泣いて馬謖を斬る
ないてばしょくをきる
由来
三国時代の蜀の武将馬謖が街亭の戦いにおいて、諸葛亮(孔明)の指示に従わなかった結果大敗を喫してしまった。馬謖は孔明や同僚から再三、防勢に徹しろと注意を受けていたにも拘らず、攻勢に出ようと山に上って布陣する。結果、防衛線を素通りされたばかりか、水路まで破壊される大損失を被った。
さらに馬謖はあまり失態の大きさから、責任を追求されることを恐れて撤退中に職責を放棄して逃走を図るも失敗し、軍規に違反した罪で捕らえられてしまう。この責任を取るため馬謖は孔明から死罪を言い渡されるが、愛弟子でもあった馬謖の処刑に際し孔明は涙を流したという。
そこから転じて、「組織の規律を守るため、大失態を犯した者はたとえ寵愛する部下であったとしても容赦なく処罰しなければならない」という例えとなった。
一方で「泣くほどなら自分で斬らなきゃよかったのでは?」という、野暮ながら尤もな疑問もついて回っている。しかし馬謖が処断されたのは、「命令違反」以上に「責任逃れのために失踪を図った」の件であり、また馬謖も30代後半という将兵として責任ある言動を求められる年齢に達していた。
つまり「一軍の将が浮き足だった姿勢で戦に挑んだ末に大失態を犯した上に職責から逃げた」という、家臣団や後進にどうあってもケジメのつかないしくじりを犯した以上、見せしめの意味も込めて孔明自身の手で処断するしか示しがつかなかったのである。
ただ孔明が泣いた理由については、史記と演義で差異があり、史記ではそのまま「馬謖という将来有望な弟子を殺さなければならなくなった」ためとしている。しかし演義では、劉備が生前に馬謖に不信感を持っていたことを知りながら人材不足を理由に馬謖を将にしたため、「亡き主君の直感を信じるべきだった」という後悔の涙と解釈されている。
馬謖がこれほど強気に攻めに転じようとした理由については、街亭が長安という魏領の大都市に繋がる前線基地であり、当時の情勢から攻勢に出て魏との今後の戦いを優位に進められる重要な分岐点となっていたためというのが定説である。「今こそ攻め時」という意見も蜀軍内にあったが、孔明は慎重路線を採って防衛戦を選択した。
だが馬謖も攻勢派に賛同し、自分が動けば師孔明も自分の意図を察して軍を動かしてくれるだろうと考えた――という訳である。馬謖の意図についてはどの資料にも残っていないため、真偽については未だ不明である。