事件の内容
発生日時 | 1999年7月23日 |
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発生場所 | 東京都 羽田空港、八王子市上空 |
所属 | 全日空 |
犠牲者総計 | 1名(機長) |
負傷者総数 | 0名 |
機材 | ボーイング747-400D 登録記号JA8966 |
乗員 | 12名 |
乗客 | 503名(犯人、デッドヘッド(非番)のパイロット、客室乗務員を含む。) |
概要
1999年7月23日午前11時23分、羽田から北海道の新千歳空港に向けて離陸した全日空61便が離陸直後に当時28歳の男(以下、犯人)にハイジャックされた。彼は客室乗務員に包丁を突きつけ、コックピットに入れるよう要求した。その後、犯人はコックピットに侵入。副操縦士を追い出し、機長に高度を3000フィート(約900m。小型機やヘリが飛行する高度)に下げたうえで伊豆大島、横須賀方面へ飛行することを要求した。
そして犯人は自分に操縦させるように要求。当然ながら機長は拒否するも、これに逆上して機長を刺傷。操縦桿を握り機体を多摩方面へ向かわせた。追い出された副操縦士と上記の非番クルーらを中心とした一部乗客はハイジャック犯の様子をうかがっていたが、八王子市上空で機体が急降下。GPWS(対地接近警報装置)が作動し始める。墜落が近いことを悟った乗客たちはコックピットの扉を破り、犯人を拘束。デッドヘッドの機長が機体を上昇させる(この時の高度はわずか700フィート(約210m))。その際、急激に機首を上げたことで機体が失速。墜落しかけるも、機長が刺される前にオートスロットルを入れていたことで、間一髪墜落は避けられた。仮に墜落していた場合、乗員乗客のみならず地上にいた多数の市民も巻き添えになった可能性が高く、日本航空123便墜落事故の死者520人を超える日本の航空史上最悪の大惨事になり得た。
機体は副操縦士の操縦(デッドヘッド機長は他機種のライセンスしか持っていなかった)で無事羽田空港に引き返し乗客は全員無事だったが、機長は出血性ショックのために亡くなった。犯人は即時に逮捕され、2005年に無期懲役が言い渡された。
犯人
被疑者は都内出身の28歳。進学校を卒業後一浪の末に一橋大学に入学した。幼少期から鉄道が好きだったが、学園祭での出来事をきっかけに航空機に興味を持つ。パイロットを志し、フライトシミュレーションゲームを購入してプレイしたり、航空会社の自社養成パイロット試験を受けるも、結果は不合格。
卒業後はやむなくJR貨物に就職するも人間関係や仕事上のミス、単身赴任がきっかけで心を病み、退職した。それ以降は働かずに一日中家でフライトシミュレーターに没頭する生活を送るようになり、見かねた両親によって精神科を受診。統合失調症などと診断されたこともある。なお、フライトシミュレーターでは宙返りやレインボーブリッジくぐりなどのアクロバット飛行をするのが得意だった他、羽田の着陸パターンをすべて覚えるほどの没頭振りだった模様。
そんなある日、なんとなく見ていた羽田空港のパンフレットで手荷物受取場から逆走して出発ロビーに侵入することが構造上可能となっていることに気づく。その点を指摘(この際、実際にルートを通って呼び止められないことを確認したほか、学生時代に羽田空港でグランドハンドリングのバイトをしており、その際の記憶や経験もあったとのこと)する手紙を航空会社や空港事務所、運輸省に送り、改善と「せめて空港スタッフや警備員として雇ってほしい」と懇願するも相手にされなかった。これが直接的な動機だったという。
一方で、「ジャンボ機を操縦したかった」という元来の動機や、 「機長の『人生に疲れた』という心の声が聞こえた」といった意味不明な供述も残している。
事件当日、彼は他社便に乗って大阪に行き、東京へ帰ったタイミングで刃物入りの荷物を回収。そのまま逆走して出発ロビーに向かった。(この帰りの便の機材は当該機と同じ747-400Dであり、コックピットを見学している。)なお、本来は前日に行う予定だったが、家族に刃物や複数の航空券を発見され、計画を延期したとのこと。
ちなみに現在のIT企業などでは、自社のソフトのセキュリティホールを発見報告してくれた人物には謝礼金を出す企業も多い。セキュリティホールの悪用阻止や、セキュリティホールを見つけられるような人材を裏社会などにやらない為でもあり、放置しておくと本当に悪用されて自社のみならず顧客にも大損害を与えかねないからである。本件でも犯人の指摘を虚心に受け入れセキュリティの不備を直しておき(放置されていた不備を別の犯罪者に利用され、別の犠牲者が出た可能性もあった)、当人についても雇えないまでも感謝してきちんと謝礼を出すなどの対応をしていれば、本事件にまでは至らなかった可能性はある。
その後
事件を受け、運輸省は対策を実施。荷物受取場からの逆走ができないように警備員やゲートの設置を行ったほか、保安検査も現在に近い形に厳格化。保安検査を受けずに搭乗ができないように搭乗券もデータを含めて厳しく管理するようになる(この搭乗券のデータをEチケットと呼び、2008年までにIATA加盟航空会社に使用が義務付けられた)。さらにコックピットのドアも厳重にロックされ見学が禁止されたほか、銃弾でも破壊出来ないものが装備されるようになった。
生かされなかった教訓
一方でカッターナイフや鋏等刃渡り10㎝以下の刃物の持ち込みは許され続けたうえに、この事件を受けての対策は全世界には広まらず、現在のようなコートやポケットの中身を出すなどの厳格な保安検査、ドアの強化も他国では行われなかった。
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件発生。この事件のテロリスト達も61便の犯人同様に刃物を使って乗客・乗員を脅し、パイロットを殺害。機体を操縦してニューヨークのワールドトレードセンターやワシントンのペンタゴンに突入させた。(なお、残り一機では61便同様に乗客がテロリストへ抵抗、拘束を試みたが墜落。現場は平野で地上に大きな被害はなかったが搭乗者は全員死亡した。)
この事件を受けて、ようやく上記の対策が厳格に行われるようになり、刃物の持ち込みも禁止されたが、「61便の時点で行っておけば9.11は防げた」という意見も根強い。
関連タグ
航空事故 ハイジャック 犯罪 9.11 メーデー!航空機事故の真実と真相 無敵の人
ユーバーリンゲン空中衝突事故:日本で未遂と呼べる事案が起きたにもかかわらず、本格的な対策を行わなかった結果大惨事につながったという共通点がある。
浜田省吾:彼のバンドメンバー、スタッフが搭乗していた。当日の北海道ライブでは、機長に対して黙祷が捧げられた。
ユナイテッド航空232便不時着事故:こちらもデッドヘッドの機長が乗っていたため死者こそ出たが、被害を最小限に食い止めることができた航空機事故。
パシフィック・サウスウエスト航空1771便墜落事故:こちらも怨念を抱いた乗客(元航空会社社員)が保安検査をすり抜けて拳銃を持ち込み、自分を解雇した上司やパイロット、客室乗務員を射殺したのちに機体を操縦した事案。なおこの便にもデッドヘッドのパイロットが乗っていたが、拘束・立て直しをしようとした段階で殺害されてしまい、機体は墜落・粉砕され搭乗者は全員死亡した。ある意味61便のIFの結末であるといえる。