概要
司隷河東郡襄陵県出身。
元の名は「賈衢(かく)」とのこと。子に賈充、孫娘(賈充の娘)に賈南風(西晋の恵帝・司馬衷の皇后)等がいる。
元は名家であったが、10代前半に両親が死没したため、貧しい暮らしを余儀なくされた。だが、賈逵はそのような環境でも兵法などの勉学に励んでいたため、祖父から「大人になれば将軍に出世する」と評価された。
のちに郡の役人となり、絳の邑長となるが、袁尚軍の郭援(鍾繇の甥)が乱を起こして平陽城を目指して進軍し、道中にある県が次々と降伏する中、賈逵だけが籠城して抵抗した。郭援は異民族軍と合流して激しく攻め立てたため、落城は免れない状況だったが、絳の長老達は郭援に賈逵の助命を嘆願した。賈逵の名声が高いことを知った郭援が賈逵を部下にしようとしたが、賈逵はこれを拒否して郭援を「逆賊」と罵ったため、激怒した郭援は賈逵を殺そうとした。だが、絳の官吏民衆が猛抗議して徹底抗戦の構えを見せ、郭援の側近たちの多くもが賈逵を義士であると言い、処刑を免れるよう請願したので取り止めた。その間に賈逵は郡に使者を送り、要害である皮氏の地の占拠を勧めると共に、郭援の参謀を騙して、七日間郭援軍を遅延させた。そして、河東郡はまもなく、郭援の反乱を鎮圧することに成功した。
その賈逵の働きが孫資によって世間に伝えられたため、賈逵は茂才となり、澠池県令となった。のちに高幹(袁紹の甥)が反乱を起こした際、張琰という人物がこれに呼応しようとした。だが、賈逵は一計を用いて張琰の兵力を騙し取り、澠池の反乱を一掃して張琰も破った。その後、祖父の喪により官を去った。
朝廷の実権を握った[[曹操][]の招きを受けて司空掾となり、さらに議郎となり司隷の軍事を担った。
曹操が洛陽で死去するとその葬儀責任者を務める。長安から駆け付けた曹彰が印璽のありかを尋ねられたが賈逵はそれを厳しく退けて、棺を太子の曹丕がいる鄴に奉じた。
曹丕が魏王になると、賈逵は鄴県県令となり、やがて魏郡太守に昇進した。
豫州刺史を任されたが、隣の揚州都督の曹休とは仲が悪かった。
228年に曹休が呉に侵攻(石亭の戦い)をしたが、深入りしすぎて敵の奇襲に遭って軍が壊滅状態となり、曹休自身も危うく命を落としそうになったが、賈逵が援軍に現れたことで何とか命を取り留めている。だが、曹休は賈逵に対し「救援に来るのが遅かった」と逆恨みし、しかも敗戦の責任を転嫁するような上奏をしたため、賈逵はやむを得ず弁明の上奏をしたという。
その後、曹休は敗戦のショックにより悪性の腫瘍を患い、間もなく死去すると、賈逵も病気に罹って危篤に陥り、「国の厚恩を受けながら、孫権を斬れずして先帝にお会いする事になるとは無念だ。私の葬儀のために何かを新しく作ったり修繕したりせぬ様にな」と言い残して急死した。
『三国志演義』では、曹操の死後、大軍を率いて上京した曹彰を諫めて兵権を返上させた。その後、豫州刺史となり江東の警戒に当たる。
石亭の戦いでは、呉の周魴が髪を切って投降の意志を示したが、それが偽りだと唯一見抜き曹休に進言するも、曹休の怒りを買い後軍を任されている。しかし曹休が呉軍に大敗すると読んでいた彼はいち早く救援に向かって曹休の窮地を救い、曹休から感謝されている。