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劉淵

りゅうえん

劉淵は、五胡十六国時代に建国された前趙の創建者。字は元海(げんかい)

概要編集

匈奴の出身。匈奴と言っても、劉淵の属していた氏族は、に服属して、漢人とともに并州(現在の河北省から内モンゴル自治区の一部)に住んでいた。


祖父は三国時代曹操に屈服した南匈奴の単于であった於夫羅。父は左賢王劉豹。この劉豹の代より、劉姓を名乗るようになった。これは前漢冒頓単于より、匈奴と漢皇室との間に姻戚関係があることに由来する。


このような出自なので、劉淵もまた漢人の社会で生きていくことになる。から見ると、匈奴が反乱を起こさないための人質に近かったが、一方で待遇も高かった。劉淵は当代一流の儒学者に学び、また高位の貴族たちと交友を結んだ。が滅び、の時代になっても待遇は変わらなかったが、やはり異民族であったことから、なかなか栄達はできなかった。


父の劉豹が死ぬと、匈奴への帰還を許される。司馬衷の時代になると、匈奴を統括する建威将軍・匈奴五部大都督へと昇進する。やがて、司馬一族が皇帝を巡って骨肉相食む八王の乱が起こると、劉淵は八王の一人である成都王司馬穎に仕える。

劉淵は司馬穎とは別行動を取り、兵を集めることを命じられる。流浪し、困窮していた匈奴や、匈奴以外の異民族、漢人などを雇い入れ、数万の大軍を組織することに成功する。ところが、その間に司馬穎は大敗してしまう。劉淵はこれを助けようとするが、味方の匈奴は漢人から奴隷扱いされる事にうんざりしており、落ち目となった漢人の王を助けるという命令に反発した。


結果として、劉淵は司馬穎から独立することになる。国号は「」とした。建国の名目として、後漢そして蜀漢の復興を旗印とし、劉淵は劉禅の後継者を名乗ることとなる。

(後に「」に改める。他の「趙」と呼ばれる国と区別するため、現代ではこれを「劉趙」または「前趙」と呼ぶ)


なお、この時はまだ皇帝は名乗らず、あくまで漢朝の復興を旗印にするにとどまる。

建国当初、劉淵は精彩を欠く事も多く、劉琨が率いる千人程度の部隊に敗北するなど、辛酸を嘗めた事もある。


劉淵は、周囲の鮮卑烏桓、また漢人なども糾合し、晋の軍を退けながら、国家としての体裁を整えていった。そして、元熙5年(308年)、劉淵はついに皇帝に即位する。

漢人に近い人生を歩んでいたとはいえ、漢人以外の異民族が「皇帝」と呼ばれる国を作ったのは、劉淵が中華史上、初である。これにより、異民族の国家が次々に建つ五胡十六国の時代が到来した。


匈奴の文化にも、漢人の文化にも通じる劉淵は、匈奴や漢人にも不利益が出ないように国を治めた。このため、皇帝としての評判は、匈奴からも、漢人からも、評価も高かったという。


また、その身長は8尺4寸(2m)にも達していたという。3尺余りの鬚、その真ん中に3尺6寸の赤く細い毛が3本生えているという特徴的な風貌(魏時代は1尺=24.1㌢)。


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