概要
1929年4月3日-2011年8月5日。東京都出身。愛称はマエタケ。
立教大学に入学するも中退し、1953年にテレビ放送が開始されるとNHKの放送作家としてラジオ・テレビの台本を手掛ける。
1960年代、それまで台本を読み上げて行く形式が一般的だった番組司会にフリートーク・楽屋オチといった手法を持ち込み、自身もその毒舌と絶妙な話術から「フリートークの天才」と呼ばれた。
司会者として
『夜のヒットスタジオ』『ゴールデン洋画劇場』(フジ系)、『前武・巨泉のゲバゲバ90分!』『笑点』(日テレ系)などに出演し人気を博す。
『夜の~』では「あだ名の天才」としてアシスタントの芳村真理はじめ、出演者にニックネームを付けたり、若手女性歌手を泣かせるほどの毒舌を発揮していた。
『笑点』では回答者との軋轢により降板した立川談志に代わり2代目司会者に就任。乱暴で下品な発言を多用していたブラックユーモア路線の談志とは打って変わって、上品でウィットに満ちた司会ぶりで、「笑点のテーマ」の作詞を担当、大喜利の回答を多く出してもらう、コスチューム大喜利を取り入れるなどバラエティ色の強いアットホーム路線に転換した。
談志ほどではないものの、大喜利の問題の方向性で回答者との間に相違があり(桂歌丸は自著で「落語家のシャレが通じなくてやりにくかった」と述懐している)わずか1年余りの司会担当に終わるも、放送作家として大きく貢献しており、彼がいなければ『笑点』の歴史はここで終了していたとも言われる。
夜ヒットバンザイ事件
1973年、参議院議員選挙で日本共産党に所属する議員の応援演説をした際、「当選したら『夜ヒット』でバンザイします」と宣言。この議員は当選し、延いては国政補欠選挙で初めて共産党候補が自民党候補を破った選挙となったこともあり、前田は約束通りその日の『夜ヒット』エンディングでゲストに向けてバンザイをした。
これが「マエタケ、共産党候補当選にバンザイ」と大々的に報道されて当時フジテレビ社長の鹿内信隆氏の怒りを買い、同年9月をもって『夜ヒット』を降板。その後暫くはメディア出演の機会を失ったが、1980年代前半にTBS系情報番組『朝のホットライン』で「お天気マン」として出演して以降は本格復帰を果たした。