概要
1585(天正13)年、紀州征伐や四国征伐で軍功を立てた羽柴秀次は、叔父で養父である豊臣秀吉から南近江20万石と重臣分23万石の計43万石を与えられた。
秀吉はかつての主君であった織田信長の最後の居城・安土城を廃城とし、新たな近江の中心として蒲生郡の八幡山に八幡山城を築城し、秀次に与えた。
築城の際には安土城の建材を使用し、城下町も移転させている。
秀吉の狙いは周辺の水口岡山城に中村一氏(6万石)、佐和山城に堀尾吉晴(4万石)、長浜城に山内一豊(2万石)、美濃大垣城に一柳直末(2万5千石)の4つを置いて、交通・軍事の要衝である近江最大の軍事拠点として八幡山城を活用することであった。
しかし安土城に比べて斜面が険しく、山城としては上手く機能出来ず麓に館を築くこととなった。
1590(天正18)年、秀次は小田原征伐の功績により尾張清洲へ移封となり、変わって京極高次が2万8千石で入城したが、1595(文禄4)年に秀次が自害を命じられた際に聚楽第などと共に廃城をさせられた(高次は大津城へ移った)。
廃城となった後も城下町は中山道の宿場町(武佐宿)として栄えた。