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安土桃山時代の武将・大名

メインイラストは戦国大戦カードイラストコンテストでの姿。


概要編集

プロフィール編集

生没年:1546年(天文15年)または1553年(天文22年)~1590年(天文18年)

幼名:熊

通称:市助、市介

諱:直末、末安

官位:従五位下伊豆守


ルーツ編集

一柳氏は伊予戦国大名河野氏に繋がるとされる。家伝によると家祖である宣高は父の死後、大永年間(1521年〜1528年)にに伊予を去り美濃国厚見郡西野村(岐阜県岐阜市)に移り住んだのが始まりとされ、一柳姓は土岐頼芸に決められたという。宣高は河野通直(弾正少弼)の子とされているが通直の生没年(1500年〜1572年)からして矛盾があることやその諱から宣高は通直の兄弟で父は河野通宣(刑部大輔、1519年没)の可能性があるが、一柳氏と河野氏の具体的な繋がりはわかっていない。ちなみに家紋は一柳氏は「釘抜き」、河野氏は「折敷に三文字」である。


生涯編集

一柳直高の長男。母は稲葉一鉄の姪(姉の娘)。先述の祖父・宣高は頼芸が斎藤道三に美濃を追われた後も終生頼芸に付き従ったとされる。直高は誰にも仕えなかったとも斎藤義龍斎藤龍興織田信長に仕えたともいう。

直末は1570年より信長の家臣の木下秀吉(のちの羽柴秀吉豊臣秀吉)に仕えた。1573年の北近江浅井長政との戦いでたびたび武功を挙げ浅井氏滅亡後、小谷(のち長浜)13万石を領した秀吉から親衛隊である黄母衣衆に任ぜられ、同時に250貫の知行と感状を与えられたという。

1578年、秀吉に従って播磨国に転戦し別所長治との戦いに従軍。播磨国で2500石の知行を得て、美濃にいた弟の直盛を呼び寄せ被官とした。1579年の鳥取城攻めに従軍。翌1580年に父が没し遺領を相続。1582年には備中高松城攻めや山崎の戦いに従軍。同年末には山城槇島城主のち近江勢田城主となり1万5000石の大名となった。

1583年の賤ヶ岳の戦いにも参加し、直末は加藤光泰とともに軍奉行を務めた。この戦いで直盛が秀吉から激賞され以後、秀吉の「先懸衆」となった。

1584年の小牧・長久手の戦いの際には竹ヶ鼻城攻めを行い、戦後これを与えられたという。その後は1585年の第二次紀州征伐四国征伐さらに佐々成政攻めにも従った。

同年閏8月、秀吉の甥・豊臣秀次は近江国を与えられ八幡山城を本城とし、直末は田中吉政中村一氏堀尾吉晴山内一豊らとともに秀次の宿老(年寄)となった。のち直末は秀吉の勘気を蒙った光泰に替わって美濃国大垣城に移る。この時、光泰の罪状を記した直末宛の書状は、部将たちに示した公開訓戒状であるとともに征服の意思を示したものとしても知られる。また秀次を「折々見廻申候様」申し付けられて八幡付近でも1000石を領している。これは一説に秀次の相談役の役割も任されたものと推測されている。


同年11月の天正地震では大垣城が倒壊・炎上し、直末は辛うじて難を逃れたが、浅井攻めで得た感状を失ったという。その後、従五位下伊豆守に叙せられた。

1590年、小田原攻めに参加。3月29日、伊豆国山中城攻めでは中村一氏とともに先鋒を務めたが、間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死。享年は45(『寛永譜』『寛政譜』)または38(『一柳家史紀要』)

首は、敵の手に落ちないよう従僕が持ち去り、山中城攻めの拠点であった長久保城にほど近い下長久保村(現在の静岡県駿東郡長泉町下長窪)に埋めたとされ現在も同地に「首塚」がある。


陣中にあった秀吉は直末討死の報告を聞いて「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、3日間ほど口をきかなかったという(『一豊公記』)。『一柳家記』によれば、朝食中の秀吉に黒田官兵衛が「伊豆守(直末)手負候」と報告すると、秀吉は食事を吐き出して手負とは討死かと聞き返し、官兵衛がその通りと答えると、「城を攻め破っても無益である、関東にも代えがたいのが伊豆守であった」と語って膳の上に落涙したという。これは秀吉の小姓で朝食を配膳していた蒔田広定(権之助)が直盛に語ったこととされ、三木の陣中で竹中半兵衛を失った時に匹敵する嘆きようである。


直末には子の松千代がいたため、秀吉の命で直盛は遺領から3万石を与えられた、あるいは直盛が所領を預かったともいう。のちに松千代は黒田家に引き取られるものの、1603年に早世。直盛は尾張国葉栗郡の黒田城主となり、関ヶ原の戦いを越えて近世大名としての地盤を築くことになる。


人物編集

  • 粟田口吉光の作になる短刀厚藤四郎を所持していた。現在は国宝であり、厚藤四郎は室町時代には足利将軍家に伝えられていたが、流出したものを本阿弥祐徳が購入し、祐徳から直末に譲られたという。直末ののち黒田官兵衛の手に渡り、豊臣秀次に献上された。

家族編集

  • 一柳宣高⋯一柳氏祖、直末の祖父。
  • 一柳直高:直末の父。
  • 一柳直盛:直末の弟。
  • 南化玄興:直末の叔父。直末が1586年に開基建立した大通院の初代住持となった。
  • 一柳直秀⋯直末の従兄弟。通称は右近。秀吉の黄母衣衆の一人。桑名城主となり伊勢検地奉行を務めるも秀次事件に巻き込まれて切腹。

関連タグ編集

戦国武将 一柳氏 豊臣秀吉


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