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慕容恪

ぼようかく

「慕容恪」とは、五胡十六国時代の前燕の政治家・武将である。字は元恭。鮮卑慕容部の出身。

概要

鮮卑の慕容部の出身。慕容部が建国した燕(他の燕を名乗った国と区別するため前燕と呼ばれる)の初代皇帝慕容皝の子として生まれる。


母は、父から寵愛を受けていなかったため、当初、慕容恪は軽んじられていた。しかし、15歳になると、身長は八尺七寸にもなり、魁傑(体格に優れて逞しい事)、雄毅(雄々しく意志が強い事)、謹厳(軽はずみに動かず、真面目で厳かな事)を兼ね備えた人物に成長した。父にも、その才覚を認められるようになり、将来を期待されるようになった。


趙(後趙)の君主石虎が大軍で燕に攻め込んできた時、燕は籠城して耐えきった。趙が撤退する時、慕容恪は騎兵2千で奇襲をかけて、撤退する後軍を攻撃。3万を超える兵を討ち破った。

また、平郭(現在の遼寧省の一部)の統治を委ねられた時は、善政を敷き、安定させたという。また、目の前にあった朝鮮半島の高句麗にも攻め込み、大いに高句麗軍を破った。


燕では、格の兄である慕容儁が二代皇帝となり、そしてその3年後、趙でも石虎が死去した。すると、趙は後継者争いで混乱した。この後継者争いに冉閔が打ち勝つと、燕は予てから準備していた趙遠征を実行に移した。この軍の統率は、慕容恪に任せられた。冉閔は規格外の猛将であり、大軍で攻め込んだはずの燕を少数精鋭の軍で幾度も破った。しかし、慕容恪は軍の統率を怠らなかったため、燕軍の士気は落ちず、粘り強く侵攻を進め、ついに冉閔を滅ぼした。慕容恪は、趙の残党もことごとく討ち取り、燕は最大の敵を滅ぼして強国として君臨する。


慕容儁は病がちであり、若くして死去した。燕の貴族たちは、慕容恪に帝位を継ぐように要請したが、慕容恪は固辞して、予定通り、儁の子である慕容暐が三代皇帝となった。そして、慕容恪は摂政となった。事実上、国を思うがままに動かせる地位となったが、慕容恪は慕容儁を軽んじることはなく、慕容儁も慕容恪を信任していた。ある時、重臣の慕輿根が、慕容恪の地位を妬み、皇帝に讒言しようとしたが、慕容儁は慕容恪を信じ、その言葉を聞き入れなかった。


やがて慕容恪は、燕の全盛期を作り上げた。しかし、その後、慕容恪は病に倒れる。慕容恪の後を継ぐのは、大司馬の職にあった慕容評であると思われた。慕容評は、恪とともに燕を支えた有能な政治家だったが、一方で猜疑心が強く私欲が強いという悪癖があった。そのため、慕容恪は評に「大司馬の職は兵権を統べるもでのであり、人を誤ってはならぬ」と遺言を残して死去した。


しかし、慕容評は慕容恪が心配した通りに、私腹を肥やすようになり、燕の国力は低下し始める。また、敵国である秦(前秦)や晋(東晋)に対峙して功績を上げていた慕容垂を嫉妬心から殺そうとして、逆に慕容垂が秦に亡命してしまう事件を引き起こす。慕容垂がいなくなった事で、前秦の苻堅王猛に対峙できる武将がいなくなってしまい、やがて燕は滅亡することとなる。


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