概要
卑しい身分の歌妓であったが曹操の側室、後に曹操の正妻になった。
魏が建てられると皇后を追贈された。諡は宣で、諡号としては武宣皇后。
元々は、現代で言うところのコンパニオンやキャバ嬢。
宴会芸から、それなりに舞台での演奏、演技をする演者まで幅広く存在した。
当時は歌妓の身分は低く、このような身分の女性を、正妻まで引き上げると言うのはかなり珍しい例と言える。
曹操の側室
歌妓であった、二十歳(曹操より5歳年下)のときに、曹操は彼女を家に入れて側室とした。
後年、曹操とともに洛陽にへ向かう。
董卓が動乱を起こした際、曹操は目立たぬ身なりをして東方へ出奔して難を避けた。
袁術が、曹操が死んだという知らせをしたとき、太祖の側近くに仕え、洛陽まで来た者達が皆国へ帰ろうとした所、卞氏がこれを引き止めて、
「曹君の吉凶はまだわかりません。今日国へ帰って、明日もし生存しておいでになったなら、 あわせる顔が無いではありませんか。 万一本当に災禍が起こったなら、 一緒に死ぬのに何の差しさわりがありますか。」と言った。
人々は卞氏の言葉に従い、曹操はその話を聞いてその態度を褒めた。
卞夫人
197年、宛城の戦いで曹操の長子である曹昂が戦死すると、彼を養子として我が子同然にかわいがっていた正室の丁夫人は激怒し、自ら実家に戻り曹操との復縁を拒絶、そのまま離縁されたため、代わって卞氏が正室となった。
曹操は、子供達のうち母のいない者全てを、卞夫人に養育させた。
230年に没し曹操と同じ墓に葬られた。
人物
華美を好まない倹約家で慎み深く、節度を重んじた。
客を招待しても肉や魚といった料理を出すことはなく、野菜や粟飯でもてなした。
曹操は多くの戦を繰り返し行っているが、常に兵糧不足の危機に瀕している(当時の中原は寒冷化と乱世で流民が続出したために耕作放棄地が多く、食料は慢性的に不足していた)。
倹約することは生き残るために欠かせぬ心構えであり、卞夫人はそれを忠実に実行することができた。
曹操が珍しい耳飾りを複数見せて選ぶように言うと、彼女は中級の物を選び、理由を問われると「上等の物を選べば欲深いと思われ、下等を選べば倹約を装っているだけと思われます」と答えた。
また、遠征中に老兵を見かけると声をかけて贈り物をするなど、とにかく自身の難しい立場を保守、謂れの無い誹謗を受けないような行動に腐心している様子がうかがえる。
曹操は「腹を立てたときにも顔色を変えず、喜んだときにも節度を忘れない。これこそ最も難しいことなのだ」と言った。
丁夫人との関係
卞夫人の側室時期、名門の出である丁夫人からは軽蔑されていたが良く仕えた。
丁夫人が曹操と離縁し、卞夫人は正室となった後も丁夫人を尊重している。
時候の挨拶を欠かさないなど配慮を続けたため、曹操の不在時には時折招待しているが、上座に丁夫人を座らせた。
以前は身分の卑しい卞夫人に対し意地悪が多かった丁夫人だったが、卞夫人の変わらぬ待遇に感動し「離婚され追われた者に対して、あなたは何故いつもこんなにしてくれるのですか。」と感謝するようになったという。丁夫人が亡くなった際には卞夫人が埋葬の許可を曹操に願い出た。
後年、曹操が病に苦しんだとき、自ら再起できない事を案じて、歎息して、
「わしはずっと思ったとおりにしてきて、心に背いた事は一度も無かった。 ただもし死人に霊魂があって、子脩(曹昂)が『父上、私の母(丁夫人)は何処におりますか』と聞いたなら、 わしは一体何と答えたらいいものだろうか。」と卞夫人に言った。
子供達との関係
自分が産んだ子以外曹操の子も平等に養育したが、自分の実子である 「曹丕」 と 「曹植」 の不仲に関しては、頭を痛めていた。
特に曹丕が薄情な性格だったことを気にしていて、曹丕が皇太子に選ばれたときも、
「それより私の教育が間違ってなかったかが心配だ」と言って喜ばず、曹丕には先立たれたが「世説新語」には、曹操の死後にその側室をそっくり曹丕が引き継いでいたと聞くと「あなたが食べ残したものは、狗も鼠も食べようとはしないでしょう」と言って、曹丕の墓へ行っても泣かなかったと記載されている。
よほど曹丕の性格が気に入らなかったようだ。
かつて卞夫人が病に倒れた時、曹丕の妻の甄夫人が心労のあまり泣き崩れた、その事を知った卞夫人は「何と親孝行な娘でしょう」と感嘆した、その甄夫人も曹丕に疎まれ自害へ追い込まれた。
また功臣の曹洪は曹丕の若い頃に借金を断ったことを恨まれ、些細な罪で処刑されそうになった。その際に卞夫人は曹丕の側室(郭女王)を「曹洪を殺せばお前もただではおかない」と脅して曹洪を解放させており、これらのことから曹丕には複雑な思いを抱いていたのだろうと思われる。