概略
三国志の著者である陳寿は、西暦233年に蜀に生まれ、蜀に仕えた。蜀は魏によって滅び、そして魏もまた晋に王朝交代した。陳寿は、学才を買われ晋王朝に仕えた人物である。
陳寿は晋において治書侍御史という官職となっており、これは書物を管理する役目を負っていた。このように、陳寿は魏の諸資料を利用できる地位にあり、また自身は蜀での歴史を肌で知っていた。これらに加え、呉の滅亡後は、晋にやってきた呉の重鎮にも取材をすることが可能となり、これらをまとめて西暦285年に『三国志』65巻を完成させた。
その中に、魏王朝と関係のあった諸種族の記録があり、そのひとつ「烏丸鮮卑東夷伝」の「倭人条」がある。これを日本では『魏志倭人伝』と称している。
(正確には、倭人だけで伝が立てられているのではなく、東の異民族の一つとして言及されている)
記紀神話と魏志神話
倭国、すなわち後の日本に関する内容は、あわせて2000字となっている。邪馬台国の卑弥呼や台与の伝説が書かれている。また、邪馬台国の他に日本列島にあったとされる国々(伊都国、奴国、一大国など)にも言及されている。
『魏志』倭人伝によれば、もともと「倭国」は、男子を王としていた。
「倭国」の形成は2世紀初めごろとされ、それから70~80年程たったころ、国内に混乱が生じたとし、これを『魏志』倭人伝は、何年にもわたって「倭国」が乱れたと書いている。
そこでこの大乱を収めるべく諸勢力がともに一人の女性を「王」の位につかせる。
この女性の本名は不明であるが、君主の地位についてからは卑弥呼と呼ばれるようになった。
卑弥呼の後、もう一度「男王」に戻そうとするが、国内がまとまらず、また争いが起こったのでしかたなく、卑弥呼と血のつながりはある台与を王につけて、なんとかおさまった。
卑弥呼は「鬼道」をつかさどるという宗教的な権威で、国内をまとめていたとする。
史料的価値
古代日本について記された最古の同時代資料であり極めて重要な資料である。
地理、政治、社会、習慣、産物などが事細かに記されており、大部分が史実とみられている。倭国の使いが魏に送られた他、魏の使者が倭国に赴いたこともあるとされ、陳寿はその記録を用いて倭国の様子を記したと考えられている。
ただし、著者である陳寿が、実際に日本を訪問して書かれた文献ではないため、一部には間違いが紛れている可能性もある。
大まかには、以下の通り。
- 男子は身分に関わらず、入れ墨をしている。これは水難を退ける呪いである。国によって入れ墨の形が異なる。
- 漁が盛んであり、素潜りで魚や貝を捉える。
- 風俗は淫らではない。廣東儋県(現在の広東省付近と思われる)に似ている。国の身分の高い者はみな四、五人の妻を持ち、身分の低い者もあるいは二、三人の妻を持つ。
- 衣服は布をまとう貫頭衣である。靴は履かず、裸足である。
- 稲を植え、蚕を育て、糸を紡ぐ。温暖であり、冬でも生野菜を食べる。
- 牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない。猿や雉はいる。
- 武具は矛、盾、弓を用いる。矢じりは鉄や、動物の骨を使う。
- 人が集まる時、そこに男女の差はない。倭人は酒好きである。
この後150年間は倭に関する歴史書が残っておらず、現代日本では空白の4世紀などと呼ばれる。
次に見えるのは宋書の夷蛮伝であり倭の五王について言及される。