杉谷善寿坊
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すぎだにぜんじゅぼう
安土桃山時代の狙撃手。
生没年:?~天正元年9月10日(1573年10月5日)
肩書:諸説あり
鉄砲の腕が優れていたこと以外はまったく詳細が分かっておらず、甲賀忍者の一人とも、杉谷城の城主とも、雑賀衆とも根来衆とも、あるいは賞金稼ぎの浪人ともいわれている。
織田信長を狙撃した理由としては、かつての近江国主であった六角義賢の依頼を請けてのものであるという説が最も有力だが、浅井長政による命令であるとか、ただの腕試しであるとも言われる。
元亀元年(1570年)4月、信長は越前の朝倉義景を攻略していたが、義兄弟の浅井長政(信長の妹・市が長政のもとに嫁いでいた)の奇襲を受け、翌月に岐阜城に命からがら逃げ帰ろうとしていた。善住坊は伊勢方面へ抜けるため近江国の千草越え(千種街道)を通過していた信長を狙撃する。20数mもの距離から撃ったものの、信長はかすり傷を負っただけだった。
暗殺されかけたことに激怒した信長は、徹底した狙撃犯の捜索を行った。善住坊は逃亡生活を続けたものの、近江国高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを領主・磯野員昌(浅井家臣だったが、武勇を信長に買われ、織田家臣となっていた)に逮捕された。
織田家に引き渡された後は、首から下を土中に埋められ、鋸引きの刑に処された。本来ののこぎりは鉄製だが、このとき使われたのこぎりは竹製で、より苦痛を長引かせるために信長が考案したものであった。
なお宣教師のフロイス著書『日本史』にも、名前不明ながら「ある仏僧が立ったまま生き埋めにされた」という記述があり、これが善住坊ではないかとも言われる。
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