概要
呂布の配下として登場。史書の記述は断片的で、自身の食客が自らが所有する馬15頭を奪い、小沛の劉備のもとに逃げようとしたため、侯成は追いかけて馬を奪い返した。
ある時、5、6石の酒を醸造、10頭余の猪を狩猟して捕獲し、それらを同僚に振る舞おうとを考え、先に呂布へ猪5頭と醸造した酒五斗を献上して許可を得ようとした。しかし、その時呂布は自身を戒めるために禁酒中だったため、この行動に激怒し侯成は罵られてしまう。侯成は身の危険を感じ、同僚の魏続・宋憲と共に反乱を起こして曹操軍へ寝返った。
これが契機となって下邳城は落城し、呂布軍は滅亡した。
その後の史書に侯成の名は記されておらず、表舞台から退場する。
三国志演義
『三国志演義』では、呂布配下の八健将の1人(序列第8位)として登場する。最初の曹操との戦いでは、曹操を後一歩のところまで追い詰めるが、典韋に撃退される。
その後は史実通り、猪と酒を献上しようとして激怒され、罰棒50回の刑を受ける。この一件で呂布を見限り、呂布の赤兎馬を盗んで曹操に降り、魏続・宋憲と協力し、呂布・陳宮・高順を生け捕りにしたことになっている。その後は魏続・宋憲とは違い、登場しない。