概要
全長3,911m、中央支間1,991mの吊り橋である。1998年(平成10年)4月5日開通。
建設中だった1995年(平成7年)1月17日に阪神淡路大震災が発生し、地盤のずれから当初より全長が1m伸びた。
2022年3月18日にトルコ西部のチャナッカレに全長3.6km、中央支間が2203mの橋が開通するまでの間、世界最長であった。(吊り橋の長さは中央支間の長さが基準になる)
計画自体は戦前からあったが技術的、軍事的問題(戦艦が通れなくなる)などから具体化には至らなかった。
戦後に具体化されてからも計画当初は新幹線を通す予定だったが経費削減で断念、道路専用橋として1986年に起工、完成まで10年かかった。
着工をうながした代表的な事故
明石海峡大橋を含む本州四国連絡橋(本四架橋)は、本州との安全な連絡を望む人々の声によって着工されることとなった。明石海峡大橋の場合、以下の事故が地元の機運を大きく高めることとなった。
せきれい丸沈没事故
戦後間もない1945年(昭和20年)12月9日、 播淡連絡船せきれい丸の沈没事故が発生。当日は晴天ながら台風並みの突風が吹き荒れていた。しかし港はひどい食糧難の中、家族を食べさせるために闇市に買い出しに行かなければならない人々や、魚や野菜などの生鮮食料を一刻も早く届けたい行商人であふれており、この事態を見かねた船長は出航を決断する。
戦後の混乱期であり、海でも陸でも定員を大幅に超える乗客を乗せるのが当たり前だった当時、せきれい丸も定員の3倍の人数を乗せていた。
しかし沖合に差し掛かった時、西からの突風と波しぶきを避けようとした人々が右舷に集中。重量バランスを失ったせきれい丸は転覆、沈没し、300名を超える死者・行方不明者を出す大惨事となった。なお、船長は救助を拒み、船と運命を共にしている。
- 当時は船長に運航に関する一切の権限があった。
- 当時の船長には元軍人・軍属が多く、船を失っておきながら命を永らえることは無責任だという教育を徹底されていたため、このような最期を選ぶことは決して珍しくなかった。この状態は彼らの世代が引退する、昭和中期まで続くことになる。
関連タグ
瀬戸大橋 瀬戸内海大橋・・・本州四国連絡橋(本四架橋)ルート
天空の難破船 - クライマックスに登場。