概要
パソコン黎明期に活躍した企業であり、一般家庭にパソコンを普及させる決定的な役割を果たした。
しかし創業者追放後は守旧的な経営指針に様変わりし、1994年に倒産した。
歴史
創業初期
1954年に、ジャック・トラミエルはカナダのトロントにてコモドールを創業し、社長に就任した。
その後カナダの投資家であるアービン・グッドがコモドールの筆頭株主兼会長となった。
創業当初はタイプライターの製造販売を手掛けていたが、1950年代末に安価な日本製タイプライターが登場する。これによって北米のタイプライター各社は大打撃を受けたが、コモドールは機械式計算機に転換して生き残った。
しかし1960年代末に再び日本製の競合機種によって窮地に陥る。
グッド会長は日本に行ってどう対抗したら良いかを見てくるよう助言し、トラミエル社長は訪日した。帰国したトラミエル社長は電卓製造への転換を決定。1970年代初頭にはコモドールは電卓の人気ブランドの一つとして名を馳せるようになった。ところが、1975年に電卓用チップの供給元だったテキサス・インスツルメンツ(TI)がチップを値上げした上で電卓市場に直接参入、安価な電卓を製造販売するTI社によってコモドールは廃業寸前にまで追い詰められてしまう。
パソコン会社として
だが、1976年にモステクノロジーを買収し、同社で6502を開発したチャック・ペダルをコモドール技術部長に抜擢したことがコモドールの転機となる。ペダルは電卓の時代は終わりコンピューターの時代が来ることをトラミエル社長に示し、以後のコモドールはコンピュータ会社へと生まれ変わった。
1977年にコモドールは本社をモステクノロジー本社付近のアメリカ合衆国ペンシルベニア州ウェストチェスターに移転。
当初はアップル社のAppleⅡを買い取ることも検討されたが破談となり、自社製コンピュータで参入することを決断。1977年にペダル達が開発したコモドールPETを発売。AppleⅡと並ぶ世界初のオールインワンパソコンである。
堅牢な設計から北米の学校に普及し、数ヶ月間需要に供給が追いつかなくなる程の人気製品となった。一方でグラフィックとサウンドは競合機種に見劣りし、家庭用パソコンとしては不人気となってしまった。
1981年に、グラフィックとサウンド機能を改善した後継機・VIC-20(日本ではVIC-1001)を発売。
PETと違いディスカウント店や玩具店等でも売られ、ゲーム機と競合した。更にコモドールはスタートレックで主役を務めたウィリアム・シャトナーを起用し「何故ただのゲーム機を買うの?」と問いかけるCMも打っており、ゲーム機との対決姿勢を露わにした。
300ドル以下という低価格もあって人気となり、当時コモドールが過剰在庫として抱えていたチップを一掃するだけに留まらず、売上100万台を突破する世界初のコンピュータとなった。
1982年に、VIC-20の後継機となるホビーパソコン・コモドール64を発売。64KBのDRAMを搭載した当時としては驚異的な高性能機だったが、にもかかわらず595ドルという価格で販売された。ライバル企業であるアタリ社員はこの価格設定に度肝を抜かれたという。
VIC-20に引き続き一般流通ルートで販売を行い、更にコモドールは「この2倍の金を払ってもこれより良いパソコンを買うことはできない」と豪語するCMを打ち、価格性能比を強調した。1983年にはコモドール64の購入者から他の機種(ゲーム機も含む)を100ドルで下取りするキャンペーンも開始。
コモドール64の徹底した低価格戦略により、ホビーパソコン業界全体が価格競争に突入。そんな中でもコモドール64が圧倒的な優勢となり、AppleⅡやAtari800からシェアを一気に奪い、TI社や他のパソコンメーカーも市場撤退に追い込まれた。
一説では、コモドール64によるゲーム機と徹底対決するマーケティング戦略がアタリショックの一因になったとも言われている。家庭用ゲーム市場の崩壊後、PC市場の覇者となったコモドール64はゲーム市場においても覇者となり、以後NESの北米上陸までの間、北米のコンピュータゲームはPCゲームが主流となった。
コモドール64が打ち出した価格競争によって、それまで一部にしか行き渡っていなかったパソコンが一般市民にも普及するようになった。この頃にトラミエル社長は「我々は一部の階級のためではなく、大衆のためのコンピュータを作らなければならない」と語っている。
「ビジネスは戦争だ」がトラミエル社長の持論であり、その言葉に違わず破壊的な低価格製品で競合他社を市場撤退に追い込む容赦ない戦略がトラミエル社長の特徴だった。パソコン事業進出以前のコモドールが、日本企業やTI社など競合他社の低価格攻勢によって幾度となく窮地に陥ったことがトラミエル社長の方針を決定付けたとも言われている。
しかし一方でトラミエル社長は日本人技術者達を高く評価しており、次期社長として育てていた息子のサム・トラミエルをコモドール日本法人の社長として派遣するなど日本市場を強く意識していた。VIC-20及びコモドール64開発の中心メンバーにも寺倉康晴を初めとする日本人社員が数名いた。
創業者追放後
しかし、グッド会長は低価格路線から抜け出したいと考えており、トラミエル社長との対立を深めるようになる。社内の権力闘争の末、1984年1月にトラミエル社長は辞任しコモドールを去った。
しかし、同年7月にワーナーが売却したアタリの家庭用ゲーム及びパソコン部門をトラミエルが買収し、新会社アタリコープを立ち上げた。それに合わせてコモドールの技術者や役員達もほぼ全員が新経営陣に反発してアタリコープに合流し、開発力を失ったコモドールは窮地に陥った。
だが、元アタリ社員のジェイ・マイナーが設立したAmiga社が同時期に資金難になっており、この会社をコモドールが買収し、子会社コモドール・アミガに改名させた。
1985年7月に、マイナーが開発した16ビットのホビーパソコン・Amigaシリーズを発売。ライバルであるアタリのAtariSTに半年ほど後れを取る形となってしまい、北米では不人気に終わったもののヨーロッパでは成功を収め、AtariSTと熾烈なシェア争いを繰り広げた。
低価格でありながら高度なグラフィック機能を有しており、当時としては3DCGをまともに扱える唯一のパソコンだったため、映像制作者やゲーマーから人気を博した。
1987年には廉価版のAmiga500が大ヒットし、欧州市場においてAtariSTを圧倒した。
凋落
しかし1990年以降、パソコン市場はPC/AT互換機(Windows)とMacintoshが制覇しつつあった。
更にメガドライブやSNES等が欧州でも発売されると、Amigaのゲーム用マシンとしての需要もこれらの家庭用ゲーム機に奪われるようになった。
トラミエル社長の追放以後、コモドールの革新性は失われ守旧的な社風に変わっていった。Amigaの性能はこれらのパソコンやゲーム機に追い抜かれており、その上高価格化していた。コモドールは商業的失敗が明らかなハードに固執したり、コスト削減のために機能面で退化していた物を後継機として売り出すなど中途半端なマーケティングを繰り返し、経営体力を消耗させていった。
Amiga事業と平行して、PC/AT互換機事業も進めていたがこれも失敗し、1992年に事業清算を余儀無くされた。1993年に発売したゲーム機のAmiga CD³²に社運を託したが、本機種は新規ユーザーからもAmigaユーザーからも人気を集められず失敗に終わる。
1994年4月に、コモドールは倒産した。
だが、その後もコモドールやAmiga等の版権は同社のブランド名を求める会社の手を渡り歩いている。