ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

一柳直盛

ひとつやなぎなおもり

安土桃山時代〜江戸時代前期の武将・大名。尾張黒田城主・伊勢神戸藩主を歴任し伊予西条藩初代藩主となった。
目次 [非表示]

安土桃山時代江戸時代前期の武将・大名。

概要編集

プロフィール編集

生没年:1564年〜1636年

通称:四郎右衛門

諱:三政→直盛

官位:従五位下監物


生涯編集

一柳直高の次男。『一柳家記』によれば1578年、羽柴秀吉に仕え播磨国2500石の知行を与えられた兄・直末に呼び寄せられ、姫路近辺に90石の知行地を与えられて兄の被官となった。以後直盛は兄に従って武功を立てた。


初陣は1579年の備中宿毛塚城攻め。その後、鳥取城備中高松城攻めにも従軍(1582年初陣説ではこの両城への攻撃には参加していない)。賤ヶ岳の戦いにおいては兄と共に大垣城からの強行軍で兄と共に秀吉に随行し、秀吉から認められ「先懸衆」の一人を務めた。のちの小田原攻めでも武功を上げたが、伊豆山中城の戦いで直末が戦死してしまう。戦後、秀吉からは家督継承を許され尾張国黒田城(現愛知県一宮市木曽川町黒田)3万石の大名となった。ただし、直末には幼少の息子・松千代がいたため、直盛は兄の遺領のうち3万石のみを継ぐことになったとも言い、直盛は所領を預かったのだともされる。このほか(自身の家老だった)直末の戦死を不愍に思った豊臣秀次から、直盛母に508石余が与えられたという。なお松千代はのちに母の兄である黒田官兵衛に引き取られるが夭折、播磨小野藩一柳家文書の『丙午録』によれば、家督相続をめぐって一柳家中に争いが生じたことが背景にあると述べられるなど直盛の家督に伴ういざこざはあったようである。1591年、従五位下監物に叙せられた。武将としてのみならず秀次に属して各地で奉行として検地に携わった記録が残っている。


秀次事件で一柳家も巻き込まれ従兄弟の直秀は秀次に連座し切腹させられた。直盛自身は秀次や直秀に連座しなかったが秀吉の没後は徳川家康に従う。その後、家康率いる上杉景勝討伐軍に従軍、関ヶ原の戦いでも戦功を挙げ黒田城から(かつて織田信孝が居城にしていた)伊勢神戸城に栄転し伊勢神戸初代藩主となる。のち1614年からの大坂の陣でも功を挙げ、家康以後も徳川秀忠家光の上洛や日光東照宮への社参に供奉した。さらに1633年には九鬼久隆(嘉隆の孫、守隆の五男)が志摩鳥羽から摂津三田に転封された後の鳥羽城守衛を命じられている。


1636年、父祖の地である伊予国への転封を家光に請うて許され1万8000石余を加増の上、伊予西条へ転封。これにより、伊予国新居郡・宇摩郡・周敷郡および播磨国加東郡にまたがる6万8000石余の領主となった。ただし家光の命によって加増分のうち加東郡内の5000石を次男の直家に分与したので、直盛の所領は都合6万3000石余である。しかし西条へ赴く途上、大坂にて病死し伊予の地を踏めなかった。享年73。

遺骸は大坂上寺町の大仙寺に埋葬され、伊勢神戸の龍光寺には髪塚がある。直盛の遺領6万3000石余は分割、西条藩を継いだ長男の直重が3万石を相続、また次男の直家が2万3000石余(伊予川之江藩→播磨小野藩)、三男の直頼が1万石(伊予小松藩)をそれぞれ相続した。その後嫡流は直重の子直興の代で改易されるが、小野藩と小松藩は廃藩置県まで存続した。


家族編集

家族については直末の項目も参照。

家祖:一柳宣高…一柳氏祖。伊予河野氏出身。

父:一柳直高

兄:一柳直末

子:一柳直重、一柳直家

従兄弟:一柳直秀…通称は右近。


フィクションにおける一柳直盛編集

ゲーム編集

天翔記PKで初登場。その後は嵐世紀・創造・新生で登場。天翔記では戦才152だが政才82に智才58と猪武者寄りだった。創造では統率70・武勇57・知略61・政治52、新生が統率63・武勇62・知略60・政務53と戦闘と引き換えに政治や知略は向上している。


関連タグ編集

戦国武将 豊臣秀吉

関連記事

親記事

戦国武将 せんごくぶしょう

兄弟記事

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました