概要
プロフィール
人物
まずこの人物を一言で言い表すなら「中国史における暴君の中の暴君」という表現が適切だろう。
というのも、自分の命令に反した者や自分に諫言したものはことごとく残虐な方法で殺したからだ。それは農民や家臣、あるいは皇族にまで及んだ。同じく暴君と称される朱全忠や朱元璋ですら農民には善政をしいたという逸話があるものの、この苻生にはそういった逸話が全くと言っていいほどない。
この皇帝に仕えた人物は、常に死と隣合わせであったと言っても過言ではない。
経歴
苻生は生まれつき隻眼だった。また、そのコンプレックスからか、幼いころから粗暴な振る舞いが多く、祖父の苻洪は、そんな苻生のことを忌み嫌っていた。苻洪は事実上の前秦の建国者である。
ある日、その苻洪は、苻生の従者に次のように訊ねた。
「片目の小僧は、片目からだけ涙を流すという聞いたことがあるが、まことかね?」
事もあろうに隻眼の苻生を貶めたのである。こんなお祖父ちゃんは嫌だ。
しかし、従者が「左様でございます」と答えるのを聞くと、苻生は刀を抜き、見えない方の目を突いて血を流し「祖父上、まさかこれも涙と言うのですか?」と言い放ったという。
祖父に憎まれていた苻生なりの精一杯の抵抗だった。
苻洪はこれに怒り、苻生を鞭打った。それでも苻生は「刀剣は少しも怖くありませんが、理不尽なお仕置きには我慢できません」と反抗した。
「これ以上言うことを聞かないなら、わしはお前を奴隷の身に落とすぞ」と脅しても、「石勒(後趙の創建者で、奴隷の身から皇帝になった)も奴隷でした」と言い返した。
苻洪は子の蒲健(後の苻健。苻生の父親)に対し「この子は非常に残暴であり、すぐに排除するべきじゃ。さもなくば、必ずや家人を損なう事になるとも限らぬ」と言った。これを聞いた蒲健は蒲生を殺そうと考えたが、苻生の叔父の蒲雄(後の苻雄)が「子供は成長すると自然に改めるものです。どうしてこのような事をする必要があるのです!」と諫めたので、蒲健は思い止まったという。
長じて、苻生の武芸は当代随一と言われるほどの勇猛な若者となった。戦では、敵陣への突撃を繰り返して数多の敵将を討つなど、素晴らしい功を上げた。だが、粗暴な性格は少年時代と変わらず大酒を飲み、人殺しを好んだ。
皇太子だった兄が戦での矢傷がもとで死に、苻生は皇太子となる。そして、前秦の初代皇帝であった父の苻健が病気で亡くなると、苻生が帝位を継ぐくことになった。20歳ごろのことであった。
父の苻健は死に際し、重臣らを呼んで苻生の政治を助けるよう遺命していた。しかし、苻生はこれらの重臣、そして皇族たちをも次々に殺していく。
- ある日、苻生は「大魚が蒲を食べる」という不思議な夢を見た。「蒲」は苻氏の元々の姓である。不吉に感じた苻生は「この夢の中の魚は太師(皇帝の師とされる)の魚遵のことだ」と見做し、魚遵とその7人の子、10人の孫を殺した。圧倒的理不尽!
- 強平という家臣がいた。苻生の母方の叔父である。しかし、この強平が苻生の殺戮を強く諫めたところ、苻生は激怒して強平の頭頂に鑿を打ち込んで頭蓋に穴をあけて殺した。
- 丞相の雷弱児も直言の士であったが、やはり怒り苻生の怒りをかって9人の子、27人の孫とともに殺された。
- 苻生は家臣の接見を受けるとき、常に弓を引きしぼったり、抜刀したりしていた。
- 玉座の左右には、常に「錘(先に重りが付いた鉄棒。メイス)」「鉗(ペンチ)」「鋸(のこぎり)」「鑿(のみ)」などが常備されていた(メイン画像参照)という。もはや皇帝というかガンダムバルバトスである。
- ある時、苻生は囚人の頬の皮を剥いだ。そして、その皮が顎にぶら下がっている状態で、ダンスをさせた。その様子を群臣らにも鑑賞させて楽しんだという。
- またある時、苻生は別の宮殿に向かう際、見目麗しい男女に出会った。「お前たちは夫婦かね?」と尋ねると、兄妹であるという。苻生は二人に「その場で性行為をせい」と命じたが、二人が拒絶したのでこれを殺した。
- さらにある時、苻生は皇后とともに楼台に上がった。すると、后が眼下を歩く男性を指さして「あの人は誰でしょう」と言った。その男は賈玄碩という役人で、美青年であった。苻生は賈玄碩が后に色目を使ったと思い込んだのだろう。即座に賈玄碩の首を斬るように命じ、その生首を后に見せながら「お前が欲しいならあげるよ」とにこやかに言った。怖すぎる……
- 苻生は「不足、少、無、缺、傷、残、毀、偏、隻」などの文字の使用を禁じた。それは、苻生が自分が隻眼であることが生涯コンプレックスになっていたからだ。そして、禁を破ったものは皇族や側近でも関係なく足を切断したり、首をノコギリで切るなどの残酷な方法で処刑した。特に首をノコギリで切るのは刀で一撃で首を落とすよりも苦しみを長引かせるからだ。
- ある日、苻生は侍医に薬の調合を命じた。その際、「いい人参(野菜のニンジンではなく、薬用の朝鮮人参)と悪い人参の違いは何だね?」と尋ねた。侍医は「雖小小不具、自可堪用(小小にして具へざると雖も、自ら用に堪ふ可し:小さくて形が悪くても、使い道はあります)」と答えた。この「具へざる」の部分が、自分が隻眼であることを侮辱されたと感じて怒った苻生は、この侍医の目をえぐり出して、その後殺した。
- 356年10月、苻生は大好物のナツメ(クロウメモドキ科の木本植物。果実は食用になる)を多く食し、翌朝になると腹の具合が悪かったので、太医令の程延を呼び寄せて診断させた。程延は「陛下はどこも悪くありません。ただナツメを食べ過ぎたことによって腹痛が起こっただけです」と答えると、苻生は怒って「お前は聖人でもないのに、どうして私がナツメを食べたと思うのだ!」と言い、これを殺害した。無茶苦茶である。
- ある日、苻生は側近のものに「皆は私の治世についてなんと言っているのだね?」と尋ねた。怯えた側近が「聖明なる陛下のおかげで信賞必罰がいきわたり、みな天下泰平を謳歌しております」と答えると「お前は私に媚びへつらうのか⁉」と怒ってこれを殺した。
- 後日、苻生は別の側近に同じ質問をした。今度の者は前車の轍を踏むまいと「畏れながら陛下の刑罰は厳しすぎます」と答えたが、苻生は「お前は私を謗るのか⁉」と怒ってこれも殺した。どないせえっちゅうねん。
- 苻生は酒乱であった。宴席に遅れてくるものは殺した。さらに、宴席であまり酒を飲まない者がいるのが許せなかった。そこで、辛牢という家臣に命じて、各々の酒の進み具合を監視させた。しかし、酔っ払ってくると「なんだなんだ、全然酔わないできちんと座ったままの奴がおるのう。辛牢よ、何をしておったのだ、役立たずめが。こ奴らにもっと酒を飲ませ酔わせろ」と怒り出し、弓で辛牢を射殺した。これに驚いた群臣たちは慌てて酒をあおる。結果、皆が酔い潰れて衣服を汚し、床に倒れ伏すという惨状。それを見て苻生は上機嫌で宴席を引き上げていったという。
…こんな粗暴どころではない性格の男が皇帝では、家臣や一族の心は苻生から離れていくのも無理からぬ話だ。それでも尚、処刑覚悟で符生に進言する者も後を絶たなかったが、当の本人は「ワシは天帝の命を受け、先代の王の地位を継いで、万国を統治し、百姓共を我が子の様に可愛がっており、何ら不満は無いであろう!なのにワシへの誹謗が天下に溢れているとはどういう事だ!?」と取り合うどころか逆上し、自身への批判や進言を一切禁じてしまう有り様だった。
一説によれば本人が直接500人を殺し、死刑を命じた者はさらに1000人を超えたというが、苻生は罪悪感など抱くどころか、「ワシよりもっと多く殺した奴など過去の歴史にいくらでもおるのに『残忍』などとほざきおる!」と逆切れするほどであった。こんな有り様故に、街中では猛獣や盗賊が歩き回る程に治安が悪化するが、符生はといえば「野獣とて人を食えば腹一杯になるだろうから放っておけ」と全然対象すらしなかったと言う。
当然、こんな生活が長く続く訳が無く、苻生の従弟である苻堅(前秦の第3代皇帝)が反乱を起こすと、みなこれに従った。兵士たちが苻生の寝所に乱入すると、苻生はいつものように酔い潰れて眠っていた。やっと目を覚ますと「どうして私にひざまずかないのだ!殺すぞ!」と怒鳴りつけたが、兵士たちにはそんな脅しは全く通用しなかった。
苻生は別室に移され処刑された。その際もベロベロに酔って正体もない様子であったという。推定享年22。
関連タグ
鬼舞辻無惨:やっていることがほとんどこいつと変わらない架空の人物。知能も同レベル。
短気は損気:正にこれを体現したかの様な人生である。