概要
前秦3代目皇帝。五胡十六国時代の主人公といってもよい人物。
351年長安に秦(前秦)を建国した苻健の甥にあたり、暴君だった第二代の苻生を殺害して第3代の皇帝となった。王猛など有能な部下に支えられて国力を富まし、同じく北方民族の鮮卑を抑え、前燕と前涼を滅ぼして華北統一を果たした。
苻堅はチベット系の氐人(テイ)であったが、かつて後趙の都の鄴に人質にされて成長したので中国的教養も身につけ、長安の漢人王猛を登用して宰相とするなど、漢文化とのバランスを取ることができた。
華北統一後、苻堅は江南で大国に成長していた東晋も討とうと、壮大な夢を画策していた。しかし丞相の王猛は「東晋に手を出してはならない」と言い遺し、他界。それでも華北を統一した苻堅は東晋も攻めたくなる。
苻堅は「わが軍のひとりひとりが鞭を投げ込んだだけでも、揚子江の流れぐらいはせきとめられるぞ」と豪語。
王猛の死後も、東晋討伐に反対する家臣は多く、賛成したのは鮮卑の慕容垂ただ一人だったという。慕容垂は、もともとは前秦と敵対する燕(前燕)の武将だったが、派閥争いに負けて亡命してきた経緯があった。この慕容垂も、内心では東晋への進軍が成功するとは思っておらず、自身の一族がこれを機会に栄達できると考えて賛成したと言われる(なお、王猛は、慕容垂の聡明さを危険視し、殺した方がいいと進言していたが、苻堅はこの進言を退けていた)
383年、先鋒軍団25万の他、みずから歩兵60万、騎兵27万と称する大軍を率いて南下を開始した。これが五胡十六国最大の戦い・淝水の戦いである。
川を境にしての大決戦。苻堅率いる前秦軍は夏の終わりから進軍してきていたので暑気にやられていた。さらに諸民族の寄せ集めである上に、多くの家臣は前述通り東晋への進軍に反対していたため、戦いへのモチベーションは低かった。対する東晋の主力である広陵に駐屯している北府の軍隊は、胡人の南下を阻止することが任務と心得ているので戦闘意欲が高い。
火蓋は切って落とされ、淝水を渡ってきた東晋軍は前秦軍の先鋒を破り、前秦軍は烏合の衆と化した。
苻堅自身もその乗車を捨て、騎馬で約千人の親衛隊のみを引き連れて北に向かって逃れなければならなかった。
大敗北を喫した苻堅は、無傷で兵を維持していた慕容垂を頼る。慕容垂の幕僚のなかにはこの機に苻堅を討ち取ろうという者もいた。しかし、慕容垂は助けてもらった恩を忘れるほど恥知らずではなかったため、「一片の不信も持たずに身を寄せてきたのだ。それをどうして殺せよう」といって彼を保護し、苻堅はまもなく都・長安に帰ることができた。
この苻堅が淝水の戦いで敗れたことは、華北で彼に抑えられていた北方民族に独立チャンスの到来となったことはやむをえず、これまで以上に各地の鮮卑や羌族が様々な国家を建設していった。慕容垂も、この後、苻堅と敵対こそしなかったものの、王猛の危惧した通り前秦から離れて、燕(後燕)を建国することとなる。
苻堅自身は、385年には漢中で独立運動を介した部下の姚萇に捕らえられ、殺される。
その後、前秦は苻堅の位牌を奉じて394年まで存続するが、姚萇の子・姚興により滅ぼされた。
人物
- 腕が膝に届き、目に紫光を宿すという異様な見た目だったとされる。そもそも五胡十六国時代はこういう容姿の人物のオンパレードである。
- 当時13歳だった慕容沖とその姉の姉弟丼にメロメロだったとか。
- 高句麗に高僧を招き、朝鮮の仏教布教に端緒を開いたとされる。
関連タグ
参考
- 世界史の窓
- 宮崎市定「大唐帝国」