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生没年 1546(天文15)年または1553(天文22)年~1590(天文18)年

官位 従五位下 伊豆守


一柳氏は伊予の大名・河野通直の子・宣高が、美濃西野村(岐阜県岐阜市)に移り住んだのが始まりとされる。母は稲葉一鉄の姪(姉の娘)。


生涯編集

1570(元亀元)年より、織田氏の家臣・木下秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕えた。73(天正元)年の浅井氏との小谷城の戦いでたびたび武功を挙げ、戦後長浜城主となった秀吉から黄母衣を預けられた7人(黄母衣衆)のうちの1人となり、同時に250貫の知行と感状を与えられたという。

78(天正6)年、秀吉に従って播磨国に転戦、三木合戦に従軍。播磨国で2500石の知行を得て、美濃国にいた弟の直盛を呼び寄せ、被官とした。79(天正7)年の秀吉による因幡国への侵攻に従う。80(天正8)年に父が没しており、遺領を相続。82(天正10)年には備中高松城攻め・山崎の戦いに従軍。同年末には山城槇島城主となり知行1万石。その後、近江勢田城に移って知行1万5000石を獲得。

83(天正11)年の賤ヶ岳の戦いにも参加。『一柳家記』によれば、直末は加藤光泰とともに軍奉行を務めた。この時に先鋒となった「先懸衆」のうち、直盛と稲葉清六が直末の家臣であった。

84年、小牧・長久手の戦いの際には竹ヶ鼻城を伊藤牛之助とともに攻め(竹ヶ鼻城の戦い)、これを与えられたという。85年の紀州征伐の際には千石堀城攻めに加わった。その後、四国攻め(四国平定)、佐々成政攻めにも従った。

85年閏8月、秀吉の甥・豊臣秀次は近江国に20万石(宿老分合わせて43万石)で移され、以後八幡山城を築城。直末は、田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らとともに秀次に宿老(年寄)として重要な地位に付けられた。この時直末は美濃国大垣城に2万5000石、ほかに八幡山城の秀次を「折々見廻申候様」申し付けられて八幡付近で1000石を領した。歴史学者・小和田哲男は「宿老」とはいうものの、時折八幡山に出仕する相談役の役割を任されたものと推測する。

大垣城主(美濃の蔵入地代官を兼ねる)への移転については、前任の加藤光泰が秀吉の勘気を蒙ったのに替わるもので、光泰の罪状を記した直末宛の書状は、部将たちに示した公開訓戒状であるとともに、「国(のこと)」征服の意思を示したものとしても知られる。同年11月29日の天正地震では大垣城が倒壊・炎上し、直末は辛うじて難を逃れたが、浅井攻めで得た感状を失ったという。

85年には従五位下伊豆守に叙せられた。86年には、一柳直末を開基、南化玄興(一柳家出身で、直末の叔父)を初代住持として、妙心寺に塔頭の大通院を開いた。

90年、小田原攻めに参加。3月29日、伊豆国山中城攻めでは中村一氏とともに先鋒を務めたが、間宮康俊の軍の銃弾に当たり戦死。『寛永譜』『寛政譜』では享年45とあるが、『一柳家史紀要』では38歳とある。動揺した一柳勢を直盛がとりまとめて奮戦しており、その日のうちに山中城を陥とすことに貢献した。直末の首は、敵の手に落ちないよう従僕が持ち去り、山中城攻めの拠点であった長久保城にほど近い下長久保村(現在の静岡県駿東郡長泉町下長窪)に埋めたと言い、現在も同地に「首塚」がある。

陣中にあった秀吉は直末討死の報告を聞いて「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、3日間ほど口をきかなかったという(『一豊公記』)。『一柳家記』によれば、朝食中の秀吉に小寺官兵衛(黒田孝高)が「伊豆守(直末)手負候」と報告すると、秀吉は食事を吐き出して手負とは討死かと聞き返し、官兵衛がその通りと答えると、「城を攻め破っても無益である、関東にも代えがたいのが伊豆守であった」と語って膳の上に落涙したという。これは秀吉の小姓で朝食を配膳していた蒔田広定(権之助)が直盛に語ったこととされている。


直末には子の松千代がいたため、秀吉の命で直盛は遺領から3万石を与えられた、あるいは直盛が所領を預かったともいう。のちに松千代は黒田家に引き取られるものの、1603年に早世。直盛は尾張国葉栗郡の黒田城主となり、関ヶ原の戦いを越えて近世大名としての地盤を築くことになる。


人物編集

  • 粟田口吉光の作になる短刀厚藤四郎を所持していた。現在は国宝であり、厚藤四郎は室町時代には足利将軍家に伝えられていたが、流出したものを本阿弥祐徳が購入し、祐徳から直末に譲られたという。直末ののち黒田孝高の手に渡り、豊臣秀次に献上された。

家族編集

  • 一柳宣高⋯一柳氏祖。土岐頼芸より姓名を決められたとされる。
  • 一柳直高⋯直末父。
  • 一柳直盛⋯直末弟。
  • 一柳直秀(諱/一柳右近⋯直末・直盛兄弟は従兄弟。秀吉に仕え、武功を挙げて黄母衣衆の一人となり、桑名城主となる。豊臣政権官僚としても活動し、伊勢検地奉行を務める。のち秀次事件に巻き込まれて切腹。

関連タグ編集

戦国武将 一柳氏 豊臣秀吉



参考編集

  • ウィキペディア
  • 信長の野望非公式ウィキ

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