概要
プロフィール
生没年:1564年〜1636年
通称:四郎右衛門
生涯
一柳直高の次男。『一柳家記』によれば1578年、羽柴秀吉に仕え播磨国2500石の知行を与えられた兄・直末に呼び寄せられ、姫路近辺に90石の知行地を与えられて兄の被官となった。以後直盛は兄に従って武功を立てた。
16歳になった1579年、備中宿毛塚城攻めで初陣を飾り鳥取城攻めでも軍功を上げ、備中高松城攻めにも従軍。賤ヶ岳の戦いにおいては兄と共に大垣城からの強行軍に秀吉に随行した。この時、秀吉は直末にもう一人は誰かと問い、直末が「弟の四郎右衛門と申す者です」と答えると、秀吉は「兄に劣らぬ者である」と大声で褒めたという。この戦いで直盛は「先懸衆」の一人を務め、武名を大きく上げた。
小田原攻めの前哨戦である山中城の戦いで直末が戦死し、動揺した一柳勢を直盛がとりまとめて奮戦。この時の戦功で、秀吉から家督継承を許され尾張国黒田城(現愛知県一宮市木曽川町黒田)に3万石の領地を与えられた。ただし、直末に幼少の息子・松千代がいたため、直盛は兄の遺領のうち3万石のみを継ぐことになったとも言い、直盛は所領を預かったのだとも。このほか直末の戦死を不愍に思った豊臣秀次から、直盛母に508石余が与えられたという。なお松千代はのちに母の兄である黒田孝高に引き取られるが夭折、小野藩一柳家文書の『丙午録』によれば、家督相続をめぐって一柳家中に争いが生じたことが背景にあるという。1591年、従五位下監物に叙せられる。秀次に属して各地で奉行として検地に携わった記録が残り、1592年には秀次から直盛に5000石を加増されたという。
秀吉の没後は徳川家康に従い、関ヶ原の戦いでは東軍に付き伊勢神戸藩主となる。1614年からの大坂の陣でも功を挙げた。以後、徳川秀忠・徳川家光の上洛や日光社参に供奉、1633年には九鬼久隆が摂津三田に転封された後の鳥羽城守衛を命じられている。
1636年、父祖の地である伊予国への転封を家光に請うて許され1万8000石余を加増の上、伊予西条へ転封。これにより、伊予国新居郡・宇摩郡・周敷郡および播磨国加東郡にまたがる6万8000石余の領主となった。ただし家光の命によって加増分のうち加東郡内の5000石を次男の直家に分与したので、直盛の所領は都合6万3000石余である。しかし西条へ赴く途上、大坂にて病死し伊予の地を踏めなかった。享年73。
遺骸は大仙寺(大阪上寺町)に埋葬され、伊勢神戸の龍光寺には髪塚がある。直盛の遺領6万3000石余は分割、西条藩を継いだ長男の直重が3万石を相続、また次男の直家が2万3000石余(伊予川之江藩→播磨小野藩)、三男の直頼が1万石(伊予小松藩)をそれぞれ相続した。その後嫡流は直重の子直興の代で改易されるが、小野藩と小松藩は廃藩置県まで存続した。
家族
家祖:一柳宣高…一柳氏祖。土岐頼芸より姓名を決められたとされる。
父:一柳直高
兄:一柳直末…秀吉に仕え黄母衣衆(馬廻から選ばれた親衛隊)に選ばれた。山中城の戦いで戦死。
従兄弟:一柳直秀…通称は右近。彼も秀吉に仕え、武功を挙げて黄母衣衆の一人となり、桑名城主となり伊勢検地奉行を務める。秀次事件に巻き込まれ切腹。
フィクションにおける一柳直盛
ゲーム
- 信長の野望シリーズ
天翔記PKで初登場。その後は嵐世紀・創造・新生で登場。天翔記では戦才152だが政才82に智才58と猪武者寄りだった。創造では統率70・武勇57・知略61・政治52、新生が統率63・武勇62・知略60・政務53と戦闘と引き換えに政治や知略は向上している。