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佐和山城

さわやまじょう

佐和山城(さわやまじょう)は、近江国坂田郡(滋賀県彦根市)の佐和山にあった中世中期から近世初期にかけての日本の城(山城)。
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概要編集

佐和山城(さわやまじょう)は、近江国坂田郡(現滋賀県彦根市)の佐和山にあった中世中期から近世初期にかけての日本の城(山城)。

坂田郡および直近の犬上郡のみならず、戦国時代安土桃山時代において畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも重要な拠点であった。


構造編集

山上には本丸を中心として西ノ丸・二ノ丸・三ノ丸があり、また隣接する尾根に太鼓丸・法華丸の2つの曲輪がある。東山道に接する大手方面には、谷戸を塞ぐ形で内堀で区画された侍屋敷地が二箇所あり、更にその外側に城下町と外堀がある。琵琶湖に接する搦手口にも城下町があり、湖には百間橋が架かっていた。

本丸を除き、他の山上曲輪は実際には複数の曲輪で構成された。

現在、本丸跡のある山頂には三等三角点「石ヶ崎」が設置されており、標高は232.57mである。


歴史編集

16世紀半ばには北近江の戦国大名浅井長政配下の猛将である磯野員昌の居城だった。員昌はのち織田信長に降るも信長の勘気を受けて逐電。その後は信長配下の丹羽長秀豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とした。しかし、関ヶ原の戦い後の佐和山攻めで小早川秀秋らに攻められ落城。のち井伊直政が入城して直政は佐和山藩初代藩主となった。直政死後、後を継いだ井伊直継の代で彦根城へ移転し藩名も彦根藩に改められた。佐和山城は直継が彦根城に移転した際に廃城となったが、直継はこの時徹底的に破城しており、特に本丸の天守台では9間(15メートル前後)を切り落としたと伝えられている。本丸自体も岩盤が露出するまで破壊され、石垣も殆ど撤去された。


関連タグ編集

 彦根藩 彦根城

石田三成 井伊直政

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