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概要

五胡十六国の時代に、冉魏(正式には「魏」だが、他の魏を名乗った国と区別するため、冉魏と呼ぶ)を建国した初代皇帝。

この時代きっての暴君といわれる趙(後趙)の第三代皇帝石虎の養孫。20万もの胡人の虐殺を決行したことで知られる(この中には、夷狄と決めつけられた漢人も多数いたとされる)。後趙を滅亡させて自ら皇帝になったが、後に鮮卑慕容恪に敗れて、処刑される。


生涯

石虎は羯という異民族の出であったが、冉閔は漢人である。それが石虎の親族となったのは、次のような経緯である。

冉閔の父である冉良は、石虎の叔父である石勒に戦で負けて虜囚となるが、勇猛さを買われて石虎の養子となった。その後に生まれた冉閔も、石虎の養孫として遇されたのである。また、このような経緯から、冉閔は生まれた当初は、石閔という名であった。


漢人の習慣であれば、異姓の者を養子にしても、姓を変えることはあまり無く、また家の相続からも外されるのが通常である。しかし、石氏は異民族の生まれだった上に、親族が非常に少なかったことから、有能な者を同姓に迎える事で一族の基盤を広げようとしていた(日本で言うなら、豊臣の姓を大盤振る舞いした豊臣秀吉のやり方と似ている)。しかし、冉閔のこの後の行動を考えると、これは仇になるやり方だったと言わざるを得ない


冉閔は、父に負けず劣らずの勇猛果敢な将軍であり、石虎が生きていた時代はこれを助けて、様々な敵を撃破する働きを見せる。しかし、石虎が死去した後、後趙では後継者争いが発生する。

冉閔も石姓を与えられていたことから、自分には帝位を継ぐ資格があると主張。後継者争いに介入してこれを戦い、石氏の者を大勢殺害して実権を握ることに成功する。実権を握った後、石から先祖伝来の冉に姓を戻した。一方、石氏の生き残りである石祗は、冉閔に対抗して自らも皇帝を名乗り、冉閔と石祗は幾度も戦いを繰り広げることとなる。


冉閔が後趙の実権を握ったあたりから、中原は戦がない月がないほどだった。後趙が華北を統一していく過程で、華北各地の多くの漢人や、氐、羌、胡、蛮などの周辺民族など数百万の人々が、もといた場所から周辺などの後趙の中心エリアに強制的に移動させられる。俗に言う「中原大乱」である。


姚弋仲、前燕の援軍によって、冉閔の襄國攻撃を防ぎ、冉閔に大打撃を与えた石祗は、逆に劉顯に7万の兵を率いさせ、首都の鄴を攻撃させる。劉顯の軍は、鄴から23里の明光宮に布陣した。冉閔は、マズいと思い王泰を呼んで対応を協議しようとするが、王泰は先の戦いで、冉閔が自分の献策を無視して大敗北をくらっているので激怒しており、仮病を使って会おうとしなかった。これに対し冉閔は逆ギレし、自ら兵を率いて出陣、劉顯を迎え撃つ。劉顯は陽平というところまで追撃され、3万の兵を失う。挙句の果てに、冉閔に自分の主君の石祗を殺害することを約束し、許してもらうという屈辱まで負わされる。

冉閔はつい最近、10万の兵を失う大敗北を屈していながら、正面からぶつかるとやはり人智を超えたこの強さという、やはりこの男、五胡十六国時代最強で間違いない。


廉臺(れんだい)の戦い

352年4月、前燕君主慕容儁は、襄国を手に入れ常山や中山のエリアにもちょっかいを出し始めた冉閔と決着をつけるべく、慕容恪を投入する。


前燕軍が迫ってくる報を聞いた冉閔は出陣しようとするが、配下の将軍たちから止められる。

鮮卑どもは勝ち続けて調子づいております。そして我らの兵の数は少なく、やつらは大軍です。まともに当たるのは避けて、やつらの勢いが衰えたあとに兵を投入してこれを討つとよいでしょう」

これを聞いた冉閔は激怒し、

「わしは今いる兵を率いて幽州までも平らげ、慕容儁のやつを斬ろうとしているのだ!今たかが慕容恪なぞと当たるのを避けてしまえば、天下の諸侯はわしのことをなんと呼ぶと思うのか?!」

冉魏の臣はもはや止めようがないと、みんな自殺してしまう。


緒戦で冉閔は、慕容恪率いる前燕軍と10戦し、すべて勝利する。冉閔とその率いる精鋭の強さに前燕軍は恐怖しおののいてしまう。そこで慕容恪は味方の陣をめぐり、兵士を鼓舞する。

「冉閔は勇のものと言えども、無謀で匹夫の勇を誇るに過ぎない。率いる兵は飢えて疲れ果てており、精鋭ではあるが、使い物にならないだろう。打ち破るのは容易いことだ!」

冉魏軍は歩兵が多く、前燕軍は騎兵中心であることから、冉閔は前燕軍を林の中に引き入れて討とうとしていたが、慕容恪は参軍の高開の策を採用し、冉魏の兵を平地に誘い出し会戦に持ち込むことに成功。


ここで慕容恪は鉄の壁(連環馬)と包囲殲滅陣という戦術を用いる。

まず全軍を三軍に分け、鮮卑の弓が得意なもの5千を選び並べ、さらに鉄の鎖で馬をつなげ連環馬にし、中央に方陣を組みませる。

この中軍の連環馬で鉄の壁を作り(連環した馬はおそらく当時一世を風靡していた鉄騎という重装騎兵)、兵力自体が少ない冉閔軍が決死の突撃をしてくるだろうというのを読み切り、その突撃を鉄の壁で受け止め、その間に左右に伏せておいた兵で包囲攻撃し殲滅。

冉閔は朱龍という汗血馬に乗り、右手に両刃、左手に鉤を持ち、鬼の単騎駆けを仕掛ける。これによりあっという間に前燕の兵300人が討ち取られたという。しかし鉄の壁は突破できず、そこへ左右に伏せていた前燕軍の両翼が挟撃をしかけ包囲が完成、見事なまでの包囲殲滅が完成した。


が、魔王冉閔はこの何重にも包囲された状況から、冉閔はなんと朱龍と共にこの包囲を強引に突破。大軍の前燕軍から完璧に包囲されながら突破するというもはや項羽の域である。包囲を抜けた冉閔と朱龍は東へ20里走るが、そこでとうとう朱龍が力尽きてしまい、冉閔も前燕軍に捕らえられる。


廉臺の戦いのあと、冉閔は慕容儁のいる薊に連行される。

慕容儁は捕らえられた冉閔に問いかける。「お前は奴隷(五胡十六国の当時、漢人は弱い立場にあり、胡人から見下されることが多かった)で才能に劣るくせに、なぜ皇帝を称した?」

冉閔はこう答えた。「天下は大いに乱れておる。お前らのような北の広野から来た夷狄禽獣の類が帝を称しているのに、中原の英雄であるわしが皇帝を称せないことがあろうか!!!」

慕容儁はこれを聞いて激怒。冉閔を鞭で300発叩かせ、龍城へ監禁した。


前燕の鄴攻撃が続いている352年5月、冉閔は龍城において処刑される。処刑されたあと、なんと前燕国内で大旱魃が起き、蝗の害が起こるという。慕容儁はあまりに害がひどいので、冉閔を祀り悼武天王とした。死後もなお暴れ続けた冉閔。五胡十六国どころか中華屈指の大暴君である。


中国での評判

「夷狄を虐殺した」というのが中国では高評価されており、中国本国において高い人気を誇っている。中国では「どれだけ異民族に対して強かったか」というのが武将の評価で大きく左右する要素であり、そのため前漢霍去病や、蒙恬匈奴撃退において多大な成果をあげているため、同様の理由から人気である。


なおあくまでネット内での評価であり、中国の歴史学界や、中国全体での評価では無いことに留意されたし。武勇に優れ、大いに暴れ回ったことは確かだが、その支配した領域は非常に狭く、また皇帝を名乗ってから2年たらずで滅亡した。そのため「五胡十六国」の「十六国」に、冉魏は入っていない。


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五胡十六国 中国史 中華思想 暴君

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