崩して入院し、同月11日早朝に容態が急変、そのまま帰らぬ人となってしまった。55歳の若さであった。
HAL研究所の社長時代から、岩田は自身の健康を省みず債権活動に勤しんでおり、過労で突発性難聴と顔面神経麻痺を発症したこともあった。このため昔から健康問題からあえて目を背けて勤務を続けており、それらの無理が祟った可能性もある。
当日が土曜日であったため、任天堂より公式に発表されたのは翌週月曜同月13日であった。
これにより、任天堂の代表取締役社長は空席となり、代表取締役専務の竹田玄洋及び宮本茂が暫定的に職務を引き継ぐことが発表され、2015年9月14日に財務方面を主に担当していた常務取締役の君島達己が正式に後任の代表取締役社長に就任することが発表された。君島は岩田の後を継いでNintendo Switchを軌道に乗せた。その後、組織の若返りやカリスマ的トップへ依存する既存体制からの脱却を進め、2018年4月26日に組織の若返り目的を理由に取締役常務執行役員の古川俊太郎を後任にして退任している。
先代社長であった山内溥の逝去から約2年後とまだ記憶に新しかった事、歴代任天堂社長の中ではメディアへの積極的な活動で広く知られていただけに、国内のみならず海外でも彼の訃報は大きな衝撃と悲しみを与え、各国のニュースで報じられた。
多くの業者関係者や著名人、ライバル企業であるソニーなどからも哀悼のコメントを寄せられただけではなく、ツイッターでは「#ThankYouIwata」のハッシュタグで世界中のファンがその死を悼み、Miiverseでは彼が過去に手掛けた『バルーンファイト』『MOTHER2』等のコミュニティにおいても同様の追悼メッセージ投稿や、『Splatoon』においてもプレイヤーのコメントにて、岩田への追悼や感謝のメッセージ・イラストが多く見受けられ、彼がいかに世界中の人々から愛されてきたことが表れている。
バルーンファイトの作曲担当、田中宏和は『Dedicated to Satoru iwata.』というタイトルで、バルーンファイトのBGMリミックスバージョンを『SOUNDCLOUD』にアップしている。
死去後に発売された『ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド』では「エグゼクティブプロデューサー」としてクレジットされ、本作が事実上の遺作となった。また、プラチナゲームズと共同開発した『スターフォックスゼロ』のエンディングでも、「This game is dedicated to our wingman who fell in battle.(このゲームを戦いの中で散った戦友に捧ぐ)」と記載された。
映画「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」においても、「FORMER PRESIDENT OF NINTENDO」としてクレジットされている。
逸話
- 歴代任天堂社長では創業者の山内房次郎(工芸家)に継いで二人目のプログラマーとしての開発畑出身の社長だった。
- プログラマー時代から宮本茂に尊敬の念を抱いており、その言動を観察している。本人曰く「宮本ウォッチャー」とのこと。
- 経営が赤字を記録していた時期も決してリストラを敢行せず、自身の給料を削るという処置をとった。株主から「リストラを敢行しないのか」と詰め寄られた際にも、「社員が怯えながら作ったソフトは人の心を動かせない」と返答したという。
- 『バルーンファイト』に収録されている『バルーントリップ』は横井軍平のひらめきから生まれ、彼がわずか3日間で形にし、横井がテストプレイをした際に出したオーダーにもその場で瞬時に修正して皆を驚かせた(当時のプログラム修正方法は、プログラムを紙に打ち出して電話帳くらいの厚い紙の束を調べてから修正する、少なくとも1時間かかる作業だったのだが、彼はプログラムをすべて記憶し、その場で作業を終わらせたとのこと。横井も彼の修正作業の速さは声をあげるくらいビックリしていたという)。
- ゲームセンターCXに出演した際、有野課長から「もうゲームは作らないんですか?」と聞かれると「気持ちとしてはあるが、社長業そっちのけでゲーム作りに注力するわけにはいかない」と答えている。社長退任後の趣味的な時間で、ゲームを作ることには意欲的な姿勢を見せていた。死去後、有野はこの話を覚えていて、「社長の作ったゲームをプレイしたかったです」と故人を偲んでいる。
- 『メトロイドプライム3』では彼の隠しメッセージが聞ける。疲れが溜まると太りやすい体質であるとのこと。
- 糸井重里によれば、「目の前に問題が置かれると解決したくなる病」「だれかの助けになって『よかった』と言われることが一番の大好物だった」とその人柄について語られないる。
- 『ほぼ日』でのインタビューなどをまとめた『岩田さん』に収録された宮本茂のインタビューでは、制作現場にお菓子が置いてあるとどんどん食べてしまうためスタッフから「カービィ」と呼ばれていたことや、漬物が嫌いであったが京都のある店の漬物だけは好んでいたことなどが語られている。
- 海外でのイベントでは自身が英語でスピーチを行うことも多いが、学生時代は英語が苦手で、ハル研究所時代に急遽アメリカに出張することになり、必要に応じて話せるようになったとのこと。外部リンクまた、ニンテンドーダイレクトの韓国向け放送では、韓国語を話す場面も見られた。
- 大病を患った際、ふくよかな彼の姿とは別人のような痩せた姿を公の場で見せた際は多くの人を心配させ、病名を告知された際、医学書を始めとしてあらゆる情報を吟味して自分に一番最適な治療法を模索し、セカンドオピニオンを医師と議論をしていたという。
詳しくはこちらを参考。
亡くなった今となっては生前にマスメディアに語った「健康事業」の真意や「ニンテンドースイッチのコードネーム『NX』の由来」は謎のままとなっている。前者はブラフ説もしくは『リングフィットアドベンチャー』説が唱えられており、後者は岩田の後任となった君島を始めとした経営陣やスイッチ開発に携わった開発者達でも本当に知らないとされている。
ネタとしての岩田聡
以上のようにすごい人なのだが故に時折見せる謎の行動(言動)がネタにされがちで、ニンテンドーダイレクトが始まってからそれらが頻繁に見られるようになり、ツイッターでは「私を弄る快感に目覚めたスタッフ」などと発言し、本人も割とノリノリのご様子であった。
任天堂社長としての責務を果たすため、その肉体には類まれなる戦闘力を秘め、E32010においては燃え盛るクッパ城を攻略し…
E32014では、米国任天堂社長のレジナルト・フィサメィ(通称レジーコング)との拳願仕合を演じた。
(1分10秒付近から)
実はこのPV公開当時、体調不良の為E3を欠席していたのだが、後に最初の胆管腫瘍手術で入院していた事が明らかになり、これが彼の生涯最後のネタとなってしまった。
本人はニコニコ動画ユーザーで、自身のネタ動画を見ることもあったらしく「めちゃくちゃシュールな体験」と語っている。
関わった作品
ここでは社長就任前に関わった作品のみ記載。
1980年代
ゴルフ(1984年、FC)-プログラマー
F1レース(1984年、FC)-プログラマー
バルーンファイト(1985年、FC)-プログラマー
ガルフォース(1986年、FCD)-エグゼクティブプロデューサー、テクニカルコンサルタント
エッガーランド(1987年、FCD)-プロデューサー
ゴルフJAPANコース(1987年、FCD)-プログラマー
ゴルフUSコース(1987年、FCD)-プログラマー
殺意の階層 ソフトハウス連続殺人事件(1988年、FC)-プロデューサー
ファミコングランプリⅡ 3Dホットラリー(1988年、FC)-プログラマー
エッガーランド 迷宮の復活(1988年、FC)-プロデューサー
エッガーランド 創造への旅立ち(1988年、FC)-プロデューサー
宇宙警備隊(1989年、FC)-テクニカルスーパーバイザー
1990年代
NEWゴーストバスターズ2(1990年、FC)-テクニカルスーパーバイザー
メタルスレイダーグローリー(1991年、FC)-プロデューサー、プログラマー
カードマスター リムサリアの封印(1992年、SFC)-テクニカルアドバイザー
星のカービィ 夢の泉の物語(1993年、FC)-プロデューサー
アルカエスト(1993年、SFC)-エグゼクティブプロデューサー
ロロの大冒険(1994年、SFC)-エグゼクティブプロデューサー
MOTHER2 ギーグの逆襲(1994年、SFC)-チーフプロデューサー、プログラムディレクター、プログラマー
星のカービィ スーパーデラックス(1996年、SFC)-プロデューサー
糸井重里のバス釣りNo.1(1997年、SFC)-製作
星のカービィ3(1998年、SFC)-チーフプロデューサー
カービィのきらきらきっず(1998年、SFC)-チーフプロデューサー
ポケモンスタジアム(1998年、N64)-チーフプロデューサー
ピカチュウげんきでちゅう(1998年、N64)-スペシャルサンクス
ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ(1999年、N64)-プロデューサー
ポケモンスナップ(1999年)-プロデューサー
ポケットモンスター金・銀(1999年、GBC)-スペシャルサンクス
カスタムロボ(1999年、N64)-スペシャルサンクス
2000〜2002年
星のカービィ64(2000年、N64)-スーパーバイザー
コロコロカービィ(2000年、GBC)-スペシャルサンクス
ポケットモンスタークリスタル(2000年、GBC)-プロデューサー
大乱闘スマッシュブラザーズDX(2001年、GC)-スペシャルサンクス
ポケモンショックテトリス(2002年、ポケモンミニ)-プロデューサー
関連イラスト
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桜井政博…HAL研究所時代の部下。それぞれの退社後も関係は続いていた。