概要
中華航空140便墜落事故は、1994年(平成6年)4月26日に発生した航空事故である。中正国際空港(現:台湾桃園国際空港)発名古屋空港(現:名古屋飛行場/通称:小牧空港)行きの中華航空140便(エアバスA300-600R、コールサイン:Dynasty 140)が名古屋空港への着陸進入中に墜落し、乗員乗客271人中264人が死亡した。
この事故は中華航空が起こした事故としては最悪のものであり、日本の航空史上でも日本航空123便墜落事故(死者520人)に次ぐ惨事となった。
事故の経緯
140便は国際時間8時53分(日本時刻17時53分)に中正国際空港を離陸し、10時47分に降下許可を受け、11時7分にILSによる進入許可を得た。進入は副操縦士による手動操縦で行われた。
11時14分、1,070フィート (330 m)付近で副操縦士が誤ってゴー・レバーを作動させ、自動操縦の着陸復航モードが起動した。これにより推力が増加し、水平安定板も機首上げ位置に動いた。そのため、機体は降下せず水平飛行を開始した。
機長は副操縦士に着陸復航モードを解除するよう指示し、副操縦士は着陸経路に戻すため操縦桿を押した。機体は降下を再び開始したものの着陸復航モードは解除されておらず、水平安定板は-5.3から機首上げ位置の限界に近い-12.3度まで動いた。
11時15分、高度510フィート (160 m)付近で副操縦士がスロットルが固定されたことを告げ、機長が操縦を交代した。機長はスロットルを引き戻すとともに、操縦桿を強く押した。11時15分11秒、機長は「ゴー・レバー(GO LEVER)」と呼唱し、副操縦士が名古屋管制に「名古屋管制、ダイナスティ、着陸復航(Nagoya tower Dynasty going around.)」と伝えた。直後、スロットルが全開になり機体は急上昇を開始し、1,730フィート (530 m)付近まで上昇した。最終的にピッチ角は52度まで増加し、対気速度は87ノット (161 km/h)まで減少した。
日本人の生存者は、失速した後、パイロットが墜落すると客室に伝えたと話した。その後機体は失速し急降下し、11時15分(日本時刻20時15分)45秒に滑走路34から東北東110m地点の着陸帯に墜落してしまった。
事故調査
事故調査委員会はボイスレコーダーとフライトデーターレコーダの情報で、この飛行が副操縦士の訓練飛行だったことを知った。
副操縦士は緊張気味だったが、訓練教官である機長がリラックスの仕方などのアドバイスなどをしており、操縦席の雰囲気は良好だった。
いざ着陸となり、機長は助言するから手動着陸を一人でやってみなさいと指示する。
指示を受けた副操縦士は順調に降下をしていたが、偶然指先が復航モードのレバーに触れてしまい復航モードに移行してしまった。解除に苦戦する副操縦士に対して、機長は訓練の為ギリギリまで助言に専念し続ける。副操縦士が思うように操縦出来ない事を伝えてきた為即座に操縦を引き継いだが、引き継いで初めて操縦不能状態なのを知り、即座に復航を決め手動で浮上させた。だが、今度は宙返りしそうな程急上昇し、上昇を抑えようと副操縦士と共に操縦桿を押し込んだが機首は上がり続け低空で失速してしまい、最後には打つ手なしで墜落してしまった事が判明した。
調査委員会はなぜ解除に失敗したのか原因を調査。
その結果、副操縦士は車で例えると若葉マークもとれていない、免許取り立ての新人だった事が判明したが、社内評価は非常によく、直ぐにでも機長になれるのではといわれる次期エースパイロット候補だった。
機長はボーイングの機体操縦が主だったが、訓練でしっかりエアバスの特性を理解しており、訓練教官としても優秀で問題など無いと思われていた。しかし、操縦士達が知らない機体に関するある問題が調査していく中で発覚した。
新型のエアバス機は復航モードになった際は解除の為に特殊な操作が必要であり、その操作はゲームでいうコマンド入力のようなもので咄嗟には解除困難だった。
その証拠に、誤って復航モードに入った為に操縦不能になりかける事故が数件発生していた。
それを重く見たエアバスはコンピュータの仕様変更を決定し、操縦桿を強く押し込む事で即座に解除される仕様に変更する事を発表。各航空会社に修繕するように勧告したが、リコールのような強制力が無いものだった為中華航空はその要請を後回しにし、コンピュータメンテナンス時に一緒に仕様変更する方針を選んだため、欠陥が放置されてしまった。
そのうえ、中華航空はエアバスのフライトシミュレーターを持っておらず、業務提携していた航空会社に自社のパイロット達のシミュレーター訓練などを委託していた。
委託を受けた航空会社は訓練を実施したが、その訓練内容はコンピュータの仕様変更後が前提のもので在った為、誤って復航モードに入れた際はとにかく操縦桿を強く押し込んで解除せよとパイロット達は習っていた。
その為、修繕前の解除コマンドはパイロット達は一切習っていなかった。
その結果誤って復航モードに入った機体は上昇しようとしだし、副操縦士はそれを解除しようと習った通りに操縦桿を強く押し込んだが、コンピュータはその操作をヒューマンエラーと判断し、パイロットから操縦権を剥奪し上昇を続けてしまった。その事実を知らないパイロット達は操作権限が残されている機能で操縦しようとした結果、意図せず強硬着陸を行うような形となり、事態を悪化させてしまった。
そのうえ副操縦士は解除コマンドを免許取得研修の中で知ってはいたが、経験不足の為原因を特定出来ず、機長は単なる操作ミスで直ぐ対処可能だと思い込んでおり、絶望的な事態になるまで助言役に徹してしまっていた。その状況下で、習っている仕様と全く違う機体の動きで困惑し手動で上昇しようとした為、コンピュータからの上昇命令とパイロットからの上昇命令で許容範囲を大きく超える機首上げが起こり、垂直に近い姿勢となってしまった。パイロット達は上げすぎるなと機首下げ指示を出したが、コンピュータはそのまま上昇命令を出し続け、その上パイロット達の機首下げ命令は誤報であるとして無視され続けた。結果、機体は失速し操縦不能となり墜落してしまった事が判明した。
その後、エアバスは要請ではなくリコールとして再勧告を実施。強制的にコンピュータの仕様を変更させる事となった。
その後
この事故は中部国際空港建設促進のきっかけの一つになったとも言われている。
当時、同路線は(日本側の)日本アジア航空(現:日本航空)とともに不定期路線(ただ毎日運行しているので実質的には定期運行)扱いであった為に廃止もやむなしかと思われたが、その後は(復路の141便も含めて)同便は廃番となり、150便(復路は151便)と改名して、中部国際空港に移った現在も運行が続けられている。
この事故を契機に日本における中華航空の名称を現在の『チャイナエアライン』に変更した。
名古屋空港の直ぐそばには亡くなった方々の慰霊碑中華航空機墜落事故慰霊施設「やすらぎの園」が建てられた。
解説動画
関連タグ
ある意味では類似事例。電波高度計の不具合とパイロットの不手際の複合によって墜落した事例。なお、墜落時の姿勢はよく似ていたが、こちらは地面が柔らかかったことと、火災が発生しなかった事により、生存者はかなり多かった。
墜落時の姿勢(機首上げ失速/腹打ち墜落)という点では類似。なお、本事故からの派生で自動操縦装置の誤作動で機首上げに至ったケースは「オートボナン」と呼ばれる事がある。
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