概要
米国の玩具会社・コレコが1982年8月に発売した据え置きゲーム機。価格は199ドル。日本では未発売だが米国のディーラーから仕入れた輸入機がごく少量流通していたようである。
CPUはNEC製のZ80Aを、グラフィック用プロセッサはTMS9918を、音源はPSG互換のSN76489を搭載。
早い話がMSX1やセガのSG-1000と同じスペックで、Atari2600はもとより16ビット機のインテレビジョンをも上回る高性能を誇っていた。
周辺機器による高い拡張性も特徴であり、中でも最初に発売されたアダプタ『拡張モジュール#1』は、これを装着することでコレコビジョンでAtari2600用ゲームソフトがプレイできるようになるというとんでもない代物だった。当然アタリから裁判を起こされたものの、最終的にはコレコとアタリはライセンス料の支払いと引き換えに法廷外和解し、改めてライセンス契約を結んだ。
同時期にコレコが販売していたAtari2600クローンマシン「コレコジェミニ」も前述のライセンス契約によってアタリの許諾を受けることになったが、こちらはほとんど売れなかったという。
コレコは更に、インテレビジョン用ソフトもプレイできるようになる『拡張モジュール#4』の発売も計画していたというのだから驚きである(最終的には発売中止となった)。
また、コレコビジョン発売に先立つ1981年に、コレコ社のゲーム開発責任者エリック・ブロムレイはコレコビジョンのローンチタイトルになるゲームを求めて訪日しており、ユニバーサルの「レディバグ」やセガの「ザクソン」等といった日本の人気アーケードゲームの移植許諾を取っている。
コレコビジョン初期のゲームタイトルに日本産ゲームが目立つのはこれが理由である。
ローンチタイトルの中でも一番の目玉タイトルとなったのは任天堂の「ドンキーコング」である。当時としては極めて高い移植度も相まって、コレコビジョンの人気に火を点けた。
ドンキーコング
エリック・ブロムレイが京都市の任天堂社内で「ドンキーコング」を見付けたのは、日本を訪れていた1981年末のことだった。当時のドンキーコングはまだ発売されたばかりの無名のゲームだったが、ブロムレイは一目見てこのゲームはヒットすると確信。
任天堂側が提示してきた「24時間以内に前金20万ドルを用意できた場合はカートリッジ一本あたり1.4ドルのロイヤリティとする」という条件を迷わず飲んだブロムレイは、急いでアメリカ本社の社長に連絡を取り前金20万ドルを用意させ、カートリッジ一本あたり1.4ドルという破格のロイヤリティでドンキーコングの移植権を獲得することに成功する。
同時にこの時、任天堂側もコレコビジョンに魅力を感じており、コレコビジョンの日本販売権を取得するべく交渉を申し込んだ。結果的には交渉は成立せず、任天堂はゲーム機を自社開発することを決断したが、コレコビジョンは任天堂の開発陣に確かな刺激を与えていた。
コレコビジョンを念頭に置いた上でファミリーコンピュータの開発が始まり、アーケード版ドンキーコングを更に見劣り無くプレイできるような性能を目指して開発が進められた。
キングコング裁判
しかし発売前の1982年4月に、コレコビジョンは窮地に陥った。
映画会社ユニバーサル・ピクチャーズが「ドンキーコングはキングコングのパクリである」と主張し、コレコ社は訴訟を起こされてしまったのだ。コレコは法廷闘争を諦め、すぐにユニバーサル側へ特許料を支払った。
続けてユニバーサルは任天堂にも同じように訴訟を起こしたものの、任天堂はユニバーサル側の主張を認めず裁判で争う姿勢を見せた。裁判の中で任天堂は、
- ユニバーサルは「キングコング」の版権を保有していない
(そもそもユニバーサルは版権元に無許可でキングコングを製作しており、RKO社との裁判の中でユニバーサル自身が「キングコングはパブリックドメインである」と主張して無罪を勝ち取っていた)
- ドンキーコングとキングコングは別物である
以上の事柄を証明して勝訴。ユニバーサルは任天堂に損害賠償を支払い、同時にコレコ社もユニバーサルから徴収された特許料を取り戻した。
販売
ブロムレイの予見は見事に的中し、アーケードのドンキーコングは全米で大ヒット。そんなドンキーコングを移植されていたコレコビジョンも人気を博し、1982年の年末商戦で50万台を売り上げた。
コレコビジョンを脅威に感じたアタリは急遽Atari5200を発売。同機はコレコビジョンを上回る高性能機だったが、前世代機Atari2600との互換性が無い上にコントローラーに欠陥がある失敗作であり、コレコビジョンには対抗できなかった。
続けてコレコビジョンにはアクティビジョン等のゲームメーカーがサードパーティーとして参入しソフトラインナップは100タイトル以上に達し、1983年初頭には売上100万台を突破した。
アタリショックの影響も他社に比べて小さく、引き続き利益を出していた。
末路
しかし、コレコは当時アメリカで支配的だった「ホビーパソコンが次代の主流になる」という風潮に流され、1983年10月にコレコビジョンの上位互換機となるホビーパソコン「Adam」を発売。同月にはコレコビジョンの性能拡張機器『スーパーゲームモジュール』の発売も予定していたが中止し、コレコビジョンをAdamパソコンとして使えるようにする『拡張モジュール#3』に置き換えた。
このように徹底してホビーパソコンに経営資源を集中させていたものの、AdamはIBM PCjrと競合してしまった上に初期不良を多発させ大損害を出し、コレコの経営を一気に傾けた。
1983年末にキャベツ畑人形が大ヒットしたことで倒産は免れたものの、コレコは今度は玩具分野に経営資源を集中させ、まだそれなりに売れていたコレコビジョンを1984年に製造中止することを決定。
コレコビジョンは人気だったにもかかわらず、3年足らずの短命ハードに終わってしまったのだ。
その後コレコ社はキャベツ畑人形への過剰投資が経営を圧迫し、人形のブーム終了に伴い大量の不良在庫を抱えて倒産。1989年にハズブロ社に買収された。
但し、コレコビジョンの版権はシカゴのブランド再生企業River West Brandsが所有している。
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